75.森の娘
我らが守る森の子。千年以上前の集落の民が、この女を自分たちの子と呼び、家族のように思っていた。
イーガはメアの後ろに佇むカナを見つめていた。何が起きているのか完全には理解できていないが、ただならぬ空気は感じ取っていた。
グラムが震える手で拓本を拾い上げ、丁寧に皺を伸ばした。
「他にも文字がある。全部読めるか」
拓本を掲げ持つ老学者の声に、懇願に近い響きがあった。
何度目かの瞬きのあと、小首を傾げて、カナは読み上げた。
「ヴァルムとアイベリアは最後の砦。我らも魔物も残りわずか。これ以上進ませはしない……?」
廊下の空気が凍った。
穏やかな声だった。いつもの、のんびりとした調子で、千年前の碑文を読み上げている。だがその言葉の意味は、聞く者の血を冷たくするに十分だった。
最後の砦。グラムの顔から血の気が引いていた。老学者の頭の中で、歴史の断片が猛烈な速度で組み替えられている。ヴァルム王国が滅んだ原因は、これまで諸説入り乱れて定まっていなかった。飢饉説、内乱説、疫病説。だが目の前の碑文が語っているのは、そのどれでもない。
「待て、待て待て。ヴァルムとアイベリアが共同で魔物と戦っていた、そう書いてあるのか」
カナが小さく頷いた。グラムが壁に手をついた。膝が震えている。
「ヴァルム滅亡の原因が魔物の侵攻だと?千年間、誰一人としてその結論に辿り着けなかったものを……」
メアの目が細くなった。この男の頭は、学者とは別の回路で動いている。人間がいなくなった後、森は魔物の巣窟と化した。そしてカナは眠りについた。つまり因果が逆だった。カナが眠ったから魔物が増えたのではない。カナを守る人間がいなくなったから、森が魔物に飲まれたのだ。
碑文の言葉を借りれば、「我らが守る森の子」を守る者が、いなくなったのだ。
「……カナ」
メアの声が低かった。
「お前は、その戦いの時、何をしていた」
静かな問いだった。だがその奥に、刃のような鋭さがあった。森の主と呼ばれるほどの存在が、人間たちが魔物に蹂躙される中で何をしていたのか。守らなかったのか。守れなかったのか。あるいは、守ることを許されなかったのか。
廊下の影が長く伸びていた。グラムの震える手が、拓本を胸に抱きしめていた。
カナの黒い瞳が、メアを見上げた。
「騒がしくなるから、少しだけ泉で寝ていなさいって。女王様も、アイベルも、森も。それで、私は……」
カナの声が途切れた。
後に続くはずだった言葉が、廊下の空気に溶けて消えた。カナの表情は穏やかなままだった。悲しみは真珠の中にある。だからこそ、その途切れ方が残酷だった。感情を伴わずに語られる事実は、時として恫哭よりも深く人の胸を抉る。
皆が言ったのだ。寝ていなさい、と。
女王がそう言ったのだ。アイベルもそう言ったのだ。森もそう言ったのだ。全員がカナを泉に送り出した。「少しだけ」と言って。そして誰も、迎えに来なかった。
国は魔物に呑まれ、集落は灰になり、画師は死に、女王は斃れた。終わりの来ない「少しだけ」は千年になった。そして目を覚ました時、泉の周りには魔物しかいなかった。彼女を送り出した手も、声も、笑顔も、何一つ残っていなかった。
グラムが拓本を握りしめたまま、壁にもたれていた。老学者の目から雫が落ちたが、本人はそれに気づいていなかった。
メアは動かなかった。
黒い目がカナを見つめている。その顔には何の表情もなかった。感情が多すぎて、どれを浮かべればいいのかわからないのだ。怒り。悲しみ。女王と画師への、行き場のない感謝と憎悪の入り混じった何か。そして、千年間泉の底で一人だったカナへの、言葉にならない痛み。
メアの手が伸びた。
カナの頭に触れた。撫でるというには硬く、掴むというには優しい。ぎこちない触れ方だった。
「騒がしいのは、もう終わった」
気の利いた言葉も、慰めの台詞も、この男の口からは出てこない。だがその手はカナの頭の上から離れなかった。
廊下の窓から差す夕陽が、二人の影を一つに重ねていた。
カナの表情は変わらなかったが、ボロボロと涙が湧いては零れていた。こぼれた雫が、石畳に届く前にふわりと浮き上がった。一つ、二つと増えていき、夕陽を透かして蛍のように廊下を漂い始める。それは真珠に預ける暇もなく溢れ出した、生まれたばかりの悲しみだった。
「私は強いよ。魔物くらい、追い払えたよ」
事実だった。対峙したメアも理解している。戦えたはずだ。守れたはずだ。女王も、アイベルも、集落も。
だからこそ、彼らはカナを泉に送った。
戦わせたくなかった。我らの娘を、我らが守る。碑文にそう刻んだ民は、その言葉の通りに生き、その言葉の通りに死んだ。血を見せまいと、手を汚させまいと、「少しだけ」と嘘をついて眠らせた。
涙がカナの頬を伝っていた。表情は変わらない。穏やかな顔のまま。真珠に込めた古い悲しみとは違う、今この瞬間に生まれた新しい痛みだ。千年前には理解できなかったことが、人間と暮らし始めた今になって、ようやくわかってしまった。あの人たちが何をしたのか。なぜ嘘をついたのか。
メアの手が怒りに強張った。千年前の女王に。画師に。カナを愛しながら置き去りにした全員に。そして同時に、自分もまたいつか同じことをしかねない人間の一人であることに。
「強いことと、戦えることは、同じじゃない」
低く、硬い声だった。
メアの手がカナの頭からゆっくりと滑り降り、引き寄せた。涙が胸元の布地に小さな染みを作る。頬をかすめていく光の粒には目もくれず、腕の中で声もなく泣く女だけを、潰れそうなほど強く抱きしめた。
森の気配が廊下に満ちる。圧倒的で原初的な、悲しみという感情が、この存在にとっては物理的な力を伴うのだと、その場にいた全員が肌で感じていた。
老学者の手はまだ震えていたが、その目には決意が宿っていた。千年前の民が命を賭けて守ったものの記録を、自分の手で蘇らせる。それが学者にできる唯一の弔いだった。
涙はまだ止まらなかった。千年分の「少しだけ」が、ようやく終わりを告げようとしていた。
「私が起きていたら」
その声は小さかった。メアの胸元に押し付けられた顔から漏れた、くぐもった響きだった。守れたのに、守らせてもらえなかった。目が覚めた時には全部終わっていて、森には魔物しかいなくなっていて、泉の底には捧げ物だけが残っていた。
今、新しい悲しみが溢れている。生まれたばかりの苦痛となって。
メアにできる唯一の慰めは、腕を離さないことだった。カナの小さな体が震えるたびに、その振動がメアの胸骨を通じて心臓に届いている。
グラムが、老いた目で浮遊する涙の粒を見上げていた。光を孕んだ雫が漂う廊下は、まるで泉の底のようだった。カナが千年を過ごした、あの光る苔に照らされた空間のように。
グラムが口を開いた。
「森の主、カンナイル。我らの客人よ。我らにできうることがあれば、なんなりとお申し付けください」
老学者が膝をついた。
それは儀礼的な動作ではなかった。石畳の硬さが老いた膝に食い込むのも構わず、グラムは深く頭を垂れた。光の粒が漂う中、拓本を胸に抱いたまま、白髪の頭が廊下にさす夕陽に照らされている。
イーガは唇を引き結んだまま、姿勢を正し、拳を胸に当てた。騎士の礼を。
「俺らのことも、頼ればいい。友だちなんだから」
森の子。森の娘。あの言葉を刻んだ民は滅んだ。その意志が、時を超えて、全く別の人間の口から発せられている。
メアだけが立ったままだった。膝をつくことも、敬礼もしない。ただ腕の中のカナを抱いたまま動かなかった。その黒い目に宿っていたのは、同意でも否定でもなかった。
千年前にも、同じ言葉を口にした者たちがいた。守ると誓い、愛すると刻み、そして最後にはカナを泉に沈めて死んでいった。言葉だけでは足りない。誓いだけでは届かない。
涙の粒が、少しずつ光を失い始めていた。一つ、また一つと、透明な雫が床に落ちて砕ける。夕陽が沈みかけている。廊下に影が伸びていく。
カナの肩の震えが、僅かに小さくなった。
「私を守るなら、私にも守らせて」
雫が光を失い、ぽたりと石畳に落ちた。
カナはメアの腕の隙間から顔を上げ、涙に濡れた黒い瞳で真っ直ぐにメアを見ていた。
騎士として、夫として、守ると決めた。千年前、愛する者たちは彼女を泉に閉じ込めて死んでいった。守るという名目で、その力を、意志を、選択する権利を奪った。それがどれほどの傷を残したか、メアは今日知った。カナが求めているのは、一方的な庇護ではない。
だが、カナに守らせるということは、危険に晒すということだ。人間の時間は短い。カナの時間は果てがない。その短い命をカナに守らせても、同じことが起きるだけだ。守り、失い、泣くことに変わりはない。
隣に在ること。自分のなすべきこと。メアの喉の奥で言葉が押し合っている。
グラムがゆっくりと立ち上がった。老いた膝が軋む音すら聞こえるような、重い静寂が満ちていた。
「……儂は書庫に戻る。やるべきことが山ほどある」
老学者は拓本を懐に収め、背を向けた。だがその足取りは来た時の勢いとは別物だった。一歩一歩が重く、噛み締めるような歩みだった。廊下を曲がる直前、グラムが振り返らずに呟いた。
「カンナイル。お前さんが読んでくれた言葉は、必ず記録に残す。あの民が刻んだものを、二度と埋もれさせはせん」
老学者の背中が、夕闇に沈む廊下の向こうに消えた。
夜が騎士団宿舎を包んでいた。
メアの部屋は狭かった。騎士団宿舎の個室など、寝台と小さな机と椅子を押し込めばそれで一杯になる程度の広さしかない。その寝台に二人分の体が収まっている。カナの小さな体がメアの腕の中にあった。婚姻して以来の習慣だった。
カナの呼吸は穏やかだった。泉の底で千年をそうして過ごしたように、静かに眠っている。メアの胸元に額を寄せ、薄い肩が規則正しく上下している。
時折、閉じた瞼の縁で新しい雫が睫毛の先に浮かび、薄闇の中で震え、やがて滑り落ちていく。体が覚えようとしているのかもしれない。新しい悲しみの形を。
メアは眠れずにいた。
腕の中の温もりと胸元に感じる悲しみの冷たさが、メアの肋骨の奥にまで沁みた。
カナが差し出したもの、メアが受け取ったもの。寿命を分け合うという、人間の理を超えた約束。どちらかが先に消えることのない、対等な形。
カナは悠久の命の半分を差し出し、メアの短い命の半分を受け取った。人間の一生が砂粒ほどの時間でしかないことを、メアは知っていた。カナは自分の永遠を削って、メアの砂粒を拾い上げたのだ。あまりにも小さな砂粒を。
半分こにした寿命は、メアにとっては途方もない時間で、カナにとっては初めて手にする有限の命だった。永遠を生きる者が終わりを選んだ。いつか必ず来る終わりを、隣に並んで迎えるために。彼女が求めていたのは最初からそれだった。守るでも守られるでもない。同じ速さで歩き、同じ場所で止まること。
腕の中で、カナの指がメアの寝間着を握っている。眠ったまま、離すまいとするように。
頬に新しい涙が伝った。メアの指が、それを拭った。粗い指先が濡れた頬を辿り、顎の線をなぞり、黒髪に触れた。拭っても拭っても涙は止まらなかった。
「……一人にはしない」
誰にも聞こえない声だった。だが千年前とは違う。この言葉には、嘘がなかった。腕の中で、森の主が静かに泣き続けていた。窓の外では、月が薄い雲に隠れている。
腕の中に感じる鼓動が自分のものと重なるのを感じる。
朝が来るまで、メアの目が閉じることはなかった。




