57.沈黙
王都の東門を出て半日。普通なら馬を繋ぎ、藪を掻き分けなければ進めない東部森林区域の深部。だが、馬の番は必要なさそうだった。
「……道が、避けていく」
メアが呟いた通り、一行が歩を進めるたび、まるで見えない巨大な指が下草を撫でつけたかのように、滑らかな道が開通していく。馬たちは最初こそ鼻を鳴らして怯えていたが、足元の土がふかふかと柔らかく、蹄に優しい絨毯のように変化すると、驚くほど素直に足を進め始めた。
本来なら馬が通れるはずのない密林のアーチを、一行は手綱を引いたまま歩いて通り抜けていった。
春の盛りのような濃密な生命力が周囲に溢れ返っている。苔むした幹は瑞々しい潤いを湛え、幾重にも重なる枝葉の隙間からは、木漏れ日が降り注いでいた。かつて静謐に満ちていたはずの森は、今や森そのものが深く力強い吐息をついているかのように、かすかに揺らいで見える。
一度生まれ変わった森ではあったが、以前の森は、生い茂る藪を掻き分け、横たわる倒木を越え、幾度も方角を見失いかけながら進むような、鬱蒼とした森だったはずだ。
「前来た時と全然違う」
「気持ち悪いくらい歩きやすいんだけど」
「黙って歩いて。警戒は怠るな」
エフィの声は鋭かったが、その瞳は絶えず木々の梢を追っていた。枝の上では小鳥が囀っている。それも一羽ではない。道に沿って点々と止まり、まるで一行を導くように鳴き声を繋いでいた。
カナもまた歩いていた。落ち葉を踏みしめるその音は妙に静かで、まるで森が彼女の足音を一つ残らず吸い込んでいるかのようだった。
行く手に、木の根が地面から大きく浮き上がり、足を取られそうな箇所があった。メアが振り返り、カナに手を差し伸べようとした、その刹那。
根がずるりと生き物のように動いた。土の中へ潜り込むようにして平らになり、行く手を阻んでいた障害が消滅する。
メアの手が、行き場を失って空を掴んだ。
メアは、握りしめるもののない自分の掌を凝視した。土を払い、茨を切り拓くのは自分の役目だと思っていた。だが、この森において自分は、招かれただけの客人に過ぎない。指先が微かに冷えるのを感じながら、彼はその手をゆっくりと下ろした。
「今、動きましたよね?」
「前を見ろ」
メアの声には、僅かな苛立ちが混じっていた。森がカナに媚びている。自分たちが手を貸すよりも先に、より完璧に、森が彼女の足元を整えてしまう。騎士として、一人の男として、手を差し伸べる隙すら与えられない。嫉妬と呼ぶにはあまりに馬鹿げた感情が、メアの眉間に皺を刻んでいた。
カナの横を、一匹の狐が風のように駆け抜けた。ふさふさとした尾を揺らし、ちらりとカナを見上げると、そのまま藪の中に消えていく。続いて兎が顔を出し、鼻をひくつかせて様子を窺った後、再び姿を隠した。遠くの木立からは鹿が首を伸ばし、こちらをじっと見つめていた。どの動物も逃げようとはせず、怯える様子もない。
森の住人たちが、総出で主の帰還を出迎えていた。
「……王都の凱旋行進より立派じゃない」
それは皮肉ではなかった。エフィの声には、隠しきれない畏敬の念が滲んでいた。
やがて、木漏れ日の色が変化した。暖かな金色から、青みがかった銀色へ。空気がしっとりとした湿り気を帯び、水の匂いが鼻腔を満たす。泉が近い。
カナの足取りが変わった。速くなったわけではない。一歩一歩がより深く、重くなった。土を踏みしめるたびに、彼女が森という巨大な生命体と繋がり直しているように見えた。
そして、不意に視界が開けた。
そこには、広大な泉があった。
記憶の中にあるそれよりも、遥かに巨大だった。碧い水面は神秘的な光を湛え、中央にそびえ立つ大樹は天蓋のように巨大な枝を広げている。幹の太さは大人が何人も手を繋いでようやく囲めるほどで、白い樹皮が水面の反射を受けて真珠のような輝きを放っていた。力強い根が水の中にまで伸び、泉そのものを優しく抱きかかえている。
ビィが息を呑んだ。イーガが言葉を失い、立ち尽くした。エフィの手が、無意識に剣の柄から離れた。ここではあらゆる武器が無意味であると、本能が理解したのだ。
ただメアだけが、泉ではなくカナを見つめていた。
森の主が、水辺に立っている。ふわりと風が吹き、彼女の黒髪を揺らした。カナの影が鮮やかに水面に映り込む。
その影は、一瞬だけ人の形をしていなかった。水面が細かく波立つと、真珠色の異形の影はすぐに消え、元の娘の形に戻った。
メアの目が鋭く細められる。
水面が淡い光を放ち、静かに波紋を広げた。見えない何かに堰き止められた水が、透明な階段を形作っていく。かつては泉の底へと続いていたその階段は、新しく生まれ変わったこの泉では、巨木の根元へと真っ直ぐに繋がっているようだった。
馬を繋ぎ、カナを先頭に、透明な階段を降りていく。やがて、白く艶めいた壁に囲まれた広間が姿を現した。水面下にあるはずの巨樹の根元に、これほどの空間がどうやって収まっているのか。幾度も足を踏み入れたはずの第三部隊の面々であっても、その荘厳さを前にしては、ただ圧倒されることしかできなかった。
石を削り出したテーブルの上に、スプーンやフォークが雑然と収まった木の菓子箱が置かれている。そこに施された花や小鳥の彫刻は、色とりどりに染色され、可愛らしい。その周りだけは温かな生活感が漂っていた。
その場違いな彫刻のついた箱に、メアは言いようのない安堵を覚えた。
同じように感じたのだろう。ビィの安心したような溜息が、場を支配する張り詰めた緊張感を、そっと溶かしていった。
「こっちだよ」
不意に振り返り、カナが言った。
その声は明るかったが、まるで声を出すことを急に思い出したかのような、唐突な明るさが透けていた。
イーガが判断を仰ぐようにメアへと視線を向けた。メアは問題ないと小さく頷き、先陣を切ってカナの後に続く。
導かれるまま進んだ先には、石の扉が天井まで伸びていた。人の力では動くはずがない。その扉が、カナが近付くだけで滑るように開き、主を迎え入れた。
そこは先程までの広間とは雰囲気が異なっていた。大樹の根が天井と壁を網の目のように覆い、その隙間から苔の淡い光が漏れ出している。根の合間には棚のような窪みが幾つも作られており、そこに夥しい数の財宝が並んでいた。根によって整理され、まるで展示するかのように配置されている。
金の杯、銀の腕輪、瑠璃色の瓶、翡翠の首飾り、そして琥珀に封じられた花。
鍛造技術が失われて久しい、名もなき古代の国の精緻な手仕事が、苔の光の中で千年ぶりに息を吹き返していた。
メアの目が一点で止まった。壁の奥、最も大きな根の窪みに、一振りの剣が静かに横たえられている。鞘は朽ちかけているが、柄に嵌め込まれた青い石が脈打つように淡く明滅していた。
エフィが息を詰めた。
「あれは……」
掠れた声だった。剣を見るその瞳は、紛れもなく一人の騎士のそれだった。刀身の形状、柄の長さ、鍔の意匠。一目見ただけで分かる。あれは儀礼用の飾り物ではない。かつて実戦で振るわれ、幾多の血を吸い、それでもなお折れることのなかった本物の刃だ。千年以上の歳月を経てなお、戦意を失っていない。
イーガが壁際の小箱を覗き込んだ。外れかけた蓋の隙間から、親指ほどの大きさがある赤い宝石が転がっているのが見えた。磨き上げられてもいないのに、それ自体が自ら光を放っていた。
「……これ一個で、俺の俸給何年分だよ」
誰も笑わなかった。それが冗談には聞こえないほどの現実味がそこにはあった。
カナは黙って、その広間を見回していた。
古い記憶を辿るように、指先で根の棚に触れる。金の杯を撫で、銀の腕輪を持ち上げては、また静かに元の場所へと戻す。一つ一つの品に目を留める時間は、ひどく長かった。人間が古い手紙を読み返すような、懐かしさとも寂しさともつかない複雑な表情が、苔の光に照らし出されている。
カナが琥珀に封じられた花を手に取った。掌に載せ、光に透かす。琥珀の中では、いつの時代のものかも知れない花弁が、完璧な姿を保ったまま収められていた。咲き誇った瞬間のまま、時を止められた花。
カナの唇が微かに動いた。声にはならなかった。名前を呼んだのかも知れない。かつてこの琥珀を捧げた誰かの。今はもう歴史にすら残っていない、遙か昔の国の、名もなき誰かの名を。
メアは、ただその姿を凝視していた。口は開かなかった。この沈黙はカナだけのものであると理解していたからだ。彼女は今、悠久の弔いの只中にいる。
カナが琥珀を棚に戻し、振り返った。
「これ、っていうのがあれば教えて。残しておきたい物もあるけど、ここにいるより、誰かの手の中にいたいこたちもいるから」
穏やかな声だった。揺らぎはない。既に決意を固めた顔だった。
「だから、出してあげよう」
エフィが小さく頷き、ビィが拳を握りしめる。イーガが壁から背を離した。
メアが一歩、前に出た。
「選ぶぞ。王への献上品は三点。格と希少性、それから王家の威信に相応しいものを選ぶ。残りは換金用だが、出所を問われにくい小物を優先する。エイの指示通りだ」
それは、いつもの隊長の声だった。感傷から即座に思考を切り替える速度。それこそが、この男の強さでもあった。
「エフィ、あの剣を見ろ。ビィとイーガは小箱の中身を種類別に仕分けしろ」
三人がそれぞれの役割へと散った。エフィの長い指が朽ちかけた鞘に触れ、慎重に剣を引き抜く。苔の光を受けた刀身は、鏡のようにエフィの顔を映し出した。千年の時を経た鋼でありながら、錆一つ浮いていない。エフィの目が見開かれ、感嘆の吐息が漏れた。
ビィとイーガが並んで小箱を開けていく。宝石、金貨、細工物。中身を石の床に並べるたびに、苔の光が反射し、周囲が万華鏡のように煌びやかに彩られた。
メアはカナの傍らに立っていた。全体を見渡しながら、低い声で問いを投げかける。
「献上品にお前の意見がいる。この中で、最も古いものはどれだ」
古いものほど価値がある、という打算ではない。最も古いものは、最も長くカナと共にあったものだ。それを手放させてしまっていいのか。メアは不器用な気遣いで、それを確認していた。
数百年、あるいは千年か。メアの想像しうる古さの限界を問う声に、カナは少しだけ考える仕草を見せた。黒い瞳が広間をゆっくりと巡った。根の棚、壁の窪み、床に並べられた宝の山。そして、ある一点で視線が止まった。広間の最奥、大樹の主根が太く地中へと潜り込む手前に、他の品々とは離れて置かれた一つの朽ちかけた木箱があった。
メアには見覚えがあった。随分と傷んではいるが、魚たちが集めた真珠が詰まった、枯れた泉の水が湧き出た、あの木箱だ。
カナは静かに首を振った。
「あれはだめ。あれは私の大切なものだから」
思いがけない強い言葉に、メアは言葉を返せなかった。穏やかな表情の中で、彼女の黒い瞳がかすかに揺れている。
見たことのないカナだった。メアの指先が自らの手のひらに強く食い込んだ。手が触れるほどの距離にいるはずなのに、これほどまでに彼女が遠く感じられたことは、初めてだった。




