58.いつかの記憶
「隊長。これを見て」
エフィが剣を携えて戻ってきた。両手で水平に剣を捧げ、メアの前に差し出す。
刀身には、何らかの文字が刻まれていた。苔の光の下では満足に読めないが、その文字の形自体が、現存するどの言語とも明らかに異なっている。失われた国の、失われた言葉。エイがいれば解読の糸口が見つかるかもしれないが、あいにくここにはいない。
「刃が生きてる。手入れもされずに、この切れ味はあり得ない。魔力が込められているとしか考えられない」
「献上品の筆頭候補だな」
メアが刀身を検分する。指を触れることはせず、ただ見るだけで理解した。この剣は、持つ者を選ぶ類の武器だ。不用意に振れば、何が起きるか分からないほどの威圧感がある。
「カナ。この剣に触れても問題ないか」
「大丈夫。前の持ち主は剣より絵を描く方が好きだったから、扱い慣れた手の中にいる方が安心すると思う」
エフィが剣を布で包んだ。丁寧に、敬意を込めて。それは、騎士が騎士の武器を扱うときの手つきだった。
「献上品の一点目はこれだ。あと二点。カナ、他に王に相応しいものはあるか」
カナが広間を歩き始めた。
裸足の足が石の床を踏むたびに、苔の光が足跡のように点々と灯っていく。根の棚を一つずつ見て回るカナの後ろ姿を、四人は黙って見守っていた。口を挟める空気ではなかった。記憶を持つ者だけが知る品々の来歴を、他の誰が語れるだろう。
カナの手が止まった。根の窪みから取り出したのは、掌に収まるほどの瑠璃色の瓶だった。栓は金で作られており、表面には細密な彫刻が施されている。花と、鳥と、見たこともない文様が複雑に絡み合い、苔の光を受けて瓶そのものが蒼く呼吸しているように見えた。
「さっきの剣を持って行くなら、これも。東にあった国の女王様がくれたもの。どっちも同じ頃のものだから。一緒にしてあげて」
カナが栓を抜いた。
その瞬間、広間に芳醇な香りが満ちた。千年前の香油が、今も生きていた。花とも果実ともつかない、甘く、深く、そしてどこか悲しい香り。ビィが目を瞬かせ、イーガが鼻を押さえかけて動きを止めた。エフィの睫毛が静かに伏せられる。女の本能が反応したのだろう。この香りを調合した者の技術が、尋常ではないことを肌で理解していた。
「……これは、王女様への献上品にいいんじゃないでしょうか」
「王女は香に造詣が深いと聞く。二点目はこれだ」
メアが頷いた。それは政治的判断だった。王だけでなく王女の歓心も得られれば、王城との関係はより盤石になる。エイならば満面の笑みで頷くだろう選択だった。
カナが瓶に栓を戻し、エフィに手渡した。エフィが受け取る指先が、一瞬だけ愛おしそうに瓶を撫でる。名残惜しそうなその様子を見て、カナが小さく笑った。
「エフィ、いい匂いだった?」
「……別に。仕事だから」
赤い髪の奥で、耳が僅かに色づいていた。
カナが再び歩き出した。今度は壁際の大きな根の裏に回り込み、四人の視界から消えた。メアの足が一歩踏み出しかけ、そして止まる。ここは泉の中だ。カナの領域であり、危険はない。頭ではそう分かっていても、視界からカナが消えることへの不快感が、メアの顎を引き締めていた。
根の向こうから、カナの声が聞こえた。
「メア、手伝って。重い」
メアが根の裏に回り込むと、カナが石の床にしゃがみ込んでいた。その前には、平たい石板が横たわっている。人の腕ほどの長さで、厚さは指三本分。表面が滑らかに磨かれ、そこに絵が描かれていた。
絵の具は褪せていない。おそらく鉱物顔料だろう。青と緑と白が鮮やかな、一枚の風景画。森があり、泉があり、その前には人々が集まって手を合わせている。空には鳥が舞い、水の中には白い蛇がいる。
メアには分かった。これはカナの肖像だ。千年前の民が見た、森の主の姿。
「……これは」
「三つ目はこれ。私が眠る前、さっきの剣の持ち主が泉の様子を描いてくれたの。いい絵でしょ?」
穏やかな声だった。だがメアの目は、一人の人間としてその絵に釘付けになっていた。出会った頃に聞いた、千年前の国。森の東で人々が暮らし、森の主を敬い、捧げ物をし、絵を描いた。そのすべてが滅び、歴史からも消え、残ったのはこの石板と、泉の底の宝物と、カナだけだった。
献上品として選ばれたこの絵が持つ意味を、メアは理解した。剣は王の武威に。香油は王女の教養に。そしてこの石板は、かつて一つの国が森の主と共に在ったという証として、王の知性に訴える。
だが、違う。政治的な計算ではない。カナはそんな計算をしない。ただ、絵を描いた人のことを覚えていて、その人の仕事を誰かに見てほしいだけなのだ。
だからこそ、これ以上の献上品はなかった。
「持つ。退がれ」
メアが膝をつき、石板の端に手をかけた。重い。見た目以上に重量があったが、持てないほどではない。両腕で抱え上げ、苔の光の中に運び出す。
「わ、すごい……絵だ」
「千年前の絵が残ってんのかよ」
「触るな。指の脂で劣化する」
エフィが二人を制し、布を広げた。メアが石板をそっと置く。三点の献上品が並んだ。魔力が込められた剣。女王の香油。そして、滅びた国の記憶。
メアが立ち上がり、額の汗を拭った。
「献上品は以上だ。残りは換金用に選別する。ビィ、イーガ、仕分けを続けろ。小さい宝石類と金細工を優先しろ。エフィは献上品の梱包を頼む」
三人が動き出した。広間に作業の音が戻る。小箱を開ける音、金属が触れ合う音、エフィが布を裂く音。
メアがカナの隣に立った。二人の影が苔の光に照らされ、奥へと伸びている。
影を追って部屋の奥に視線を向けた。大樹の主根の手前に置かれた真珠の小箱。カナが大切だと言ったものだ。メアは追及しないと決めたはずだった。だが、いつの間にか言葉が漏れていた。
「持って帰るか。ここに置いていくか」
真珠の由来は聞かなかった。触れていい一線を、この男は本能で知っていた。カナが望むなら運ぶ。ただ、それだけを伝えたかった。
カナの黒い瞳が、メアの黒い瞳を捉えた。同じ色のはずなのに、そこに映る景色の深度が決定的に違っている。片方は人間の二十八年という波乱の歳月を、もう片方は森の悠久という平坦な時間を湛えていた。
メアは待っていた。答えを急かすこともなく、ただそこに立ち、彼女の言葉を受け止める準備をしていた。
返事は思っていたものとは違った。
「メアは、私にどのくらい生きてほしい?」
カナの声は静かだった。何かを求めるでもなく、相手を試すでもなく、ただ純粋に問いかけている。まるで子供が明日の天気を尋ねるかのような無垢さだった。
けれど、その問いの裏に潜む致命的な重さに、メアは気付いていた。
どのくらい生きてほしいか、その問いは、彼女にとって寿命が選べるものであることを意味していた。カナにとっての生とは、人間のように砂時計の最後の一粒が落ちるのを待つものではなく、自らの意思で傾け、空にすることのできる水差しのようなものなのだ。
メアが一歩踏み出し、距離を詰めた。
「俺が答えていい問いじゃない。だが、お前が聞くなら答える。……お前が望むだけ生きろ。百年でも千年でも」
メアはカナの瞳を見つめ返した。決して視線を逸らさないのは、そうしなければ自分自身の輪郭が崩れてしまいそうだったからだ。
「俺が先にいなくなる。それは、分かっている」
その一言を口にした瞬間、メアの喉が微かに動いた。抗いようのない運命を無理やり飲み下すように。
カナが小さく首を傾けた。
泉の水面に石を投げ入れても、広がる波紋はすぐに消え、元の静寂へと戻っていく。カナの悲しみは、そういう種類のものだった。あまりに深すぎて、容易には表へと溢れてこない。その凪いだ静けさが、かえってメアの胸を掻き乱した。
「私も、メアと同じくらいじゃだめ?」
その残酷な提案に、メアの腕が目に見えて強張った。
物理的な衝撃に殴られたかのような、呆然とした顔。自分と共に死ねと言えば、それは孤独という檻から彼女を救う究極の愛の言葉だ。だが同時に、彼女という永遠の奇跡を、自分の矮小な一生という墓穴へ道連れにする最悪の罪悪でもある。
隣にいてほしいという渇望と、生きていてほしいという祈りが、彼の胸の中で激しくぶつかり合い、火花を散らしていた。
こういう時、人はどんな言葉を選ぶのか。ディートなら気の利いた冗談を言い、エイなら優しく肩を抱くだろう。
だがメアにあるのは、戦場での、死守せよ、撤退せよ、の二択だけだ。
「俺と共に死んでくれ」とも「俺を置いて生きてくれ」とも言えない。どちらを選んでも、彼は自分自身を、そしてカナを裏切ることになる。
「だめだ」
声が低く、掠れていた。
「それは、だめだ」
同じ言葉を繰り返した。鋼の規律で作られていたはずの彼の時間が、カナのたった一言で根底から崩壊していく。その男が、今、泣き出しそうな子供のように同じ言葉を繰り返している姿を、部下たちは息を潜めて見守るしかなかった。
メアの手がカナの肩を掴む。縋るように震える自分の手に目を落とした。
節くれだった、傷だらけの、二十八年の歳月が刻まれた自分の手。この手は、この透き通った水差しを支えるにはあまりに無骨で、あまりに早く朽ち果てる。
自分が死ぬ時、支えていた彼女という水差しが地面に落ちて割れる光景を想像し、彼は吐き気すら覚えるほどの恐怖に襲われた。
「……俺と同じだけでいいなんて言わないでくれ」
ようやく絞り出した声だった。
「頼むから」
「そうだね。ごめんね。変なことを聞いて」
カナが静かに微笑み、身じろいだ。
彼女は拒絶を受け入れたのではない。最初から答えが出ていて、ただ最後の一押しを確かめただけなのだ。その超然とした態度に、メアの心臓は痛いほどの鼓動を刻む。
メアの理性よりも先に指先が反応した。離さない。
そのまま、彼女を強く引き寄せた。
何を伝えたいのか、自分でも分からなかった。ただ、力を込めなければまた消えてしまうような気がした。布越しに伝わってくる体は驚くほど軽く、細い。
「聞け」
短く、硬い声だった。メアの顎がカナの黒髪に触れる。そこからは、土と葉の、森の匂いがした。
「変なことじゃない。聞けばいい。俺に聞け。何度でも、同じことを答える」
矛盾している。カナがいなくなることなど想像するだけで耐えられない。一方で、自分がいなくなった後の絶望的な時間を彼女に押し付けている。二人分の悲しみを、一方だけに背負わせようとしている。
メアは、自分自身の言葉に切り裂かれていた。
それでも、彼は彼女を離すことができなかった。感情の扱い方を知らない人間が、持てる語彙のすべてを絞り出した、不格好な生への執着だった。




