61.あなた
椀の中の茶が揺れている。焚き火の光を受けて、琥珀色の水面に小さな炎が映っていた。カナはそれを覗き込むように見つめ、ふう、と息を吹きかけた。湯気が散る。
沈黙は重くなかった。少なくともカナにとっては。毛布に包まれた小さな体が焚き火の温もりに緩んでいく様は、野良猫が軒先で丸くなるのに似ていた。さっき草原で口にした言葉の重さを、本人だけが忘れたように見える。
だが、忘れたのではないことは、この場の全員が知っていた。
ビィが焚き火の反対側に座り、自分の椀に口をつけた。何か話しかけようとして、結局茶を飲むことに集中した。イーガは石橋の上で見張りを続けている。時折こちらに目を向けるが、すぐに逸らす。エフィは毛布に包まって横になったが、目は閉じていなかった。
川のせせらぎが、焚き火の音に混じっている。
「……あの」
堪えきれなかったのだろう。ビィの声は小さく、探るようだった。
「僕だって、もう成人です。でも、気の利いたことを言えるほど大人でもありません」
椀を膝の上に置いて、ビィはカナの目を真っ直ぐ見た。童顔に似合わない、芯のある目だった。
「箱に入れないでほしいって、僕も思います」
焚き火が爆ぜた。火の粉が舞い、散って消えた。言い終えたビィの目が赤くなっていくのが、炎の明かりでもはっきりと分かった。
カナは困ったように微笑み返した。
その笑顔を見て、ビィは悟った。
優しいのだ。優しいから困っている。できない約束をしたくないのだ。嘘をつくことも、かといって正直に言うこともできなくて、ただ困ったように笑う。
ビィの目が潤んだ。今度は堪えられなかった。椀を置いて、袖で乱暴に目元を拭った。
「すみません、変なこと言って」
「変なことじゃねえよ」
石橋の上から、イーガの声が降ってきた。見張りの姿勢は崩していない。闇の向こうを見たまま、背中だけをこちらに向けている。
「変なことじゃねえけど、泣くな。見張りの気が散る」
乱暴な言い方だった。だがイーガの声も、普段の調子とは違っていた。少しだけ高い。喉に力が入っている。ビィが泣いているのを見たくないのか、見ると自分も引きずられるのか、どちらにしても背中を向けたままだった。
エフィが横たわったまま、ぽつりと言った。
「寝なさい、ビィ。明日は早い」
それは命令であり、優しさだった。これ以上この話を続けても、誰の胸にも良いものは残らない。ビィは頷き、椀の残りを飲み干して毛布に潜り込んだ。目が赤いまま、それでも律儀にカナに小さく頭を下げてから横になった。
焚き火の音だけが残った。
カナの椀はもう空だった。両手で抱えたまま、空の椀の底を見つめている。そこに何か映っているわけでもなく。ただ、手の中に何かを持っていたかっただけかもしれなかった。
闇の中で、メアが動いた。
音もなく焚き火の傍まで来て、隣に腰を下ろした。腕一本分の距離。何も言わずに、ただ隣にいた。
川の水が石橋の下を流れていく音が、子守唄のように響いていた。
「!!」
カナが突然顔をあげた。何かを思案するようにじっと前を見つめ、焚き火の光が瞳に踊る。何かを掴みかけている目だった。
メアが横目でカナを見た。さっきまでの物憂げな空気が、一瞬で消えている。のんびりとした森の主が突然背筋を伸ばし、虚空を睨むように前方を見据えている。この切り替わりの速さを、メアは何度か見たことがあった。普段のぼんやりした様子からは想像もつかないが、彼女の頭の中では時折、人間には追いつけない速度で何かが回っている。
エフィの目が開いた。気配の変化を感じ取り、毛布の中で体を起こしかけている。
石橋の上で、イーガの背中が微かに緊張した。
だがカナの視線の先には何もなかった。闇と、草原と、星空だけだ。外に何かを見つけたのではない。内側で何かが繋がったのだ。
メアは口を開かなかった。彼女が考えている時に割り込んでも碌なことにならないと、経験が教えていた。ただ隣に座ったまま、待った。
焚き火が爆ぜた。火の粉が夜空に昇っていく。唇が微かに動いた。まだ言葉にはなっていない。形を探している。
ハエを叩くような勢いでメアの方に振り返り、カナはニコニコと彼を見つめた。
メアは反射的に上体を引いた。
無理もなかった。さっきまで悲しみの淵を覗いていた人間が、突然満面の笑みでこちらを凝視してきたのだ。焚き火の光に照らされた顔は、何か良からぬことを思いついた子供のそれだった。
メアの眉間に皺が寄った。
「……何だ」
警戒の色が滲んでいた。戦場で不意打ちを受けた時より、よほど落ち着かない顔をしている。この笑い方をメアは知っている。この顔だ。常識の範疇を軽々と飛び越える何かが来る前触れだ。
エフィが完全に体を起こした。毛布を膝に掛けたまま、カナとメアの方を見ている。
石橋の上でイーガが振り返った。
「……なんすか、急に。怖いんすけど」
ビィだけが毛布の中で寝息を立てていた。若さゆえの特権だった。
カナはニコニコしたまま、メアを見上げている。黒い瞳に焚き火の炎が二つ灯っていた。何かを言いたくてたまらない、という顔だった。だがまだ言わない。メアの反応を楽しんでいるのか、言葉を選んでいるのか、その両方か。
メアの指が自分の膝の上で組み直された。
「言え」
「あ・な・た」
ニコニコと、カナが言った。
メアが固まった。
完全に、石のように。瞬きすら止まっていた。焚き火の光がメアの顔を照らしているが、そこにある表情を読み取れる人間はこの場にいなかっただろう。理解が追いつかないという状態が人の顔に出るとこうなる、という見本のようだった。
エフィの目が僅かに見開かれた。毛布を握る手が止まっている。
石橋の上で、イーガが口を半開きにしていた。見張りの任務を完全に忘れ、焚き火の方に体ごと向き直っている。
カナはニコニコしていた。変わらず、満面の笑みで、メアを見上げている。悲しみも、寂しさも、悠久の重みも、今この瞬間はどこかに行ってしまったかのような、晴れ渡った顔だった。
メアの喉が動いた。何か言おうとしたのだ。だが音にならなかった。口が開き、閉じ、もう一度開いた。冷静で知られた黒狼騎士団第三部隊隊長の口が、焚き火の前で小魚のようにぱくぱくしている。
「……何の、話だ」
ようやく絞り出した声は、掠れていて、低くて、普段の半分ほどの音量しかなかった。
「メアが、私と同じだけ生きればいいじゃない」




