55.たからもの
食堂へと続く廊下、二人の後ろをエイが書類を抱えて歩く。すれ違う騎士たちが立ち止まって敬礼し、それからカナの姿を見て表情を崩した。七日間にわたる祭りを経て、隊長の嫁は今や名物になりつつあった。
食堂は、朝の活気ある喧騒に満ちていた。
皿が触れ合う音、パンを千切る音、快活な笑い声。その喧騒の一角に、団長のディートが足を組んで座っていた。目の前のテーブルには一通の書簡が置かれている。そこにあるのは枢密院の紋章。今朝届いた白梟師団のものとは、封蝋の色が違っていた。
「座れ座れ。パンくらい腹に入れてから聞け」
メアが腰を下ろし、隣の椅子を引いた。元の位置より自分の方へ寄せながら。無意識の動作だったのか、本人も気付いていないようだった。奥の席にいたエフィがちらりと視線を向け、口元だけで微かに笑った。
ディートはパンの籠をカナの方へ滑らせると、自分は麦酒を一口含み、それから書簡を指先で軽く弾いた。
「枢密院が、祝婚祭の経済効果を正式に評価した。商業区の報告書付きだ。で、ここからが本題だ」
ディートが身を乗り出す。飄々としていた声が、わずかに低くなった。
「枢密院は森の主に、王都への定住を求めている。永住権の付与と引き換えにな。条件は一つだ」
ディートの指が、書簡の一節を叩く。
「年に四度、季節祭を主催すること。そして収益の三割を王国に納めること。それだけだ。師団のように囲い込もうという話じゃない。枢密院は商売がしたいんだと」
メアの鋭い眼光がディートの顔を射抜いた。枢密院から出た話に、純粋な商売話などあるはずがない。その裏に隠された意図は何だと、黒い瞳が問いかけている。ディートはその視線を真っ向から受け止め、にやりと不敵に笑った。
「勘がいいな。裏はあるぞ。商業区との話はただの商売だ。だが枢密院は違う。奴らは嬢ちゃんを重要文化財か何かに仕立て上げて、行動を管理下に置こうとしてるんだよ」
「却下だ」
「まあ、そう言うと思ったよ」
ディートは麦酒を煽り、拒絶を食らっても少しも堪えた様子はなかった。むしろメアの即答を待っていたかのように、口の端を吊り上げている。彼はパンを千切り、バターを塗り、悠然と頬張った。咀嚼を終えると、指についた油を布で丁寧に拭い去る。
「だがな、メア。断るだけじゃ足りねえぞ」
不意に、声から軽薄さが消えた。ディートの瞳が真っ直ぐにメアを捉える。それは団長としての、冷徹なまでの眼差しだった。
「師団の招待を断る。枢密院の提案も断る。それで騎士団宿舎に居候。何が起きるか分かるか?」
メアは答えなかった。分かっているからこそ、重い沈黙を貫いている。
「どこにも属さない森の主が、騎士団の一隊長の私室に転がり込んでいる。法的には嫁だが、身分は宙ぶらりんだ。師団は諦めちゃいないし、枢密院も引っ込まない。お前の嫁さんには、後ろ盾がないんだ。騎士団が庇っているように見えるが、俺の権限にも限度はある」
ディートがパンの欠片を指先で転がした。
「どこかに足場を作らなきゃ、遅かれ早かれ掬われる。家を買うという手もあるが、金はねえだろ?」
食堂の喧騒が、どこか遠くに聞こえた。ビィがスープを啜る音、イーガがカップを置く音、ガルドの豪快な笑い声。穏やかな日常の中に、きな臭い空気が静かに滲んでいく。
カナはパンの籠から一つを手に取り、その匂いを嗅いでいた。焼きたての香ばしい小麦の香りに、満足げに目を細めている。政治的な駆け引きが頭上を飛び交う中で、森の主は朝のパンに夢中だった。
メアがカナの様子を横目で見やり、それから再びディートへと視線を戻した。
メアの眉間に深い皺が刻まれたその横で、カナがパンを一口齧り、ふわりと微笑む。
「おいしい」
そして、彼女は何気ない口調で続けた。
「森の家、いろいろあるから、売っちゃう?」
その言葉に、メア、エイ、ディートの三人が一斉に顔を見合わせた。
食堂が、一瞬にして静まり返った。
正確には、三人の周囲だけが、喧騒を遮断するほど重い沈黙に包まれた。
メアの瞳がわずかに見開かれる。脳裏に、かつて見た泉の底の光景が浮かんでいた。水晶の杯、真珠の小箱、名も知れぬ古代の装飾品。あの空間に無造作に転がっていた宝物の価値を、この森の主は全く理解していなかった。今も、その価値を知らぬ顔でパンを齧っている。
エイのペンが止まった。生まれて初めて計算を放棄したような顔をしている。金色の瞳は虚空を見つめ、唇が微かに動いた。概算を試みようとして、あまりの桁に途中で諦めたらしい。
「……おい」
ディートが麦酒の杯をテーブルに置く。その飄々とした仮面が、珍しく剥がれかけていた。
「嬢ちゃんがこれまで貰ってきたものを、か?」
カナはパンを咀嚼しながら、こくりと頷いた。頬には小さなパン屑がついている。古代の遺産を売り払うという恐ろしい相談を、朝食のパンを食べながら平然と行っている。悠久を生きた存在の金銭感覚は、人間のそれとは根本的に噛み合っていなかった。
メアが額を押さえた。今朝、これで二度目である。
「……あれを売れば、田舎なら城が建つ」
「王都なら街の一区画が買えるかと」
「おいおい……」
「ただし、問題があります」
エイがようやく冷静さを取り戻した。ペンを持ち直し、瞳には鋭い計算の光が戻る。切り替えが息を吸うように速い。
「古代の宝物を大量に売却すれば、出所を問われます。盗掘を疑われる可能性もある。そして何より、白梟師団がカナさんの価値を改めて認識することになる。今以上に」
食堂の空気が張り詰めたものに変わる。ディートが腕を組み、メアが顎を引き、エイが書類をめくる。三人の思考が同時に高速回転を始めた。カナは一つ目のパンを食べ終え、二つ目へと手を伸ばした。
「少しずつ、だな。足がつかない程度に」
「信頼できる商人……心当たりが、一件あります」
エイが微笑んだ。実家の持つ人脈を使うことに、もう躊躇いはないようだった。
「ついでに王様にも何個かあげようか?」
三人が同時にカナを見た。
二つ目のパンを半分ほど齧った状態で、森の主は至極当然のことを言ったという顔をしていた。頬にパン屑をつけたまま、黒い瞳がきょとんと三人を見返している。
沈黙が落ちた。だが、先ほどとは質が違う沈黙だった。メアの目が細くなり、エイのペンが止まり、そしてディートが笑った。
「はっ」
短く、鋭い笑い声だった。彼は麦酒の杯を掴み、一口煽ってからテーブルに叩きつけた。中身の液体が小さく跳ねる。
ディートが身を乗り出した。その精悍な顔に刻まれた笑みは、戦場で決定的な勝機を見出した指揮官のそれによく似ていた。
「いいか、お前ら。古代の宝を王に献上する。その意味が分かるか?」
「……森の主から王への贈り物、という形であれば」
「そうだ。対等とまでは言わねえが、少なくとも一方的に庇護される存在じゃなくなる。王が受け取った時点で、国が森の主を公式に認めたことになるんだ」
エイの瞳が爛々と光り、ペンが猛烈な勢いで紙の上を走り始めた。枢密院への対案、師団への牽制、王家との直接的な関係構築。パン屑だらけの無邪気な提案が、盤面を完全にひっくり返そうとしていた。
メアだけが黙っていた。カナの横顔を見つめ、それからテーブルに視線を落とす。眉間の皺が、複雑な感情を映して揺れている。政治的には、これ以上ないほど正しい。だがメアの瞳は、別の懸念を追っていた。
「カナ」
低い声だった。食堂の雑音を切り裂き、カナの耳にだけ届くような深みのある声。
「あれはお前の物だ。お前に贈られた物だ。手放して、惜しくないのか」
カナの手が、パンの上で止まった。メアの黒い瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いている。損得でも政治でもなく、ただカナ自身の純粋な気持ちを問うている目だった。ディートもエイも、口を挟まなかった。この問いこそが、今この場で最も重要であることを、二人とも理解していたからだ。
「大事な思い出は全部憶えてる。それに、形のない宝物も沢山あるよ。君たちが選んでくれた食べ物や、聞かせてくれたお話、メアが教えてくれた料理もそう」
メアは不意を突かれたように瞬きをした。泉の底で、人が生きる術を教えると称して料理を作って見せたあの時の記憶が蘇ったのだろう。
メアは顔を逸らした。何か言い返そうとしたが喉が詰まり、代わりに小さな咳払いが一つ。
「……好きにしろ」
それは許可ではなく、完全な降伏だった。この女に敵う言葉を、メアは持ち合わせていなかった。
ディートが杯を傾けながら二人を眺め、目を細めた。何も言いはしなかったが、その口元には、見たこともないほど柔らかな笑みが浮かんでいた。もっとも、すぐに麦酒で隠してしまったが。
「では、方針を整理いたします」
エイの声が、食卓に実務的な秩序を取り戻した。
「第一に、白梟師団と枢密院の提案は丁重にお断りする。第二に、泉の宝物の一部を王への献上品とし、森の主の公的地位を確立する。第三に、残りの宝物は信頼できる商人を通じて少しずつ換金し、住居の資金とする」
エイがペンを置き、カナを見た。
「カナさん、一つ確認させてください。泉の宝物を動かすには、一度森に戻る必要がありますね」
カナが頷きかけて、止まった。
パンを持つ手が宙で固まり、その黒い瞳が一瞬だけ何かを思い出したように揺れた。ほんの僅かな変化だったが、メアは見逃さなかった。食堂の喧騒の中で、カナの視線がふっと遠くなる。森の方角、その更に向こうを透かし見るように。
それから、彼女はふわりと笑った。いつもの笑顔だ。だがメアの眉間の皺は、さらに深くなった。
「そうだね。取りに行こっか」
声は明るかった。だが、あまりに明るすぎた。メアがその違和感に気づいたかどうか、カナは確かめもしなかった。パンの残りを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼を続ける。
「なら早い方がいい。献上品の話は俺が王城に繋ぎをつけておく。宝物を見繕って持ち帰ってくれりゃ、あとは任せろ」
「護衛は数名を選抜しましょう。森までの道中、白梟師団の目もありますので」
「俺が行く」
メアが即答した。議論の余地を一切与えない、断固とした声だった。エイが口を開きかけたが、それを飲み込んで閉じる。ディートが軽く肩を竦めた。
「ビィとイーガも連れる。実地訓練を兼ねる」
エイが頷いた。だが、その金色の瞳が、一瞬だけカナの横顔に留まる。先ほどのわずかな揺らぎを、この鋭敏な副官も感じ取っていた。
カナが三つ目のパンに手を伸ばした。メアはその手を見て、自分の皿の上にあったバターの小皿をカナの前へと滑らせた。無言で。カナはにっこりと笑ってそれを受け取った。
食堂の窓の外、一羽の鳥が屋根に降り立った。祭りが終わって去ったはずの鳥だった。嘴に木の実を咥え、窓越しにカナを見つめている。森からの使いか、それともただの偶然か。
カナだけが、その鳥に気づいていた。パンを齧りながら、窓の外の小さな影を見つめる彼女の瞳は、やはりどこか少しだけ遠かった。




