51.六分五厘
「会場は中央広場一択だ」
ディートが階段を降りながら、指で王都の中心を指し示した。王城、枢密院、白梟師団、黒狼騎士団、それら中枢機関に囲まれた巨大な石畳の広場。そこは王国最大の催事場であり、戴冠式や凱旋式が執り行われる場所でもあった。
「奴らの目の前でやるから意味がある。裏通りでこそこそ祝っても既成事実にゃならん」
「使用許可が下りるんですか」
「普通は下りん」
ディートが振り返り、にやりと笑った。精悍な顔に刻まれたその笑みはどこか猛々しい。
「だが祝婚祭は慣習法で臣民の権利だ。騎士団所属の者の婚姻なら尚更な。申請の窓口は枢密院、俺が出頭するついでに叩きつけてやる。却下したら慣習法違反で民が騒ぐ。許可したら七日間広場を押さえられる。どっちに転んでも損するのは向こうだ」
メアが無言で頷いた。団長の持つ政治的嗅覚が、今日ほど頼もしく見えたことはなかった。
カナは広場の方角を見てはいなかった。群衆の隙間から覗く、王都の屋根の連なりを眺めている。煙突から朝餉の煙が立ち昇り、洗濯物がはためき、猫が日向で欠伸をしている。人間たちのささやかな暮らしの匂いが、風に乗って鼻先を掠めた。
カナの黒い瞳に、一体何が映っているのか。森の主は微笑んでいたが、その笑みの底にある感情を読み取れる者は、この場には誰一人としていなかった。
水のドレスの裾が風に揺れ、小さな虹の飛沫を石畳に散らしている。群衆の歓声が潮のように寄せては返し、空には花弁が舞い続けている。その中心で、森の主は口を閉じたまま王都の空を見上げていた。
「どうした」
短く、低く。群衆の喧騒に紛れて、二人の間にだけ落ちた問いだった。
答えはなかった。ただその視線は、群衆の頭越しに遠くを見つめている。王都の屋根の向こう、高くそびえる城壁の向こう、そしてその更に向こう。ここからは見えないはずの、深い緑の稜線を探し求めているかのようだった。
「森と話をしているのか」
カナは上機嫌に笑った。
「みんなも来るって」
「みんな……?」
メアの声が怪訝に歪んだ。カナの視線を追って城壁の向こうを仰いだが、そこには朝靄に霞む稜線が横たわっているだけだ。だがカナの黒い瞳には、メアには見えない何かが確かに映っている。森の主は満面の笑みのまま、遠い緑の方角に向けて親しげに手を振った。
風が変わった。
群衆の中で、最初に異変に気づいたのは花売りの少女だった。籠の中の花が一斉に向きを変えたのだ。王都の中央へ。まるで日差しを追い求める向日葵のように、一輪残らず。
次に犬が吠えた。大通りの野良犬が尻尾を巻いて路地へと逃げ込み、軒先の鳥籠で眠っていた小鳥たちが狂ったように囀り始めた。空を見上げた者が叫んだ。渡り鳥の群れが、季節外れの大編隊を組んで王都の上空を旋回している。
「……おい、嬢ちゃん。みんなってのは」
ディートの声から余裕が消えていた。城壁の見張り台で、角笛が短く鳴り響いた。それは警戒の合図ではない。困惑により中途半端に吹かれた、間の抜けた単音だ。
カナは笑ったままだった。
メアの手を握る指先が、ほんの僅かに温かくなっている。じんわりと、春の陽だまりのような熱を帯びていた。
遠く、城壁の外で、地面が震えた。
王都が困惑に包まれていた。
大通りを横切る沢蟹の行列を、八百屋の主人が箒を持ったまま呆然と見送っている。甲羅が朝日を受けて赤銅色に鈍く光り、何百という小さな脚が石畳をかしゃかしゃと鳴らしながら、迷いなく一方向へと進んでいた。行き先は中央広場。一匹の逸脱もなく、軍隊の行進よりも整然と。
屋根の上では鳥たちが歌っていた。雀、鶯、百舌、鷹。本来ならば同じ枝に止まるはずのない種が肩を寄せ合い、不思議と調和のとれた旋律を奏でている。通りを歩く人々が足を止め、口を開けたまま空を見上げた。
中央広場は既に様変わりしていた。石畳の隙間から花が噴き出すように咲き乱れ、名もなき色彩が広場を埋め尽くしている。蔦が柱を駆け上がり、苔が噴水の縁を柔らかく覆い、広場の中央に立つ古い大樹が、一晩で十年分の葉を茂らせたかのように緑を爆発させていた。
蝶が舞った。何千という蝶が、花の上で渦を巻いて飛んでいる。蜂蜜色の陽光の中で、広場はまるで森の心臓がそのまま王都に移植されたかのようだった。
「……こりゃあ、なんの騒ぎだ」
「蟹が!蟹が列を作って!」
「お母さん、お花がね、石の間からね!」
混乱と驚嘆が入り混じった声が、王都中から中央広場に向かって収束していく。不思議と、誰も怯えてはいなかった。花も鳥も蟹も蝶も、人を避け、人を傷つけることなく、ただ祝いの席を整えるために動いているからだ。
ディートが額を押さえた。
「使用許可、いらんかもしれん」
枢密院に申請書を叩きつける前に、森そのものが会場を作り上げてしまった。慣習法も何もない。この前代未聞の事態に、団長の緻密な政治的計算が根底から覆されている。
メアがカナを見下ろした。そこにはにこにこと笑う顔があった。水のドレスが風に揺れ、裾から散る虹の粒が、足元の花弁と美しく混ざり合っている。
「……お前の仲間か」
カナは答える代わりに、足元を横切っていく沢蟹の一匹に向かって、小さく手を振った。蟹はちょこんと立ち止まり、鋏を一回だけ振ると、再び行列に戻っていった。
いつの間にかカナの肩によじ登っていたカマキリが、メアを威嚇した。メアとカナが初めて会った時のように。
「……」
メアの目がカマキリに落ちた。小さな三角形の頭が、鎌を振り上げてメアを睨みつけている。あの森の中で、カナの肩から威嚇してきた時と同じ構えだった。同じ個体かどうかは分からない。だが鎌の角度も、首の傾きも、こちらを値踏みするような複眼の光も、記憶の中の映像と寸分違わなかった。
メアの唇が微かに動いた。
「覚えている」
メアの声からは、ほんの一瞬、隊長としての硬さが抜け落ちていた。あの森の薄暗がりの中で、得体の知れない存在と初めて向き合った日の記憶が、黒い目の奥を掠めていった。
カマキリは威嚇をやめなかった。鎌を振り上げたまま、メアの顔に向かってじりじりと前進する。カナの肩から襟元を伝い、水のドレスの上を滑って、カナとメアが繋いだ手の、ちょうど境目まで来た。そこでぴたりと止まると、鎌でメアの指を一度叩いた。
それは警告だった。この人間、まだ信用してないぞ、と。
「はっはっは!隊長、虫にも嫌われてますね!」
「ガルド」
ガルドが首を竦めたが、笑いは収まっていない。ビィが目を丸くしてカマキリを凝視し、イーガは半歩後ずさっている。どうやら虫は苦手らしい。
カマキリはメアの指の上に居座った。鎌を下ろし、複眼でじっとメアを見上げている。威嚇から監視へと切り替えたようだった。森の主の伴侶として認めるかどうか、まだ審議中といったところか。
メアが空いた手でカマキリを摘まみ上げようとしたが、鎌で弾かれた。赤い筋が指先に走り、メアが眉を顰める。
「……こいつ」
カナはただただニコニコと笑っていた。森の仲間と夫の初めての交流を、まるで母親のような顔で眺めている。
その頃エイは、地獄にいた。
正確に言えば、中央広場に面した枢密院戸籍局の別館。その二階の窓から広場を見下ろし、穏やかな微笑みの裏側で、凄まじい速度の計算を回していた。
窓の外では花が咲き乱れ、蟹が行進し、鳥たちが歌っている。石畳を割って伸びた蔦は、別館の壁を既に半分ほど覆い始めていた。窓枠には蝶が三匹止まっている。エイの書類の上にも花弁が一枚、風に乗って舞い込んでいた。
「……」
花弁をそっと摘み上げ、窓の外へと戻した。微笑みは崩れない。崩れないが、そのこめかみには一筋の汗が伝っていた。
根回しの前提がすべて吹き飛んでいた。商業区の元締めへの露店許可の交渉、楽師組合への手配、広場の使用申請、会場設営。そのすべてが、「森のみんな」によって先回りされている。飾り付けるまでもなく花畑が出現し、楽師を雇うまでもなく鳥が合唱を始め、使用申請を出すまでもなく広場が占拠されていた。
目の前に座る商業区の元締めたる恰幅のいい中年商人が、窓の外を指差したまま、金魚のように口を開閉させている。
「ランティス様、あの、あれは一体」
「ええ。私もお聞きしたいところです」
完璧な微笑みだった。だがその裏で、宰相家の五男の頭脳は猛然と計画を組み直している。森が勝手に祭りの土台を作ったのなら、人間はその上に乗ればいい。蟹の行列の横で焼き菓子を売り、鳥の合唱に合わせて楽師が演奏し、花畑の中に祝いの卓を並べるのだ。自然と人間の共同開催。前代未聞の祝婚祭。
エイの筆が走り始めた。計画書の三行目まで書いたところで、蔦が窓から侵入し、インク壺を倒した。黒い染みが書類に広がっていく。
エイの微笑みが、ほんの一瞬だけ引き攣った。
森が勝手に会場を作ったからといって、人間の法が勝手にそれを追認してくれるわけではない。エイはそれを誰よりも理解していた。
蔦に倒されたインク壺を立て直し、汚れた書類を脇に除け、新しい紙を引き出す。蝶が肩に止まったが、払わなかった。払っている暇などなかった。
七日間の祝婚祭。それを法的に成立させるには、商業区の露店許可、楽師組合との契約、広場使用の正式申請、衛兵の配置要請、食糧の手配、衛生管理の届出…。少なくとも十二枚の書類が必要だった。花が咲こうが蟹が踊ろうが、印が押されていない催事はただの不法占拠でしかない。
「申し訳ありません。お話の続きを」
商業区の元締めが窓の外からようやく目を引き剥がし、エイの顔を見た。金色の目が穏やかに微笑んでいる。だがその奥には、有無を言わさぬ光が灯っていた。宰相家の血筋が交渉の席で見せる、あの静かな圧だった。
「……で、露店は何軒ほど」
「初日は控えめに五十。反響を見て増やします。売上の一割を祝儀として騎士団福利厚生費に」
「一割は高い」
「王都始まって以来の祭りです。この機を逃す商人はいないかと」
元締めの目が光った。商人の本能が、エイの言葉の正しさを嗅ぎ取っている。窓の外では花が咲き乱れ、蟹が行進し、群衆が押し寄せている。これが七日間続くなら、王都中の財布の紐が緩む。
「……五分」
「七分。福利厚生費の用途は公開します」
沈黙が落ちた。蝶がエイの肩から飛び立ち、二人の間を横切った。元締めが溜息をつき、手を差し出した。
「六分五厘。これ以上はびた一文」
「成約です」
握手が交わされた。エイの筆が契約書を走り、元締めが署名し、インクが乾く前に次の書類が広げられていた。蔦が窓枠を越えて天井へと伸びているが、エイはもう気にしていなかった。自然が何をしようと、人間の書類は人間が作る。
六分五厘。宰相家の三男ならば七分で纏めただろう。だがエイは五男だった。兄より少しだけ甘い。その甘さが、商人の信頼を勝ち取る武器だと知っていた。




