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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
森の子
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52.森の花嫁と黒き騎士

 カナは中央広場に立っていた。

 水のドレスの裾が、石畳の隙間を割って咲き誇った色とりどりの花々の上を、静かに滑っていく。カナの足元では、どこからともなく現れた沢蟹の行列が、主を敬うようにぐるりと一周して通り過ぎていった。頭上では鳥たちの合唱が、陽光に合わせて新しい旋律へと移り変わる。髪には蝶が止まり、肩の上では一匹のカマキリが鎌を器用に畳んで落ち着いていた。メアへの鋭い監視も、今は一時休止といった様子だった。

 カナは、そっと目を閉じた。

 頬を撫でる風の中に、森の匂いを感じたからだ。湿った土、青い苔、朽ちた葉と、それらを突き破って伸びる新しい芽の、あの懐かしい匂い。王都特有の石の冷たさと煙の混じる空気の中に、森の仲間たちが持ち込んだ生命の気配が、確かに滲んでいた。

 目を開けると、少し離れた場所でメアがエフィと何かを話し込んでいるのが見えた。その表情は、すでにいつもの厳格な隊長のものに戻っている。おそらく警備の最終的な配置を確認しているのだろう。広場の入口ではガルドが野太い声を張り上げて群衆を捌き、ビィが忙しなく走り回り、壁際ではイーガが、相変わらず複雑な表情で沢蟹の行列を見つめていた。

 群衆は刻一刻と膨れ上がっていた。突如出現した花畑と、天から降るような鳥の歌に誘われて、王都中から人々が集まり始めていたのだ。子供たちは歓声を上げて花の間を駆け回り、老人は噴水の縁に腰掛けて不思議そうに首を傾げ、若い恋人たちは宙を舞う蝶に楽しげに手を伸ばしている。

 カナの足元で、一輪の白い花が小さく揺れた。名もなきその花に、カナが屈んで指先で触れる。すると、花弁が言葉を伝えようとするかのように、僅かに開いた。

 カナは微笑んだ。だがその笑みは、いつもとは少し違っていた。静かで、深く、悠久の時間を知る者だけが浮かべることのできる、慈愛に満ちた笑みだった。

 風もないのに、足元の花がもう一度、意志を持つように揺れた。

 中央広場を包み込む喧騒は、王都の三つの権力の座を、等しく揺さぶっていた。

 王城の高く聳える尖塔から見下ろせば、広場は一夜にして森に飲み込まれたかのように映ったに違いない。石畳を埋め尽くす花、屋根を重く彩る鳥、幾何学模様を描いて進む蟹の行列。侍従たちは窓辺に鈴なりになって驚嘆し、衛兵たちは持ち場を離れて欄干から身を乗り出している。王の耳にはまだ正式な報告は届いていないかもしれないが、それも時間の問題だった。城の廊下を噂が駆け抜ける速度は、沢蟹の行進よりも遥かに速い。

 一方で、白梟師団本部は不気味な沈黙に包まれていた。昨夜の騒動で折れた尖塔の修復が始まったばかりの館内。帰還した使者が報告を終えると、廊下には重苦しい静寂が落ちた。身柄引渡しの失敗、民衆の露骨な敵意、そして何より婚姻届の受理という決定的な事実。三つの悪報を受け取った大師団長の執務室は、硬く扉を閉ざしたままだった。扉の前に立つ護衛は、奥から聞こえてきた硝子の割れるような鋭い音に、微かに肩を竦ませた。

 最も喧騒に包れていたのは、枢密院だった。広場に面した窓という窓が開け放たれ、老いた法官たちが花畑と蟹の行列を眼下に、顔を赤くして激論を交わしている。前例がない。慣習法の適用範囲はどうなっている。そもそも超常存在の婚姻に法的効力は存在するのか。書棚から無理やり引きずり出された古い法典が机の上に山をなし、埃が舞う。その混乱を嘲笑うかのように、窓から侵入した蔦が法典の一冊を絡め取り、元の棚へと押し戻していた。

 その枢密院の正面玄関を、ディートが一人で上っていた。

 足取りは重々しく、懐に忍ばせているのは祝婚祭の申請書と婚姻届の控え。ディートはそれらを携え、枢密院という名の戦場へと姿を消していった。

 広場では、鳥たちが絶えることなく歌い続けている。

 祝婚祭は、王都の人々の記憶を鮮やかに塗り替えていった。

 初日の混乱が嘘のように、二日目には広場を囲むようにして露店が建ち並び、三日目には楽師たちが鳥の合唱に息を合わせて演奏を始めた。人間と森の生き物たちという奇妙な共存は、恐怖ではなく好奇心を呼び、その好奇心はやがて大きな歓喜へと変わっていった。沢蟹の行列はいつの間にか子供たちの格好の遊び相手になり、蝶は花嫁の周りを祝福するように舞い踊り、空からは鷹が木の実を落として露店の商人を驚かせ、笑わせた。

 四日目、吟遊詩人たちが作り上げた歌が完成を見た。「森の花嫁と黒き騎士」と題されたその歌は、瞬く間に王都全域へと広まった。酒場で高らかに歌われ、揺り籠の子守唄に混じり、井戸端の洗濯女たちが口ずさむ。歌の中でのカナは泉の精霊、メアは百の魔物を斬り伏せた英雄として描かれ、内容は事実とはかなり乖離していたが、そんなことを気にする者は一人もいなかった。物語とは、いつの時代もそういうものだからだ。

 五日目の夜、カナは広場の中央で水を操る奇跡を披露した。噴水の水が生き物のように空へと舞い上がり、銀の月明かりを透かして、巨大な光の花を描き出した。群衆は感嘆に息を呑み、ある子供は美しさに尻餅をつき、ある老人は聖なるものを見るように跪いた。メアはその隣で腕を組んだまま、静かな黒い瞳で水の花を見上げていた。

 六日目には、王城から一人の侍従が広場に姿を現した。多くの祝いの品を携えて。王の名こそ明言されなかったが、包みを結んでいた紐の色は、紛れもない王家の色であった。ディートがそれを受け取り、中身を一瞥して、短く感心したように口笛を吹いた。

 そして、七日目。最終日の朝、中央広場は人で溢れ返っていた。

 露店の売上は商業区の元締めの予想を三倍も上回り、楽師組合はもはや追加報酬の交渉を忘れるほどに演奏に没頭し、衛兵たちは持ち場で住民から分けられた焼き菓子を堂々と頬張っていた。エイが処理すべき書類の山は宿舎の机を二つ占領するほどに膨れ上がり、蔦に侵食された枢密院別館は、もはや半分温室のような有様となっていた。

 広場の中心で、カナはただ笑っていた。溢れんばかりの花に囲まれ、蝶に纏われ、肩のカマキリは相変わらず鎌を畳んで居眠りを決め込んでいる。水のドレスはとっくに脱ぎ捨てて普段着に戻っていたが、森の主の周りに集まる子供たちはそんなことなど気にも留めない。カナの膝の上では沢蟹が微睡み、足元では野良猫が丸くなり、頭上では鳥が祝福の歌を歌い続けている。

 七日間の祝祭が、静かに終わろうとしていた。

 同時に、婚姻への異議申し立てという名の猶予期間も、その幕を閉じようとしていた。

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