54.いかほど?
朝が来た。
宿舎の窓から差し込む光が、寝台の上の二つの影を照らしている。カナの手はまだメアの袖を掴んだままで、枕の上では二人の黒い髪が、境目もなく混ざり合っていた。
カナが先に目を覚ました。
黒い瞳がゆっくりと開き、天井を見つめる。いつもの厨房横の部屋とは違う匂いがした。視線を隣へと移すとメアの寝顔があった。起きている時の険しさは消え、眉間の皺も今は見当たらない。唇を僅かに開き、静かな呼吸を繰り返すその姿は、あまりにも無防備だった。
カナは動かず、ただじっとその寝顔を眺めていた。まばたきを忘れ、呼吸を合わせる。まるで森で朝露を見つめる時のような瞳だった。流れ落ちる瞬間を見逃さないように、と。
廊下を足音が通り過ぎる。ビィの慌ただしい駆け足と、それを窘めるガルドの低い声。日常が動き出そうとしていた。
メアの瞼が微かに震えた。意識が浮上しかけている。カナの顔との距離は、吐息が頬にかかるほどしかなかった。彼が目を開ければ、最初に視界に入るのは自分をのぞき込む黒い瞳だろう。
カナは微笑んで、目覚めるのを待っていた。
「おはよう」
メアの黒い目が開いた。至近距離にあるカナの笑顔。
一瞬、彼の思考が停止した。自分がどこにいるのかを理解するのに二秒。天井、壁、自分の部屋、カナの匂い。袖を掴む感触。近い。顔が近すぎる。
声にならなかった。メアは反射的に身を起こそうとしたが、寝台の狭さに阻まれて背中を木枠にぶつけ、鈍い音を鳴らした。
「……おはよう」
絞り出した声は掠れていた。七日間の疲労がすべて声帯に集まったかのような低音。だが、メアの目はしっかりとカナを捉えていた。朝の光の中で見る彼女の瞳は、夜よりも明るく透き通っている。寝起きの頭で、それでも目を逸らさなかったのは、メアなりの覚悟だった。妻の朝一番の顔を、正視するという。
その時、扉の向こうから丁寧なノック音が響いた。
「失礼します。隊長、朝の報告が」
扉は開かなかった。副官のエイは、返答を待っている。数秒の沈黙が扉越しに流れた。部屋の中の気配から、状況を察しているのだろう。
廊下の奥からビィの「エイ副隊長、どうかしたんですか?」という問いが聞こえ、「少しお待ちください」とエイが柔らかな声で返した。教育的配慮である。
カナはメアの袖を掴んだまま、きょとんとしていた。メアがそわそわしている理由がわからない。森の主にとって、隣で眠り、挨拶を交わすことは、小動物と寄り添って朝を迎えるのと変わりない。至近距離の何が問題なのか、本気で理解していない顔だった。
メアが不自然に咳払いをした。
「エイ、五分待て」
「承知しました」
足音が遠ざかっていく。壁越しに聞こえるビィの「え、なんで?」という疑問に、エイが「朝は何かとお忙しいものです」と返していた。
メアが寝台の縁に座り直し、乱れた髪を手で押さえた。カナの手はまだ袖を離さない。メアは視線を落として自分よりも小さな手を見つめ、それから顔を上げた。
「着替える」
カナの指がぴくりと動いたが、離さなかった。
沈黙が落ち、窓から差し込む朝日が寝台の上に光の四角を描く。メアとカナ、二つの黒い瞳がその光の中で静かに向き合っていた。
メアが息を吐いた。諦めに似た長い溜息。空いた手が持ち上がり、カナの頭に置かれた。乱暴でもなく優しくもなく、ただ置いただけの手。その手が、愛おしそうに黒い髪を梳いた。
「……少しだけだ」
カナの顔が、花が開くようにぱっと輝いた。
カナはメアの袖を掴んだまま、猫のように目を細めていた。髪を梳くその感触を全身で味わう。
メアの手が止まり、カナの指が名残惜しそうに袖から滑り落ちた。メアが立ち上がり、棚から服を取り出して黙々と着替え始める。
再びノックがあった。
「隊長」
「入れ」
扉が開き、エイが一礼して入室してきた。手には書類と、見飽きた紫色の封蝋の押された書簡が一通。エイの瞳がカナを認め、穏やかに微笑む。乱れた毛布、メアの着替え途中の姿、カナの寝癖。すべてを把握しながら、何も言わなかった。有能な副官とは、見なかったことにする能力にも長けている。
「二件、ご報告があります。一件は良い知らせ、もう一件は……」
エイが言葉を切った。
「白梟師団から、新たな書簡が届きました。婚姻の無効申し立てではありません」
メアの手が止まった。詰襟のボタンを半分留めた姿で振り返る。
「森の主カナ・グレンダンを、白梟師団の客員魔術師として迎えたい。招待状です」
毒を絹で包むような、丁寧で友好的な戦略の変更。力で奪えないなら、礼を尽して取り込む。
カナは寝台の上で首を傾げている。関心はなさそうだった。
メアが書簡を取り、文面に目を走らせる。読み進めるにつれて、その眉間の皺が深くなった。
「……客員魔術師。待遇は師団上級職相当、宿舎は師団本部内に用意、研究の自由を保障、報酬は年俸制、か」
一語ずつ、噛み砕くように読み上げる。破格の条件だ。だがメアの目は、一行に釘付けになっていた。
「宿舎は師団本部内に用意……」
声が低くなる。騎士団宿舎から引き離し、師団の膝元で管理下に置く。飴の中に仕込まれた針だった。
「返答の期限は三日後です。それから良い知らせですが、祝婚祭の経済効果を受け、商業区から感謝状が届いております」
エイがそう告げると、メアは書簡を握ったままカナを見た。どうする、と瞳が問うている。
「え、あの人たちと住むのはいやだよ。でも人間の家になら住んでみたい」
メアの口が半開きになった。詰襟のボタンに伸ばした手も宙で固まっている。策謀への返答として、あまりにも斜め上の一言だった。
エイが三回瞬きをした。金色の目が素早く二人を往復し、何かを計算するように天井を見上げた。
「……なるほど」
「なるほど、じゃない。何がなるほどだ」
「いえ、理に適っています」
エイの微笑みが感心を含んだものに変わる。
「師団の宿舎を断る口実が要ります。騎士団宿舎に住み続ければ騎士団の庇護下にあると見なされますが、夫婦が私財で購入した自宅であれば、どちらの組織にも属さない独立した居所になります」
メアが黙り、カナののんびりした顔を見た。この存在は時折、本人の自覚の有無に関わらず、核心を突く何かを落とす。
「金がない」
「隊長の家系は辺境貴族ですので、領地の収入が」
「次男だ。相続分は雀の涙だと知っているだろう」
「商業区からの感謝状があります。その伝手で、分割払いの交渉も可能です」
エイのペンが既に動いていた。紙の上に物件の条件を書き出していく。王都郊外、庭付き。エイの手が止まり、カナを見た。
「カナさん。庭は必要ですか?」
「お金……隊長さんのお給金はいかほど……?」
「やめろ」
メアの声は、焦りと意地で震えていた。給金の話題は、この生真面目な騎士にとって接吻より恥ずかしいものらしい。
エイが咳払いを一つ。
「黒狼騎士団第三部隊隊長の俸給は、第四等級に該当します。危険手当を含めましても……」
「エイ」
「率直に申し上げますと、王都の不動産を即金で購入できる額ではありません」
メアの肩が落ちた。王都の地価という名の魔物は、剣では斬れない。
「ですが、方法がないわけではありません」
エイのペンが余白を走り、数字と図が並んでいく。
「祝婚祭の収益の一部が福利厚生費に入っています。ここから住居手当を申請しましょう。加えて、商業区が祭りの定例開催を打診してきています。その収益を住居費に充てる交渉も可能です。カナさんのお仲間にご協力いただける前提ですが」
「俺の嫁を見世物にする気か」
「見世物ではなく、文化事業です」
にっこりと完璧な微笑み。宰相家の血が本領を発揮していた。
「ああいったお祭りは一回だけの特別感がいいんだよ。メアはここから遠いと困るよね?この近くはお高いの?」
「宿舎周辺は王城至近ですので、正直に申し上げまして、手が届く価格帯ではありません」
エイの声は穏やかだが、数字は残酷だった。
「宿舎で構わない」
短く、メアが断ち切るように言った。
「俺の部屋は狭いが、二人なら寝られる。昨夜のように」
言ってから、赤くなった。言葉の含意に気づくのが遅い男だった。エイが口元を手で隠し、肩を震わせる。
「……当面の話だ。客員魔術師の件は断る。カナを師団に近づける理由がない」
「承知しました。断りの文面は私が用意します」
エイのペンが別の紙を走る。断りの書簡、住居計画、商業区への返答。すべてが同時進行で進んでいく。
扉の向こうで足音が止まった。廊下からの飄々とした声が扉越しに聞こえる。
「おーい、メア。朝飯まだだろ。食堂来い。嫁さんも連れて」
一拍置いて。
「あと、枢密院から面白い話が来てるぞ」
足音が遠ざかる。通りすがりに投げ込まれた、面白い話、という言葉。メアの眉間の皺が再び深くなった。ディートが面白いと言う時、それは大抵、メアにとって面白くない話だった。




