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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
71/75

71.兄たちほどの

 翌朝、王都の夜明けは鳥のさえずりとともに訪れた。

 騎士団宿舎の窓から差し込む朝日は、ベッドの上で寄り添う二つの影を静かに照らし出す。メアは既に目を覚まし、腕の中で丸くなって眠るカナを見下ろしていた。規則正しい寝息が聞こえる。千年を泉の底で過ごした存在は、人の暮らしの中でも、深く、穏やかに眠る。

 メアは彼女を起こさぬよう、慎重に腕を解いた。だが、その気遣いも束の間、廊下から近づく二つの軽い足音が静寂を破った。メアが眉をひそめた瞬間、戸を叩く音が響いた。

「隊長、おはようございます!副官殿からの伝言です!」

 朝の静けさを切り裂く若々しい声に、メアの眉間の皺が深まる。

「……ビィ、声が大きい。まだ寝てるだろ」

「あ。ごめん……」

 扉の向こうで小声が交わされる。メアは溜息をこぼしながら上着を羽織り、扉を開けた。

 そこには二人の若い騎士が直立不動で控えていた。緊張で手を強張らせたビィが封書を差し出す。イーガは、扉の隙間からベッドに横たわるカナの姿が目に入った瞬間、顔を赤くして視線を泳がせた。

「……何だ」

「副官殿は先に王立書庫へ向かわれました。隊長には、なるべく早く王城の正門前で合流してほしいとのことです。それから……」

 受け取った封書には、エイの几帳面な筆跡が並んでいた。

 内容は簡潔だ。王立書庫の古代語研究者との面会を取り付ける。だが同時に、不穏な報せも記されていた。枢密院の法務官が今朝、白梟師団の代理人を伴って王城へ出向いたという。

 メアは手紙を畳み、懐に収めた。

「ビィ、イーガ。今日はカナの護衛を任せる。宿舎から出すな。俺かエイの許可がない限り、誰一人面会させるな」

「はい!」

「……了解」

 メアが振り返ると、ベッドの上でカナが小さく寝返りを打った。朝日に透ける黒髪が、波のように枕の上に広がっている。

 メアは拳を固く握った。枢密院の動きが予想より早い。石板の翻訳が完了する前に、強引に先手を打たれる恐れがあった。

 メアが宿舎を発った頃、王都の石畳はまだ深い朝靄に包まれていた。

 腰に剣を佩き、騎士団の外套を翻して歩く彼の姿に、行き交う商人たちが畏敬の念を込めて頭を下げる。「森の奥方を娶った騎士」の名は、祝婚祭を経て王都中に知れ渡っていた。だが、メアの表情はいつにも増して険しく、挨拶をしかけた八百屋の主も、その鋭い眼光に気圧されて言葉を飲み込んだ。

 王城の正門に着くと、白亜の石壁が朝日を浴びて眩く輝いていた。広場の衛兵が槍を手に警戒を続けているが、エイの姿はまだない。

 メアは壁に背を預け、腕を組んで待機した。懐の手紙を思い出す。相手の狙いは、翻訳が成される前に財産凍結の申し立てを既成事実化することだろう。文字通りの時間勝負だ。

 やがて足音が近づいてきた。だが、それはエイのものではなかった。

 広場の向こうから歩み寄ってきたのは、白梟師団の紋章を胸に掲げた、痩身の年嵩な男だった。灰色の髪を整え、薄い唇に笑みを浮かべているが、その双眸に温かみはない。

 男はメアの正面で足を止めた。

「おや。黒狼騎士団の第三部隊隊長殿ではありませんか。こんな早朝から王城とは、熱心なことですな」

 メアは応じず、ただ冷徹に相手を値踏みした。男のローブは実務官の仕立てだ。渉外担当の派閥だろう。

「実は私も今日、法務官殿と森の財宝についての協議がありましてね。隊長殿の奥方は大変貴重な御身だ。白梟師団としても、然るべき保護を提案したいと考えているのですよ」

「保護、か」

 氷を削り出したようなメアの声に、男の笑みが一瞬だけ引きつった。

 そのとき、背後から確かな足音が響いた。聞き慣れた、落ち着きのある歩調だ。

「お待たせしました、隊長」

 エイが現れた。その手には書類の束があり、金色の瞳が鋭く相手を射抜いた。

「おはようございます。白梟師団渉外官、ヴェルナー殿ですね。お噂はかねがね」

 ヴェルナーと呼ばれた男の表情に、明らかな警戒が走った。宮廷においてランティスの名は無視できない重みを持つ。

 エイは穏やかな所作のまま、自然とメアを庇うように一歩前へ出た。名門の血筋が、交渉の場における完璧な立ち振舞いを彼にさせていた。

「ランティス家の……五男殿でしたか。騎士団で副官に甘んじておられるとは、勿体ない」

「お気遣い痛み入ります。兄たちほどの才はありませんので、今の場所が分相応なのです」

 謙遜を装った、冷ややかな牽制だ。言葉の上に現役の宰相と四人の兄たちの影を背負わせ、エイは声を継いだ。

「ところでヴェルナー殿。先ほど保護と仰いましたが、白梟師団は先日、シール殿を通じてカナさんの身柄を不当に拘束しようとされましたね。派遣された魔術師が魔物であったことも含め、王国を危機に晒した事実は重い」

 ヴェルナーの顔から、作り笑いが剥落した。

「さらに言えば、研究目的での拘束に法的根拠がなかったことは、祝婚祭において異議を唱えられなかった時点で明白です。それに先ほど、王立書庫にて翻訳の優先許可を取り付けてきました」

 エイが王城の印が押された書状を提示する。

「石板には、古代の女王が森の主を公式訪問した記録が刻まれています。翻訳が完了すれば、財宝は歴史的な正当性を持つ所有物として確定する。枢密院がこれを否定するということは、古代より続く権威を、現王国が公式に否定することと同義です。……法務官殿に、その責任を負う覚悟がおありでしょうか」

 広場に重苦しい沈黙が降りた。

 ヴェルナーの喉が震えた。計算高い灰色の瞳がエイを睨みつけるが、やがて彼は吐き捨てるように踵を返した。法務官への早急な報告が必要だと悟ったのだろう。その背中に、先ほどまでの余裕は微塵もなかった。

 メアがエイに向き直る。

「翻訳の許可は、本当に下りたのか」

「ええ。ですが完了までは数日を要します。敵が別の手段を講じてくる可能性は依然として高い」

 エイは去りゆく男の背中を見つめ、静かに思考を巡らせた。先制はしたが、まだ予断を許さない。

「急ぎましょう、隊長。翻訳者が待っています」

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