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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
62/79

62.最初の夜

 沈黙が落ちた。

 焚き火が爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。川のせせらぎが遠のき、虫の声が消え、世界がこの焚き火の周りだけに縮まったような錯覚があった。

 メアの目が、ゆっくりと瞬いた。一度。二度。カナの言葉を頭の中で分解し、組み立て直し、もう一度分解している顔だった。

「……俺が」

 それだけ言って、止まった。

 この提案の意味を、メアは理解していた。理解していたからこそ、動けなかった。彼女の寿命を人間に合わせるのではなく、その寿命に人間を引き上げる。発想の転換というにはあまりにも突飛で、そして、あまりにもカナらしかった。

 石橋の上で、イーガが両手で顔を覆った。

「いや待って、待ってください。それって、できんの?」

 誰もが抱いた疑問を、イーガが代弁した。声が上擦っている。エフィは微動だにしなかったが、意識のすべてをこちらに向けているのが分かった。

 カナはニコニコしていた。まだ。あの晴れ渡った笑顔のまま、メアを見上げている。できるかどうかどころではない。この顔は、すでに答えを握っている者の顔だ。

 メアの手が自分の膝を握った。指が白くなるほどに、強く。

「カナ」

 声が戻ってきていた。低く、静かで、隊長の声だった。だがその奥には、押さえつけようとして押さえきれない感情が滲んでいる。

「お前が言っているのは、どういう意味だ。正確に説明しろ」

「私とメアで足して、半分こしよう」

 メアの思考が、目に見えて停止した。

 足して、半分。カナの悠久の時間とメアの寿命を足して、二つに割る。算術としては子供でも分かる話だ。だがその意味するところは、あまりにも途方もなかった。

 イーガが石橋から降りてきた。見張りを完全に放棄している。

「足して半分って……待って、そもそも何歳なんすか」

 カナはニコニコしたまま、小首を傾げた。数えたことがないのだろう。千年は確実に超えている。泉の底にあった石板が千年前の国のものだと言っていたが、彼女はそれよりもさらに古いのだ。

 半分にしたところで、人間の尺度では依然として永遠に等しい。

 エフィが毛布を肩に掛けたまま、カナを真っ直ぐに見据えた。

「それは、あなたの寿命を削るということ?」

 核心だった。エフィの声は平坦だったが、その目は鋭い。半分こ、という柔らかな言葉の裏にあるものを見抜こうとしている。彼女が差し出すものは、単なる時間ではない。

 メアが立ち上がった。焚き火の光が揺れ、メアの影が大きく伸びる。カナを見下ろす黒い瞳に、さっきまでの空白はなかった。感情が戻っている。複雑に絡み合った、名前のつけられない激しい感情が。

「それは対価があるのか。お前に何が起きる」

 任務の危険度を見積もる時の、冷徹な問い。だが、拳を握る手は、微かに震えていた。

「特に何もないよ?ただ、ずーっとずーっとここにいる、っていうのが、まあそのうち終わりもくるんじゃない?くらいになる」

 明日の天気の話でもするかのように軽やかな口調だった。

 意味の重さと、それを発する声の軽さの落差が、焚き火を囲む全員の背筋を凍らせた。カナにとっては、永遠に近い時間を手放すことよりも、悲しみを箱に詰めて眠りにつくことの方がよほど恐ろしいのだ。その価値観の隔たりに、人間の側が追いつけない。

 メアは立ったままカナを見下ろしていた。拳の震えは止まっていたが、代わりに奥歯を強く噛み締めていた。

「それは、お前が死ぬようになるということか」

 静かな声だった。感情を抑え込んだ、事実確認の声。だがその一言を絞り出すまでに、彼は重い呼吸を一つ挟んだ。焚き火の明かりの中で、メアの目がカナの顔を射抜くように見つめている。

 カナはきょとんとしていた。死ぬという単語を噛み砕くのに一拍かかったようだった。自分の提案が人間にとってどう響くのかを、今さら計算し直しているような顔だ。

「……隊長」

 イーガが口を挟んだ。珍しく、その声には迷いがあった。

「それ、隊長が得するだけの話に聞こえるんすけど。カナさんだけ損してません?」

「同感」

 エフィが毛布の中から静かに告げた。二人の視線は、メアではなくカナに向けられていた。責めているのではない。心配しているのだ。のんびりした笑顔の裏で、この人はどれほどのものを差し出そうとしているのか、と。

 メアの拳が開いた。指を伸ばし、また握る。それを二度繰り返してから、彼は膝をついた。焚き火の傍に座るカナと目線を合わせるために。

「自分が何を言っているか、わかっているのか」

「この世界の終わりまで残るか、この世界の終わりまでの半分になるか、ってこと」

 焚き火の薪が崩れ、火の粉が夜空へ舞い上がった。

 イーガの口が開いたまま閉じない。エフィの肩から毛布がずり落ちたが、拾う素振りもなかった。カナが今口にした時間の単位が、人間の想像力の限界を軽々と踏み越えていたからだ。世界の終わりまでの半分。人間の一生など、一粒の砂にすらならない。

 メアは動かなかった。

 膝をついたまま、カナと同じ高さで向き合っている。焚き火の光がメアの顔を照らし、深い影を刻んでいた。黒い目は揺れていなかった。こぼれる言葉を、一語も漏らさず受け止めている瞳だった。

 彼女にとって、これは犠牲でもなんでもないのだ。永遠を半分にしたところで途方もないことに変わりはなく、ただ、終わりがある、という概念が生まれるだけの話。欲しかったのは短い命ではなく、終わりのある時間を誰かと共有することだった。

 メアの手が伸び、カナの両手をそっと包み込んだ。空の椀が足元で転がり、草の上に落ちる。

「一つ聞く」

 声は低く、揺るぎなかった。

「それは俺でなければならないのか」

 問いの形をしていたが、突き放しているのではなかった。確かめている。本当に、寿命を分け合う相手として自分を選んでいるのか。寂しさや成り行きではなく、意志として。メアの目がそれを問うていた。隊長としてではなく、一人の人間として。

 焚き火が大きく揺れた。見上げる黒い瞳に、メアの顔が映っていた。

「誰でもいい人と夫婦になんてならないでしょう?」

 夫婦。

 その単語が夜気の中に放り出された瞬間、イーガが呻きながら視線を逸らした。エフィの背中が微かに跳ねた。寝ていたはずのビィが毛布の中でもぞりと動いたのは、果たして偶然だったのか。

「……っ」

 メアの口から音が漏れたが、言葉にはならなかった。部下たちに、隊長は感情の代わりに鉄板が入っている、とまで噂されてきた男が、焚き火の前で固まって絶句している。

 カナはニコニコしていた。変わらず、晴れ渡った空のような顔で、赤くなったメアを見つめている。悠久を生きた存在は、人の心を揺さぶる言葉を選ぶ天才なのか、それとも単に何も考えずに核心を突いているだけなのか。おそらく、後者だった。

 メアがカナの手を握ったまま、一度目を閉じた。深く息を吸い、吐き出した。それからもう一度目を開けた時、顔はまだ赤かったが、瞳には覚悟のようなものが宿っていた。

「祭りの気分が抜けてないのか」

 声が掠れていた。だが逃げなかった。メア・グレンダンは、逃げ方を知らない男だった。

「楽しかったね。愛してるよ」

 メアの目が泳いだ。一瞬だけ。

 つい数日前のことだ。黒狼騎士団第三部隊隊長メア・グレンダンと、森の主が夫婦となる届けが受理された日のことを、メアはまだ自分の中で整理しきれていなかった。

 楽しかった、とカナは言う。メアにとって祝婚祭は、自分が主役であるという事実だけで胃が縮むような行事だった。大勢の視線、形式ばった祝辞、慣れない正装。だが、カナが隣にいた。祝いの花を髪に挿してもらって頬を染め、メアの腕にしがみついて人混みの中をきょろきょろしていた。

 確かに楽しかった。祝婚祭が。彼はそれを、認めざるを得なかった。

 メアの親指が、カナの手の甲を無意識に撫でていた。本人は気づいていなかっただろう。

「……俺も愛している」

 石橋の影で、イーガが蹲っていた。

「俺は今、見張り中なんで。何も聞いてません」

「私も寝てる。続けていい」

 エフィは仰向けになり毛布を顎まで引き上げ、目を閉じた。声だけは完璧に平坦だった。

 ビィの毛布が微かに震えていた。寝息が不自然に途切れている。

 川のせせらぎと、焚き火と、イーガの呻きだけが、星空の下に溶けていった。

 カナはメアの手の中にある自分の手を見下ろし、それからメアの顔を見上げた。焚き火の明かりに照らされた赤い顔と、不器用に結ばれた唇と、逃げることを知らない黒い目を。

 メアはただ石のように固まっていた。カナの頭が肩に預けられ、髪から、木と、水と、石鹸の匂いがした。

 焚き火が静かに燃えていた。薪の爆ぜる間隔が長くなり、炎が低くなっていく。

「嫌なら半分こはやめておくから、言ってね」

 メアの手が止まった。肩に回した右手も、握っていた左手も。呼吸すら一拍止まっていた。

 メアの顎が引かれた。肩の上のカナの頭を見下ろす。黒い髪が焚き火に照らされて鈍く光っていた。

「先に答えさせろ」

 低い声に、苛立ちが混じった。だが怒りではない。不甲斐なさに対する憤りだ。肝心なことを何も伝えられていない自分自身への。

 カナの指がメアの手の中でぴくりと動いた。返事を待っている。

 メアは息を吸った。長く。そして吐き出した。短く。メアの視線が一瞬だけ泳ぎ、すぐに戻った。覚悟を決めた目だった。

「半分こにしろ。俺でいいなら」

 最後の一言だけ、声が小さかった。石橋の上のイーガにも、横たわるエフィにも届かなかっただろう。カナの耳元にだけ、静かに落ちた言葉だった。

 カナは、ただ温かい場所を探す猫のように、メアの肩に頬を押し付けて、小さく息を吐いた。

 メアは動かなかった。肩に回した手がほんの少しだけ強くなった。それがメアの返事だった。二人とも、言葉の足りない生き物だった。

 焚き火が燃え尽きかけていた。残り火の赤い光だけが地面を照らし、二人の影を一つに重ねている。

 石橋の上で、イーガが膝を抱えていた。

「……兄貴だったら、こんな時なんて言うんだろ」

 誰に言うでもなく呟いた。

 夜が更けていった。星が空を巡り、川が流れ、小枝がゆっくりと灰に変わっていく。

 東の空が白み始めた頃、メアの目はまだ開いていた。一睡もしていなかった。見張りをしていたのだ。カナの眠りを。

 世界の終わりの半分まで続く、最初の夜を。

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