59.真珠の小箱
「作業を急ぐ。日が落ちる前に地上に戻る」
メアの声が響いた。感傷の残滓を、命令の一言で断ち切る。命令を下したメアの指先は、まだわずかに震えている。エフィの目には、彼が無理やり隊長という仮面を顔に張り付かせているように見えた。
ビィとイーガの手が素早く宝石を選り分け、エフィが献上品の梱包を仕上げていく。
カナはメアの隣に立ち、その仕分けの様子を静かに眺めていた。裸足の足元では、苔の光が心音のように脈打っている。森の主の鼓動に合わせるかのように、ゆっくりと、深く。
作業は思いのほか手間取った。
千年前までの貢物は、想定を遥かに超えて膨大だった。根の棚の奥にはさらに棚があり、壁の窪みを探れば探るほど新しい品々が姿を現す。ビィが歓声を上げるたびにイーガが溜息をつき、イーガが舌打ちするたびにビィが首を傾げた。二人の性格の差が、そのまま作業の速度に表れている。
「イーガ、ほら。翡翠の耳飾り、対になってる」
「いちいち感動してんなよ、日が暮れる」
「だって綺麗じゃん……」
「綺麗だから何だ、持てる量に限りがあんだろ。選べ」
イーガの判断は現実的で、かつ正しかった。五人の人間が持ち帰れる量には限界がある。献上品三点に加えて換金用の品を選ぶとなれば、一人あたりの荷重を厳密に考慮しなければならなかった。
エフィが献上品の梱包を終え、仕分けの輪に加わった。赤い髪を耳の後ろにかき上げ、ビィとイーガが並べた品を一瞥する。
「大きいものは置いていきなさい。宝石と金細工の小物だけ。背負える量で収めるの」
その指示は的確だった。エフィの指が次々と品を選り分けていく。残すもの、持つもの。迷いのない取捨選択に、ビィが感心したような目を向けた。
メアは広間の入口に立ち、階段の上方を見上げていた。水の壁越しに差し込む光の角度が変わりつつある。日が、確実に傾き始めていた。
「あと四半刻で切り上げる」
振り返ると、カナが部屋の隅にしゃがみ込んでいた。仕分けの輪から外れ、根の棚に並んだ品々を一つずつ指先で愛おしそうに撫でている。持ち帰らないものたちに、静かに別れを告げるように。
小さな金の鈴があった。振っても音は出ない。だがカナの指が触れた瞬間、鈴の表面が淡く光り、人間の耳には届かない微細な振動が広間を走った。大樹の根が微かに震え、苔の光が一瞬だけ強く輝く。
カナが鈴を棚に戻した。立ち上がり、メアの元へと歩み寄る。
「全部持ってくのは、やっぱり無理だね」
「次がある。今回は必要な分だけでいい」
短い返答だった。だがそれは、次がある、カナをまたここに連れてくるという約束でもあった。メアがそれを意図して口にしたのかどうか、本人にも自覚はなかった。
ビィが最後の小箱を閉じた。
「仕分け終わりました。宝石類が三袋、金細工が二袋です」
「重さは一人あたり、まあギリってとこ。献上品は隊長とエフィさんで分担すりゃいけるっしょ」
「そうする。ビィとイーガは換金用の荷を背負え。カナは身軽にしておけ」
カナに余計な荷を持たせないという判断は、護衛としては当然のものだ。だが、本当の理由は別にあった。森の中でカナの両手を塞ぎたくなかったのだ。何かあった時、彼女が自由に動けるように。あるいは、何かあった時、メアがその手をすぐに掴めるように。
五人が荷を背負い、階段の前に集まった。苔の光が青緑の道を示している。見上げれば、水の壁の向こうに泉の水面が揺らめいているのが見えた。
カナが部屋を振り返った。
残された宝物が、苔の光に照らされて静かに並んでいる。音のない鈴。琥珀の花。そして、真珠の小箱。
カナが階段に足をかけた。裸足が苔を踏むたび、光の輪が波紋のように広がる。一段、二段。メアが続き、エフィが続き、ビィとイーガが最後尾を固めた。水の壁が揺らめき、広間の光が次第に遠ざかっていく。
地上に出た時、森は深い夕暮れの色に染まっていた。
泉の水面が橙色に輝き、大樹の枝が夕日を受けて黒々とした影絵のように浮かび上がっている。カナが手をかざすと、割れていた水が音もなく閉じた。階段は水中深くへと沈み、泉は何事もなかったかのように澄んだ水面を取り戻した。
風が吹いた。木々がざわめいた。夕暮れの森は、朝とは違う声で囁いていた。それは歓迎ではなく、切実な引き留めだった。行くな、ここにいろ、と。
カナの髪が風に攫われた。黒い髪が橙色の光を纏い、鮮やかに舞い上がる。カナはそっと目を閉じていた。風の声を聞いているのだ。森が何を訴えているのか、この場で真に理解できるのは彼女だけだった。
メアの手が、カナの肩に触れた。
「行くぞ」
引き留める森に対する、人間の回答だった。カナの肩に置かれた手には、確かな重みと体温があった。
カナが目を開けた。
「いいこにしてて。また来るね」
森が応えた。
風が凪いだ。一瞬前まで枝を激しく揺らしていた夕風が、ぴたりと止まった。木々の葉が動きを止め、鳥の声が消え、虫の羽音すら聞こえなくなった。森全体が息を潜めたような、静寂が辺りを包み込む。
小さな水音がひとつ、静寂を破った。潜っていた水鳥が浮上し、水を弾くように羽ばたいた。こちらの都合など構わず、のんびりとした足取りでカナの元まで歩み寄ってくる。その嘴には、柔らかい光を纏った一粒の真珠が咥えられていた。
「ありがとう。でも……」
カナの黒い瞳が、動揺の名残があるメアの表情から何かを読み取ろうとしている。考えるように一度目を伏せると、彼女はしゃがみ込み、水鳥の耳元を指先で優しく掻いてやった。
「そのうち使うときがきたら、ちょうだいね」
エフィが歩き出した。長い脚が白い花を踏まないよう、わずかに歩幅を調整しながら。水鳥が驚いたように飛び立ち、落とされた真珠は音もなく泉に吸い込まれていった。
「隊長が聞かないなら、私が聞く。隊長に言えないなら、私に言えばいい。あの真珠は何」
真っ直ぐな瞳が、容赦なくカナを射抜いた。カナは知っている。誰よりも厳しいこの女騎士の声の奥底には、誰よりも深い優しさが秘められていることを。
「あれは……」
カナの声は、感情が抜け落ちたように響いた。戸惑うでもなく、震えるでもなく、どこか他人事のように。
「悲しい気持ちを入れるのに使ってる。ずっと持っているには重たいから」
エフィが一瞬目を見開き、言葉を探し、やがて悟ったように口元を引き結んだ。
墓標のように並べられた古い宝物。その中にポツンと置かれた真珠の小箱。カナにとっては、あの箱もまた過去の遺影だったのだ。
「……そう」
青白い顔をしたメアが、しゃがんだままのカナに手を伸ばした。カナはその手を取って立ち上がる。
メアの手が離れ、彼女の背に回った。押すのではない。導くように、軽く触れたまま歩き出す。カナの足が動いた。エフィの背を追い、白い花の間を縫って進んでいく。
一輪、また一輪。五人が泉から離れるにつれ、花は静かに閉じていった。来た時と同じように道は開け、頭上の枝は行儀よくアーチを作り、森はまだ主を送り出すことを受け入れていた。
だが、根が戻るのが僅かに遅かった。
カナが通り過ぎた後、道を塞ぐように戻る速度が、来た時よりも心持ち遅い。名残惜しそうに、未練がましく。帰り道を残しておきたいとでも言うように、木の根は緩慢に元の位置へと戻っていく。
メアはそれに気づいていた。馬の上で背後を一度だけ振り返り、閉じかけの道を見つめる。黒い瞳に何かが過ぎったが、彼は何も口にはしなかった。前に座るカナの髪に顔を埋め、深く息をついた。森の気配の中に、僅かに石鹸が香る。
森が暗くなっていく。夕暮れの橙が紫へと変わり、木々の輪郭が闇に溶け始めた頃、ようやく森の縁が見えた。
森の境界線。一歩踏み出せば人間の世界、一歩退けば森の領域。その狭間で、カナの裸足の足が揺れた。
小さく、唇だけが動いた。おやすみ、なのか、またね、なのか。誰の耳にも届かない声だった。
森を抜けた。ささやきだけを残すように。




