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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
70/74

70.思い出の欠片

 婚姻届に書いたのと似た文字を、カナは紙の上にさらさらと書き記した。

「これが女王様、これが絵描きさんの名前。絵描きさんは……アイベル……とても仲良くしてくれて、よく会いに来てくれてた」

 カナの指がペンを走らせるたび、流れるような古代の文字が白紙の上に浮かび上がっていく。現代の人間には読むことすら叶わないその筆跡には、千年の時を超えてなお息づく確かな意志が宿っていた。

 エイが身を乗り出した。金色の目が紙面に釘付けになっている。

「これが女王の名……こちらが画師の」

「アイベル」

 その名を口にした時、彼女の声が僅かに柔らかくなった。

 メアがカナの横顔をじっと見つめる。千年前の記憶を語る彼女の表情は穏やかだった。

「アイベル。古代国家の、宮廷画師ですか?」

 エイのペンが走った。だが、カナの言葉の意味にこの副官の頭脳が追いついた瞬間、その動きがぴたりと止まった。

 森の主のもとへ、古代国家の宮廷画師が幾度も足を運んだという事実。それは女王の許しなくしてはあり得ないことだった。つまり古代国家は、森の主との交流を継続的に、かつ公式に認めていたのだ。石板は一度きりの献上品などではなく、長期にわたる外交関係の産物だった。

「カナさん。アイベルという方は、石板以外にも何か残していませんでしたか」

 エイの声は穏やかだったが、その目の奥では宰相家の血が沸騰していた。千年前の外交記録が他にも存在する可能性に、彼の政治的嗅覚が鋭く反応していた。

 カナは首を傾げた。記憶の底を探るように瞬きを繰り返し、やがて口を開く。

「王様にあげた剣、あれもアイベルのものだよ。泉に落ちてたもので、もらったわけじゃないけど。あとは絵なら沢山くれたから、森にまだあるはず」

 エイが椅子の上で固まり、メアが静かに目を閉じた。

 泉の底に、古代の宮廷画師が森の主に贈った絵画が眠っている。それは単なる訪問記録を超えた、継続的な関係を示す一次資料の山だ。それがあの泉の底で、千年もの間眠り続けていた。

 エイは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それから、極めて丁寧な声で問いかけた。

「……差し支えなければ、泉から数点、引き上げていただくことは可能でしょうか」

 落ち着いた声とは裏腹に、ペンを握る手の甲には青い血管が浮いていた。

 メアが目を開け、カナを見た。無理にとは言わない、と伝える目だ。窓の外では、夕陽が最後の赤を屋根の向こうへと沈めようとしている。

「あの石板以外は、私の絵しかないよ。私の絵を描くのが好きだったみたい」

 エイのペンが紙の上で静止した。

 その言葉の意味を、エイは懸命に噛み砕いていた。宮廷画師アイベルが何度も森を訪れ、描き続けたのは風景でも女王でもなく、カナだった。泉の底に眠る絵画は、すべて森の主の肖像画なのだ。

 法的証拠としての価値を計算する思考が、一瞬だけ揺らいだ。千年前の画師が森に通い詰め、森の主の姿を描き続けた。その行為に込められた情熱を、エイは政治の道具にしようとしていた。

「……そうですか」

 短い沈黙の後、エイはペンを置いた。

「では、泉の絵はそのままにしましょう。アイベルがカナさんに贈ったものですから」

 メアがエイを見た。その判断の速さに僅かに目を瞬かせる。エイは視線を受け止め、小さく首を振った。要りません、という合図だった。

「王城に献上した石板だけで十分です。女王の名、画師の名、日付、星の位置。カナさんが書き写してくださった文字を手がかりに翻訳を進めれば、所有権の根拠は固まります」

 エイが書類を整え、戦略メモに最終的な方針を書き加えた。泉の底の絵画には触れない。石板一枚で勝負する。ランティス家の政治感覚からすれば愚策かもしれないが、エイはそう決めた。

 誰かの大切なものを、政争の弾にはしない。

「それに、石板には水中の白い蛇が描かれていたはずです」

 エイの声が、僅かに好奇心を帯びた。泉の中の、巨大な白い蛇。献上の場で王も目にしたあの石板に刻まれた姿と、目の前で林檎を転がしている小柄な女性が同一の存在であるという事実は、何度考えても頭の整理が追いつかない。

「アイベルという画師は、蛇の姿を知っていたということだ」

 メアが静かに言った。その声には、本人すら気づいていない微かな棘があった。千年前の画師が何度もカナのもとを訪れ、その姿を描き、仲良くしていた。その事実に、メアの中の何かが小さく唸っていた。

 エイだけがそれに気づいた。金色の目を一瞬だけ丸くし、慌てて書類に視線を落とす。上官の、千年前の故人への嫉妬に気付いたのだ。

「そうだね。いつも褒めてくれてた。人の形じゃないときも、真珠みたいできれいだって。手触りがいいって撫でてくれて、優しかった。いい人だったよ」

 メアの顎が、僅かに引き締まった。

 表情こそ変わらなかったが、腕を組む力は強くなり、壁にもたれた肩が微かに上がっていた。カナは気づいていなかったが、エイはそれを確実に見抜いていた。

 きれい。手触りがいい。撫でてくれた。

 千年前に死んだ画師が、巨大な白蛇の鱗を撫でた。何度も森に通い、絵を描き、褒め、触れた。その男を、いい人だった、とカナは懐かしむように、穏やかな声で言った。

 メアの喉仏が上下した。

「……そうか」

 完璧に平坦な声だった。

 メアが壁から背を離し、卓に歩み寄ってカナの隣に立った。彼女が書いた古代文字を見下ろす。アイベルの名が記された箇所を、その黒い目がじっと見つめていた。

「石板の翻訳は任せる」

 エイに向けられた言葉だったが、視線は名前に据えられたままだった。既にこの世にいない人間に対する、行き場のない、しかし確かな熱を孕んだ感情。剣でも命令でも消せないものに対して、メアは静かに何かを燃やしていた。

 メアの手が伸び、カナの頭に触れた。黒い髪を、不器用に一度だけ撫でる。

 その手つきには言葉にならないものが滲んでいた。自分もきれいだと思っている。好きなだけ撫でてやる。そして俺は、今ここにいる。千年前の画師にはもう叶わないことを、自分はできるのだと確かめるように。

 カナの黒髪が、メアの指の間を滑り落ちた。

「今もちゃんと残してある」

 小さく聞こえたその言葉に、メアは胸を刺されたように感じた。それほど悲しいことだったのか。その男が来なくなったことが。果てしない時間の中で心を押し潰してしまうほど。

 メアの手がカナの髪の上で止まった。

 アイベルという画師がいた。何度も森に通い、カナを描き、彼女を褒めた。やがて来なくなった。人間には寿命があるから。その喪失の痛みを真珠に込めた。それほどの、痛みだったから。

 メアの指が微かに震え、先ほどの嫉妬は霧散した。代わりに、もっと深くて重い感情が流れ込んでくる。

 カナは覚えている。アイベルの名を、絵を、撫でてくれた手を。だが、悲しみだけが抜き取られている。穴の開いた思い出だ。楽しかった記憶の縁が、綺麗に切り落とされている。

 そうやって、彼女は何人分の悲しみを真珠に入れてきたのだろうか。

 メアは、自分の分を真珠に入れることを拒んだ男だ。俺のことは悲しめ、と。だがアイベルにはその選択肢がなかった。千年前に死んだ画師は、泉の木箱の中で悲しみの欠片となって眠っている。

 メアの手がカナの頭から離れた。

 代わりに、彼はカナの肩を引き寄せた。ぎこちなく、しかし離さぬように。

「……いい人だったんだな」

 声は掠れていた。アイベルがカナの長い孤独の中で、確かな温かい光であったこと。そしてその光が消えた時、彼女はその痛みを心から切り離さなければならなかったこと。それを想うと、先ほどまでの嫉妬がひどく矮小なものに思えた。

 エイは書類を下ろしていた。金色の目が静かにカナを見つめ、そっと伏せられた。夕陽が沈みきった窓の外で、最初の星が瞬き始めていた。

 沈黙が降りた。月明かりだけになった部屋で、メアの腕に力が籠もる。千年前、国が滅び、人々が、そしてアイベルが来なくなった。それは千年の孤独に他ならなかった。

 エイが静かに書類を揃え、紐で束ねた。

「カナさん」

 穏やかな声だった。

「アイベルが描いた絵は、泉の底で千年間守られてきたんですね。大切にされていたから」

 カナが小さく首を傾げた。メアの肩に寄りかかったまま。

「石板の翻訳が済んだら、アイベルの名が公式記録に残ります。千年の間、誰にも知られなかった画師の名前が、この国の歴史書に刻まれることになる」

 エイはそれだけ言って立ち上がった。

「明日の早朝に王立書庫へ向かいます。お二人はゆっくりお休みください」

 扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ消えていく。

 二人きりになった部屋で、メアはカナの肩を抱いたまま動かなかった。千年分の孤独を埋める言葉など、持ち合わせていなかった。

 だから、腕の力を少しだけ強くした。

 体温が、メアの腕に伝わってくる。その温もりを、もう二度と冷たい泉の底に沈めさせはしない。

 メアの唇が動いた。声にならない声で何かを呟き、カナの黒髪に顔を埋める。

 エイの抱える書類の隙間で、古代の文字が揺れている。アイベルの名前が、千年前の約束のように、静かに動き出そうとしていた。

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