60.似たもの同士
「隊長、そろそろ夜営できる場所がありましたよね?」
「川沿いの石橋の手前だ。あそこまで持つか」
メアの声は平坦で、いつも通りだった。何事もなかったかのように振る舞うその横顔を一瞥し、イーガはすぐに視線を逸らした。その表情を知っている。任務中、どうにもならない過酷な報告を受けた際に彼が浮かべる、感情のすべてを心の奥底に押し殺した顔だ。
草原を渡る風が冷たさを増し、星がひとつ、またひとつと増えていく。濃紺の空の下、馬上の五つの人影は沈黙を守ったまま進んでいった。
手綱を握るメアの両腕が、カナを包み込むように伸びている。時折、その腕の間に座る質量を確かめるように、僅かな力が込められた。
「石橋まであと少し。先に野営の準備をしてくる」
エフィが馬を速めた。隣を走るビィに目配せを送ると、イーガも黙ってそれに続く。三人の背中は夜の闇の中へと溶けていった。彼らなりの気遣いだった。
後に残されたのは、二人と一頭だけになった。
馬の歩みは緩やかで、草を踏みしめる規則正しい音が夜の静けさに溶けていく。月明かりに削り出されたようなメアの横顔は白く、その瞳は前方の闇を見つめていた。だが、そこには何かを探している様子はなく、何も映ってはいなかった。
カナの背中には、メアの体温が伝わっていた。それは人間の、有限の熱だ。永遠に近い時を生きる自分とは正反対の、いつかは消えゆく温もり。
前方でエフィが火を起こす気配がした。小さな橙色の光が、広大な草原の闇にぽつりと灯る。
「……俺もいずれ、あの中に入るのか」
前を向いたまま、メアはようやく声を絞り出した。
「忘れるわけじゃないよ。ただ分けて、大事においておくだけ。それから、しばらくまた眠るんだと思う」
月明かりの下、メアの顔から表情が消えた。怒りでも悲しみでもない、もっと手前にある何か。理解が追いつく前に感情だけが先に到着してしまった、そんな人間の空白の顔をしていた。
メアは口の中で形のない何かを噛み締めていた。舌の上で転がし、その味を確かめるように。それはひどく苦いものだった。口元が微かに歪む。
「……俺の答えは変わらない」
それだけを告げて、メアの手がカナの頭に置かれた。撫でるでもなく、押さえるでもない。ただそこに存在することを確かめるように、黒い髪の上に大きな指を広げる。不器用な手つきだった。
「箱には入れるな」
声が掠れた。
「持っていろ。痛くても構わない。俺がいたことを、自分の中に残しておけ」
カナが笑った。
「メアは寂しん坊だね。私と同じ。だから、メアと同じはダメかな、って思ったの」
メアの手が、髪の上でぴたりと止まった。
ようやく、彼は分かったのだ。
理屈ではなかった。森に帰りたいわけでも、生に疲れたわけでもない。彼女はただ、寂しいのが嫌なだけだった。悲しい記憶を箱に閉じ込め、感情を削ぎ落とし、空っぽになって深い眠りにつく。それがカナの知る唯一の対処法であり、それを嫌だと言ったのだ。いっそ人間と同じ時間で終わりを迎えたいという言葉は、永劫を生きる存在が零した、ひどく素朴な弱音だった。
メアの指がカナの髪を滑り、頬に触れた。月明かりの中で見下ろすその黒い瞳が、僅かに揺れている。指先は冷たかった。
石橋の方で、焚き火が爆ぜる音が遠く響いた。
「……俺は、お前にそんな思いをさせるために生きてるんじゃない」
声は低く、ゆっくりと紡がれた。言葉を選んでいるのではない。自分の中から一語ずつ、懸命に掘り出しているのだ。この男は、こうした会話をしてきたことがない。感情を言葉にする訓練など受けてはこなかった。剣の振り方と部隊の動かし方しか教わらなかった男が、暗闇の中で必死に手探りをしている。
「すまない……お前が悲しくならない方法なんて、俺には分からない」
残酷なほどに正直だった。メアは嘘をつけない。安易な慰めを口にすることもできない。代わりに、頬に触れていた手が顎へと移り、カナの顔を僅かに上向かせた。
「だが、箱に入れるのは許さない。それだけは、絶対にだ」
月を背負ったメアの顔は影になり、表情までは読み取れなかった。だが、その声だけははっきりと届く。震えも怒りもなかった。ただ、譲れないものを提示する時の、静かな強さだけがあった。
メアの指が顎に触れたまま、カナの黒い瞳が月明かりを映していた。瞬きをひとつ。それだけだった。それは同意でも拒否でもなく、彼の言葉を真っ直ぐに受け止めたという沈黙だった。
風が草原を渡っていく。二人の間を通り抜けた風は、不思議と冷たくはなかった。それは森の方角から吹いてきた、柔らかな風だった。
メアの手がゆっくりと離れていく。名残惜しさを意識したわけではないだろうが、指が離れるにはいつもより長い時間がかかった。カナの顎から頬を掠め、髪の先に触れて、そして静かに夜の中へと落ちていった。
「……行くぞ。冷える」
声は普段の調子に戻っていた。少なくとも、そう聞こえるように整えられていた。
石橋の野営地が近づいてくる。焚き火の光は大きくなり、川のせせらぎが聞こえる。火の傍らでエフィが荷を整理し、ビィは火の番を。イーガは石橋の欄干に腰掛けて周囲を警戒していたが、二人の姿を認めると無造作に片手を上げた。
「湯、沸いてます」
イーガはそれ以上何も問わなかった。二人の間に流れる気配を察するくらいの鋭さは持っていたし、踏み込むつもりもなかった。それが彼なりの距離感だった。
焚き火の熱が、二人の顔を赤く照らした。橙色の光が月明かりの青白さを追い払い、カナの頬に温かい色を灯す。エフィが無言のまま、毛布を差し出した。
悲しい、という単語とカナを結びつけるのは、難しいことのように思えた。誰も、彼女が泣いている姿を見たことがないからだ。いつも脳天気に見えて、その実、心の奥底には自分だけの考えを持っている。その彼女が悲しみを口にしたのを、騎士たちは初めて聞いた。
毛布を受け取ったカナは、焚き火の傍らに腰を下ろした。
エフィから受け取ったそれを肩に掛ける仕草は、もう慣れたものだった。森にいた頃には縁もゆかりもなかったはずの毛布を、今では当たり前のように体に巻きつけている。人間の暮らしに馴染んでいく速度は、カナ自身が自覚しているよりもずっと速い。
ビィが湯を注いだ椀をカナに差し出した。干した薬草を煮出した簡素な茶だ。
「熱いので気をつけて」
ビィの声は普段通りを装っていたが、目の縁が僅かに赤かった。泣くのを堪えたのだ。草原でカナが零した言葉を聞いていたのは、メアだけではなかった。馬の背から放たれた彼女の声は、夜の静寂によく通った。
イーガが欄干から飛び降り、焚き火に新しい薪をくべた。火の粉が舞い上がり、夜空に吸い込まれていく。薪を火に押し込み、彼は立ち上がると再び見張りの位置へと戻った。言葉にできない苛立ちが浮かんでいた。何か気の利いたことを言えるはずだと思って、結局何も出てこなかった自分に対する苛立ちだった。
メアは焚き火から少し離れた場所に立っていた。腕を組み、闇の向こうを見つめている。それはいつも通りの、隊長としての隙のない姿だった。
だが皆わかっていた。メアがその位置を選んだのは、火の光で視界が鈍るのを防ぐためではない。今の自分の顔を、焚き火に照らされたくないからだ。
「隊長、交代は二刻後に。先に休んでください」
「いい。先に寝ろ」
「……了解」
エフィはそれ以上、押し問答はしなかった。今夜のメアに何を言っても無駄だと悟っていたからだ。焚き火の傍に戻り、自分の毛布を広げながら、彼女はちらりとカナを見た。
カナは椀を両手で包み込み、立ち昇る湯気を見つめていた。いつもの、どこか遠い場所を見ているような瞳だ。浮世離れした、のんびりとした顔。彼女は泣いてはいなかった。悲しそうでもなかった。ただ静かに、温かいものを手の中に持って座っている。
それが余計に、騎士たちの胸に深く堪えた。




