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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
68/74

68.ここをお前の家にする

「メア、危ないよ。私も持つ」

 カナの手が包みの山に伸びた。メアが身を引いて避けようとしたが、両腕が塞がっている男に機動力はなかった。カナの指が一番上の包みをひょいと攫い取った。

「いい。大したものじゃない」

「大したものだよ。見えないでしょう?」

 包みは両腕から溢れ、今にも滑り落ちそうだった。前が見えていないことは、先ほど通行人の荷車にぶつかったことで証明済みだった。

 カナがもう一つ包みを取った。それでようやくメアの視界が開けた。黒い目がカナを見下ろし、何か言いかけて、ふいと閉じた。諦めたのだ。この男が折れるまでに要した時間は、戦場での判断より遥かに短かった。カナ相手の敗北にだけ、メアは慣れ始めていた。

「……落とすなよ」

 二人は包みを分け合って歩き出した。花束はカナの包みの上に載せられ、白い野花が人混みの中で小さく揺れている。

 石畳の通りを東門の方角へ向かった。エイが推した三件目の物件は、この先の表通りに面しているはずだった。メアが書類を確認しようとして、両手が塞がっていることに気づき、眉間に皺を寄せた。懐から書類を出せない。

 立ち止まったメアがカナを見た。

「書類を取ってくれ」

 カナが包みを片手で抱え直し、メアの胸元に手を伸ばした。往来のど真ん中で、妻が夫の懐に手を入れる。それだけのことだった。だがメアの体が石のように固まった。カナの指がメアの胸元を探り、外套の内ポケットから書類の端を掴む。

 通りすがりの老婦人が、微笑ましそうに二人を見て通り過ぎた。カナが書類を引き抜く。広げると、三件目の地図が日差しの中に開いた。

 無防備な近さに、メアは息を止めることしかできなかった。

「……この先の角を曲がる」

 声が僅かに掠れていた。

 カナは書類の地図を覗き込んでいたが、首を傾げている。悠久の時を森で過ごした存在に、王都の区画整理は馴染みが薄いだろう。カナは書類を広げたまま、メアの横を歩いている。時折地図と通りを見比べては、また首を傾げる。分からないなりに、自分の役目を果たそうとしているようだった。

 角を曲がった。表通りに面した一角に、その家はあった。

 二階建ての石造り。壁は白く塗られ、窓枠には褪せた青の塗料が残っている。小さな門扉の向こうに庭が見えた。手入れを放棄されて久しいのか、雑草が石畳の隙間から伸び放題だった。だが日当たりは申し分ない。午前の陽光が庭の隅々まで届き、荒れた緑すら輝いて見えた。

 メアが足を止めた。包みを抱え直し、建物を見上げる。騎士の目が構造を査定していた。壁の厚さ、窓の位置、隣家との距離。防衛拠点を選ぶような目つきだった。

 隣で、カナも足を止めていた。だが彼女の目はメアとは違うものを見ていた。庭の雑草の中に、小さな花が一輪咲いていた。名もない野花だったが、誰にも気づかれずとも陽の当たる場所を見つけて咲いている。

 カナの口元が、ほんの少し緩んだ。

「宿舎近いね。入ってもいいの?」

「ああ。家主に話は通してある」

 エイの仕事だった。候補を絞るだけでなく、内見の手配まで済ませている。あの副官の段取りの良さは、時に人間離れしていた。

 メアが門扉を押した。錆びた蝶番が甲高い声を上げる。庭の雑草が足首を擽るほど伸びていたが、石畳の小径は辛うじて残っていた。カナが一歩踏み入れた時、足元の雑草がざわりと揺れた。風はなかった。

 玄関の鍵は門扉の裏に掛けてあった。メアが包みを抱えたまま、手先だけで器用に鍵を回す。木の扉が軋んで開いた。中は埃の匂いがした。しばらく空き家だったのだろうが、造りはしっかりしていた。玄関を入ると居間があり、奥に台所が見える。エイの言った通り台所は広く、竈が二つ、調理台も十分な大きさがある。窓から差し込む光が、埃の粒子を金色に染めていた。

 メアが包みを玄関脇に下ろし、室内を検分し始めた。壁を叩き、床を踏み、窓枠の建付けを確かめる。階段を上がり、二階の部屋を一つずつ覗いた。家を見ているのではなく、拠点の安全性を査定するのは職業病だった。

「悪くない。壁は厚い。窓は全て表通りに面している。裏手に死角がないのはいい」

 独り言のように呟いている。新居の感想としては些か物騒だった。

 カナは一階に残っていた。台所に立ち、竈に手を触れ、調理台の高さを確かめていた。指先が木の表面を撫でる。長い年月を吸い込んだ木目が、カナの掌の下でほんのりと温かかった。居間に戻ると、窓際に小さな棚があった。前の住人が置いていったのか、棚の上に乾いた花瓶が一つ、埃を被って佇んでいた。

 カナの手の中で、白い野花の花束が揺れた。

 二階からメアが降りてきたが、階段の途中で足を止めた。カナが花瓶に水を入れ、花を挿しているのが見えたのだ。白い野花が窓辺の光を受けて、空き家の居間に小さな色を灯していた。

 メアの足が、階段の上で止まったまま動かなかった。カナが花瓶の位置を少し直し、首を傾げて眺め、また少し動かす。それだけの仕草が、この埃だらけの空き家を、何か別のものに変えていた。

 不意にカナが指をくるくると回した。すると、帯のように漂う水が床を洗い始めた。

 メアの足が階段の上で凍りついた。カナの指先がゆるりと円を描くたび、水が意志を持ったかのように床を這った。帯状に広がる水流が埃を浚い、木目の奥に染み込んだ汚れを浮かせ、玄関の外へ流れていく。水の帯が虹色の薄膜を纏って踊っていた。

 魔術ではなかった。魔術師の術式には必ず詠唱か術陣が伴うが、カナの指の動きには法則性がなく、ただ水が意に沿って動いている。自然そのものが、この存在に従っているのだ。

 居間の床が見る間に清められ、台所へ流れた水が竈の煤を洗い、窓枠の埃を払い、棚の裏まで潜り込んだ。空き家に染みついた年月の垢が、カナの指一つで剥がされていく。メアは階段を降りられなかった。

 花瓶の野花に注ぐ陽光の中で水を操るカナの姿は、あきらかに普通の人間ではなく、ここではないどこかの景色のようだった。人の世の権謀術数など歯牙にもかけぬ存在が、今、メアの妻として空き家の床掃除をしている。

 水が仕事を終え、外へ流れ出ていった。庭の雑草が水を受けて瑞々しく揺れた。カナが振り返り、階段の途中で固まっている夫を不思議そうに見上げた。

「……ここにしよう」

 自然と声が出た。意識せずに出た自分の声を聞いてから、やっと、納得が追いついた。他の二件を見る必要はなかった。

 階段を降りたメアはカナの傍に立ち、居間を見回した。

「財宝の換金が済めば、購入できる。それまでの家賃はエイに交渉させる」

 実務的な言葉だったが、その目は窓辺の花瓶を見ていた。

 外に出ると、庭の一角に小さな泉があった。さっきまではなかったものだ。庭の隅、雑草が最も深く茂っていた一角。拳二つ分ほどの窪みに水が溜まっている。

 メアの手が、無意識に腰の剣に触れた。それからカナを見た。彼女は驚いた顔もせず、ぼんやりと泉を見つめていた。だがその黒い瞳の奥には、森の泉で初めて会った時と同じ光があった。

 メアの指が剣の柄から離れた。森で全てを失った記憶が喉の奥を締めた。カナが消えた日。水が涸れた日。その記憶が目の前の泉と重なり、メアの胸を抉った。

 いなくなってくれるな。その願いを、メアは口にすることができなかった。

 カナが泉の傍にしゃがみ込み、指先が水面に触れた。水が馴染むようにカナの指に纏わりついている。メアはその光景を見て、森の泉での始まりを思い出していた。生きる術を教えると言って火加減を教えた自分の声を、カナが不思議そうに聞いていたあの日のことを。

「……この泉は、お前が呼んだのか」

 答えは分かっていた。森を蘇らせ、干ばつを終わらせたもの。それが今、雑草の中で泉に指を浸して遊んでいる。

 メアがカナの隣に片膝をつき、泉を覗き込んだ。そして、彼女の濡れた指に触れた。水が二人の指の間を流れた。冷たく、生きている水だった。

「……ここを、お前の家にする」

 静かな声に、この男の全てが詰まっていた。もう消えさせない。お前の居場所は俺が作る。繋いだ指先を通じて、水が温かくなった気がした。

 ともかく、現実は容赦がない。この家はまだ二人のものではないし、大量の衣類の包みを抱えて宿舎まで歩かなければならない現実に、メアは立ち止まった。門を出た通りに小さな茶房があり、焼き菓子の甘い匂いが漂っていた。

「……茶を飲んでから帰る」

 自分への許可のような響きだった。二人は包みを足元に置いて、窓際の席に向かい合って座った。

 メアが店主に茶と焼き菓子を頼んだ。カナの分には砂糖を二つ落とした。窓の外を馬車が通り過ぎる、穏やかなひとときだった。

 だが、時折窓の外を通り過ぎる人々が、二人を見て驚いて口元に手を当てた。

 運ばれてきた菓子をカナの前に押しやったメアは、眉間に皺を寄せた。

「……なんだ、あれは」

 自覚がなかった。祝婚祭で王都を沸かせた夫婦が、小さな茶房で向かい合っているのだ。民にとっては、吟遊詩人の歌がそのまま目の前に現れたようなものだった。

 窓の外に人だかりができ始めていた。メアは立ち上がろうとしたが、カナが焼き菓子を頬張ったまま窓の外を見て、一人の娘と目が合った。

 カナが小さく手を振った。

 その瞬間、娘の顔が輝き、黄色い声が上がった。それが伝染し、手を振り返す者や拍手する者が現れ、窓の外がにわかに活気づいた。

 メアは逃げたかったが、カナが食べ終わるまで待つことにした。座り直して茶を啜り、窓の外を睨みつける。その葛藤が眉間の皺に凝縮されていた。

 するとカナが窓を少し開け、顔を出した。

「この近くの家に住むから、よろしくね」

 メアのカップが卓の上で跳ねた。陽光の中でカナの顔が晒され、人だかりが沸いた。

「きゃあ!本当に!?」

「東門の誇りだ!」

 拍手が広がり、祝婚祭の再来のような騒ぎになった。メアがカナを引き戻そうとしたが、肉屋の親父が走ってきた。

「引っ越し祝いだ!肉を持っていきな!」

 始まってしまった。果物売り、パン屋、花売り、酒瓶を掲げた老人。小さな茶房の窓が贈り物の受付窓口と化した。

 メアの手はカナの肩を掴んだまま、動けなくなった。剣でも命令でも止まらない、民衆の善意という強敵。

「カナ……余計なことを……」

 声に諦めが滲んでいたが、贈り物を受け取って笑うカナの横顔を見て、メアの手が離れた。人との関わりを望んだ者が、人の輪の中にいる。

 メアは黙って財布から代金を置き、包みの山に贈り物を加えて、両腕に抱えた。視界が完全に塞がった。

「……帰るぞ。本当に帰るぞ」

 包みの山から声だけが聞こえ、通りの人々が笑った。メアの耳が、包みの隙間から赤く覗いていた。


 メアを見る目が、変わっていた。

 かつて王都の民がメア・グレンダンに向けた視線は、畏怖か無関心のどちらかだった。黒髪の騎士。無口で無愛想。街を歩けば誰もが道を空け、子供は母親の後ろに隠れた。それが当たり前だったし、メア自身もそれ以外を求めたことはなかった。

 だが今、包みの山に埋もれて歩くこの男を見る目は、どれもが柔らかかった。肉屋の親父が顎をしゃくって笑い、果物売りが帽子を上げ、若い娘たちが手を振る。怖がる子供はいなかった。母親が子供の手を引き、「ほら、あの騎士様よ」と楽しげに囁いている。

 七日間の祝婚祭が残したものだった。石畳の広場を埋め尽くした歓声、森から駆けつけた動物たちの行列、王城から届いた数々の祝いの品。あの七日間で、王都の民はメアの中に人間を見つけたのだ。不器用で、すぐに耳を赤くして、妻の荷物を全部持とうとして前が見えなくなる、ただの一人の男を。

 カナはそれを、とても嬉しいと思った。

 人間たちの温もりの中を歩いている。隣には、その温もりの中心に自分がいることに気づいていない男がいる。

 メアが包みの隙間から前方を覗いた。すれ違う人々が会釈するのを見て、ぎこちなく顎を引く。それが彼にできる唯一の反応だった。

「……急に愛想のいい街になったな」

 原因が自分にあるとは、欠片も思っていなかった。カナのおかげだと信じて疑っていない顔だった。この男は恐らくずっとそう思い続けるのだろう。自分が愛されていることに気づかないまま、隣にいる存在だけが世界を変えたのだと。

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