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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
69/74

69.ありがとう

 宿舎の門では見慣れたオレンジ色の髪の男が待っていた。枢密院への用事があると言っていたはずだが、二人の帰りを待っていたらしい。

 エイの目が包みの山を捉え、それから荷物に埋もれたメア、最後にカナの腕に抱えられた林檎と肉を順に見た。

 エイの眉が、面白そうに上がった。

「……随分と、お買い物を楽しまれたようですね」

 声は穏やかだったが、口元が微かに震えていた。

「それは、ご近所の方々からの贈り物ですか?」

 メアは包みの山の向こうから短く唸った。肯定とも否定ともつかない声だったが、エイは長年の経験からそれを肯定と読み取り、目を細めた。

「三件目の物件、お気に召しましたか」

「ああ。あそこにする」

「即断ですね。他の二件は」

「必要ない」

 エイの視線がカナに移った。林檎と肉を抱えた彼女の顔を見て、すべてを察したらしい。カナが気に入ったのだ。そして、カナが気に入った家にいる姿を、メアもまた気に入ったのだと、この副官は呼吸するように理解した。

「では家主との交渉は私が。換金の件ですが、枢密院の方は少々厄介な動きがあります」

 声の温度が一段下がった。エイの敬語に変化はない。だが彼が、厄介、という言葉を選ぶ時、事態は常にその表現以上に深刻なのが常だった。メアの肩が僅かに強張る。彼は包みを門の脇に下ろし、エイに向き直った。隊長の顔に戻っていた。

「白梟師団の残党が枢密院に接触した形跡があります。これまでの失態で、師団内の権力構造が不安定になっている。空いた席を狙う者たちが、カナさんの件を政治的に利用しようとしているようです」

「具体的には」

「財宝の出所を問題にする可能性があります。東の森の泉に沈んでいた古代の貢物を、個人が所有する法的根拠が曖昧だと。祝婚祭の経済効果で商業区は味方ですが、枢密院の法務官が動けば話は変わります」

 門の前の空気が一気に冷えた。穏やかな午後の余韻が嘘のようだった。祝婚祭は成功し、婚姻も成立した。だが、それで全てが片付くほど王都の政は甘くはなかった。

 エイが懐から書類を取り出した。走り書きの文字は、枢密院周辺で拾った情報を纏めたものだった。

「異議申し立て期間は過ぎましたので、婚姻そのものは覆せません。ですが財産の凍結を申し立てることは可能です。そうなれば、新居の購入が滞ります」

「……手は打てるか」

「幾つか。ただ、時間が要ります。ディート団長にも報告済みです」

 メアが頷き、カナを見た。林檎と花束を抱えたまま、やり取りを静かに聞いている彼女を。その黒い瞳に不安の色はなかった。人間の世の権謀術数を、まだ実感として知らない目。メアの胸の奥が軋んだ。この目を曇らせたくない。だが、嘘はつけなかった。

「中で話す」

 包みを拾い上げ、三人は宿舎の門をくぐった。エイが自然にカナの荷物の一部を受け取り、中庭を横切っていく。午後の陽が傾き、影が長く伸びていた。

「凍結っていっても、私しか取り出せないし、私がずーっと持ってたものだよ?それでもだめ?」

「ごもっともなご意見です」

 エイは穏やかに頷いたが、その金色の目は笑っていなかった。廊下を歩きながら書類を片手で捲る。

「道理の上では仰る通りです。千年以上にわたり泉の底にあった物は、所有者であるカナさんのものです。ですが、法務官が問題にするのは道理ではありません」

 三人がメアの私室に入った。包みが床に積まれ、卓の上に林檎と肉が並ぶ。メアが扉を閉め、背を預けた。

「古代の貢物を陛下に献上したことで、カナさんは王城と対等な立場を得ました。これは大きな盾です。ですが同時に、その財宝の価値が公に認知されてしまった」

 エイが卓の上に書類を広げた。走り書きされた人名と矢印の相関図。

「ヘクターの失態後、白梟師団内部で派閥争いが起きています。客員魔術師の話は流れましたが、あの時の提案を推していた一派がまだ動いている。彼らが枢密院の法務官に接触した形跡があります」

「目的は」

「財産の凍結そのものが目的ではないでしょう。凍結を交渉材料にして、カナさんを再び白梟師団の管理下に置こうとしている。……取り出せるのがカナさんだけ、という事実が、むしろ彼らの口実になり得ます」

 メアの目が細くなった。カナにしか扱えない財宝、水、そして森の力。それらすべてが、カナを囲い込む理由になる。保護という名の支配。管理という名の拘束。

「泉の財宝がカナさんの私有物であると、法的に争いのない形で確定させる必要があります。陛下への献上品の受領書を根拠に、所有権の公式認定を申請できますが、申請先が枢密院ですので……」

「敵の庭で手続きをするわけか」

「ええ。ですから商業区の後ろ盾が要ります。潤った商人たちに陳情を出させれば、法務官も無視はできない」

 エイの指が相関図を辿った。商業区、枢密院、白梟師団。三つの勢力がカナという存在を綱引きしている。

 メアが壁から背を離し、カナを見た。

「……面倒をかける」

 短い言葉の裏には、歯を食いしばるような悔しさがあった。剣で斬れる敵ならとうに片がついている。だが、ここは紙と印章と弁舌の戦場だった。

「私のであるちゃんとした証拠……」

 カナが首を傾げた。黒い瞳が宙を見つめ、悠久の記憶を辿る。沈黙の中、メアとエイはじっと彼女を見守った。

「あの泉のもの、全部誰かがくれたものだから、証拠と言われても……。私が寝てる間に積み上がってたものもあるから」

「つまり、当時の民が、森の主に対して捧げたもの、ということですね」

 エイの目が光った。羽根ペンを手に取り、新しい紙に書き付け始める。

「それは重要です。奉納品であるなら、受領者はカナさん以外にあり得ない。問題は、それを証明する手段ですが……」

「森の泉自体が証拠だろう。あそこにはカナ以外の者は近づけない」

「ええ。ですが法務官は泉を見たことがありません。書類の上で争う相手に、現地の状況を説明しても……」

 エイの言葉が途切れた。何かを思いついた顔で、カナを捉える。

「貢物の中に、奉納の銘が刻まれたものはありませんでしたか。誰が、何のために捧げたか記されたものです」

 何かしらの銘文があれば、法務官も覆せない物的証拠になる。カナは記憶の底を探るように瞬きを繰り返した。

「王様にあげた石板の絵は?泉にいる私を描いたもので、そのことも書いてあったけど、読める人いるのかな……」

「石板」

 エイの手が止まった。

「献上品にあった、あの石板ですね?」

 カナがのんびりと頷いた。だが、エイはその一言の重みを即座に掴んでいた。

「読める者がいるか、ですが……」

 エイが顎に手を当てた。千年以上前の文字を読める学者は稀だが、王立書庫に研究者がいる。

「王が受け取った献上品に刻まれた銘文だ。枢密院が否定すれば、王の判断を否定することになる」

 メアが低く言った。戦場で敵の弱点を見つけた時と同じ光がその目に宿る。

「完璧です。王の受領印がついた品の由来を覆すことはできません」

 エイの口元に、珍しく獰猛な笑みが浮かんだ。穏やかな敬語はそのままだが、目は完全に獲物を追う狩人のそれだった。

「明日、王立書庫に掛け合います。あの石板に何が書かれていたか、覚えていらっしゃいますか?」

「うーん……日付……星の位置と、絵を描いた人の名前と、女王様と一緒に泉に来た時の様子を描いたから、貰ってね、みたいなことが書いてあったよ」

 エイのペンが止まった。

「……女王」

 カナがこくりと頷く。昨日の夕食の話をするような気軽さで。

「カナさん。あの石板は、ただの奉納品ではありません。古代国家の女王が森の主を訪問した記録です。国家元首と森の主の会見を公式に描いた外交文書と同等のものが、今、王城にある」

 メアの目が鋭くなった。

「女王が自ら泉を訪れ、画師に記録を描かせ、森の主に献じた。古代国家が森の主を対等な存在として認めていた証拠になる」

「所有権どころの話ではありません。これは森の主の地位そのものを歴史的に確立する証拠です」

 エイの声に熱が篭る。代々宰相を輩出したランティス一族の末裔として、その血が千年越しの外交文書に沸き立っていた。

「……落ち着け、エイ」

 メアが制すると、エイは息を吐いて居住まいを正した。

「失礼しました。ですが、これは大きい。陛下に直接上奏できる案件です」

 書き付ける手が震えていた。カナは何気なく林檎を手に取り、自分が放った言葉の破壊力に気づかぬまま眺めていた。そして顔を上げると、真っ直ぐエイを見つめた。

「エイ、いつも沢山考えてくれてありがとう」

 エイの手が止まった。ペン先が紙の上に小さな染みを作る。

 エイ・ランティスは、兄たちが政の中枢で名を上げる中、剣の道を選んだ。だが結局、こうして書類とペンを握っている。ランティスの血からは逃れられないと、自嘲する夜もある。

 だから、カナの純粋な一言は、あまりに不意打ちだった。

「……いえ」

 声が掠れた。彼は咳払いで誤魔化し、背筋を正した。

「これは私の仕事ですから」

 嘘だ。副官の職務に、上官の妻の財産問題を解決する項目などない。すべてエイが自ら引き受けたことだ。メアはそれを知っているからこそ、何も言わず、感謝の代わりに沈黙で彼を見守った。

「さて。明日、王立書庫に向かいます。カナさん、石板の文字をいくつか書き出していただけると助かります。翻訳者への手がかりになりますので」

 白紙とペンがカナの前に滑り出す。古代国家の女王が森の主を訪れた記録が、今、宿舎の小さな机の上で蘇ろうとしていた。

 窓の外では、夕陽が王都の屋根を赤く染め始めていた。

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