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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
森の子
50/54

50.宣戦布告

 白い紙の上で、赤い印が鮮やかに乾いていく。人間の法という、まるで蟻社会の就業規則のように複雑な取り決めに、名前が刻まれている。古い文字と新しい文字が並び、その横にはメアの力強い筆跡があった。たったそれだけの紙切れが、悠久の時を生きる存在を一人の人間の妻へと変えたのだ。

 カナは書類に記されたメアの名前を指先でそっとなぞった。インクはすでに乾ききっていて、指先には何もつかなかった。

 局長が控えを差し出す。エイがそれを受け取り、丁寧に折り畳んで懐へと収めた。ディートは扉の横で腕を組んだまま、窓の外を眺めている。窓越しにも、外に集まった群衆の地響きのような歓声が聞こえてきた。

 メアが隣に立っていた。黒い礼装の腕が、カナの肩にそっと触れる。

 扉が開かれた。

 溢れ出した朝の光と共に、歓声の壁が押し寄せてきた。舞い散る花弁、響き渡る歌声。王都の空は、どこまでも高く晴れ渡っている。階段の上に二人の姿が現れると、群衆の熱狂は最高潮に達した。

 朝日よりも眩しい光景に、カナは目を細めた。

「カナさん」

 エイが横に並び、小声で囁いた。穏やかな響きの中に、針のような鋭さが混じっている。

「受理されました。ですが、これで終わりではありません。師団側が異議申し立てをする猶予が七日あります」

 金色の瞳は群衆の向こう、王都の尖塔が立ち並ぶ方角を見据えていた.そこには白梟師団本部の、昨夜折れたばかりの尖塔が朝日の中で深い影を落としている。

「七日です。その間に、決して覆されない既成事実を積み上げなければなりません」

「お祭り」

 カナは笑って言った。

「……お祭り、ですか」

 エイの金色の瞳が瞬いた。外交辞令としての微笑みが一瞬だけ崩れ、素の困惑が覗く。だが、その困惑は長くは続かなかった。宰相家の五男としての頭脳が、カナの一言を咀嚼し、組み立て直すまでに要した時間は、群衆が一度歓声を上げる間の、わずかな刹那だった。

「結婚したら、お祝いにお祭り騒ぎをするんでしょ?」

「……なるほど」

 エイが振り返った。階段の下、群衆に囲まれて揉みくちゃになっているガルドと、その横で花弁を払い除けているエフィの姿が見える。ビィは子供たちに無邪気に手を振り、イーガはそれを呆れたように横目で見ていた。吟遊詩人たちの即興歌はすでに五番まで進み、歌詞の整合性はもはや完全に崩壊している。

「祝婚の祭りを七日間。民衆の祝福を、盤石な既成事実にする、と」

「はっ」

 ディートが短く笑った。笑顔の奥で、冷徹な計算が回り始めていた。

「嬢ちゃん、見た目に反してえげつないこと考えるな」

 カナは笑ったままだった。浮世離れした、春の陽だまりのような微笑み。だがディートの目は笑い返してはいなかった。値踏みするように細められたその瞳の口角が、ゆっくりと吊り上がる。

「面白い。エイ、商業区の元締めに伝手はあるか」

「兄の一人が穀物取引を仕切っております」

「使え。露店の許可、楽師の手配、広場の使用申請。全部今日中に通せ。費用については……なんだ、なんとか折り合いをつけてくれ」

 エイが一礼して階段を駆け下りていった。オレンジ色の髪が群衆の間に消えていく。その足取りには、一点の迷いもなかった。

 メアはカナの隣で、額に手を当てて立ち尽くしていた。

「……俺は、とんでもない女を嫁にしたのか」

 それは独り言だった。だがその声は、諦めでも後悔でもなく、深い溜息の底に沈んだ微かな笑いを含んでいた。

「恥ずかしがりやさんは辛いね、メア」

「……うるさい」

 メアは真っ赤だった。黒い詰襟の上で脈が激しく跳ねているのが見えるほどだ。黒狼騎士団きっての堅物が、たった一言で瓦解している。嫁という単語を自らの口で発したことへの羞恥と後悔が、今まさに彼の脳内を焼き尽くしているのだろう。

 ディートが階段の手すりに肘をつき、その光景を愉快そうに眺めていた。

「いいもん見れたな。メアが尻に敷かれてやがる」

「団長」

「おー怖い怖い」

 ディートは肩を竦めて笑った。しかし、その目はすぐに鋭さを取り戻し、王都の中心部を見据えた。朝日に伸びる尖塔の影。白梟師団の使者が戻れば、次に来るのは平和な巻物などではないはずだ。

「メア。浮かれるのは寝所だけにしろ。祭りの裏で手を打つ。枢密院への出頭は俺が行く。嬢ちゃんは絶対に連れていかん」

「……了解」

 声が切り替わった。顔は赤いままだったが、その瞳は鋭く変わっている。それは隊長の目だった。カナの手をしっかりと握ったまま、群衆の頭越しに大通りの先を見据え、瞬時に退路と障害物を数え上げる騎士の目。

 祭りは始まる。だがその裏で、七日間の戦争もまた、幕を開けるのだ。

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