49.祝福
エフィの櫛が黒髪を梳く音だけが、静かな部屋に満ちている。規則正しく、丁寧に、一房ずつ。カナの髪は見た目よりもずっと素直で、櫛の歯が通るたびに上質な絹のような光沢を帯びていった。
不意に、エフィの手が止まった。
「……いい髪」
呟きは、独り言に近いほど小さかった。赤い髪の女騎士が、黒い絹の束を指に巻き、思案するように目を細める。それからゆっくりと髪を持ち上げ、うなじを露出させるようにして、緩く纏め始めた。それは華美な編み込みではない。戦場で邪魔にならないよう髪を束ねる手つきの延長にある、実用的で、それでいて首筋のラインをこの上なく美しく見せる形だった。
控えめに扉が叩かれた。
「エフィさん、ビィから伝言。副隊長から連絡があって、戸籍局の根回し終わったそうです。それと、正門の使者がかなり怒ってます」
「聞こえた。あと少し」
「……あと、隊長が」
「何」
「廊下で壁にデコつけて突っ立ってます。正装着たまま動かないんで、兄貴が水持っていきました」
エフィの手が一瞬止まり、鼻から短く息が漏れた。笑ったのだ。二度目の、誰も知らない柔らかな笑み。
「仕上げるから、五分待たせて」
イーガの足音が去っていった。エフィはカナの髪に最後の一手を加え、後れ毛を耳の横にわざとらしく散らした。それから椅子の前に回り込み、カナの顔を正面から見据える。
青い水のドレスが朝日を受けて揺らめいている。泉の靴が淡く光り、鎖骨の雫が虹を散らし、纏められた黒髪からは白いうなじが覗いている。エフィの目が細まった。
「立って」
カナが立ち上がった。動きに合わせて水がさざめき、裾がさらさらと床を撫でた。
エフィが一歩退き、腕を組んで頭からつま先までを検分する。長い沈黙の末、彼女は満足げに一つ頷いた。
「あの朴念仁が廊下で固まる訳だ」
カナは首を傾げた。エフィの言葉の意味を測りかねている顔だった。朴念仁という単語が、森の主の膨大な語彙の中に存在しなかったのかもしれない。
エフィが扉を開けた。
廊下の空気が一変した。
そこにはメアが立っていた。黒い礼装。黒狼騎士団の銀の紋章が左胸に鈍く光り、詰襟が顎のラインに沿って真っ直ぐに伸びている。普段の姿とは、別人のように見えた。いや、別人ではない。鎧の下に隠れていた彼の輪郭が、黒い布地の上に初めて浮き彫りになっていたのだ。細く引き締まった体躯、伸びた背筋、鍛え上げられた肩の線。黒髪と黒い瞳に黒い礼装が重なり、まるで夜そのものが人の形をとったかのようだった。
その夜が、凍りついていた。
メアの目がカナを捉えた瞬間、彼の呼吸が止まった。黒い目は驚愕に見開かれ、唇が微かに開いたが、そこからは言葉の一つも出てこなかった。水のドレスが朝日を受けて揺らめき、泉の雫が鎖骨の上で虹を散らし、うなじから覗く白い肌が光を弾いている。その中心に、黒い瞳のカナが立っているのだ。
廊下の奥で、ガルドが冷やかしの口笛を吹いた。ビィは両手で口を押さえている。イーガは壁に背を預けたまま、決まり悪そうに視線を逸らした。
メアは動かなかった。壁に額をつけていた時よりも酷い硬直ぶりだった。ガルドが持ってきた水の杯が、手の中で危うく傾いている。中身がこぼれかけていることにも気づいていない。
エフィがメアの横を通り過ぎざま、小さく呟いた。
「杯、傾いてる」
メアが慌てて杯を立て直した。水が袖口に跳ね、黒い礼装に小さな染みが広がった。黒狼騎士団きっての実力者が、杯一つ満足に持てなくなっている。
エフィの背中が、ほんの僅かに震えている。必死に笑いを堪えているのだ。
カナはただ笑っていた。水のドレスの裾を揺らしながら、廊下の光の中でメアを見上げて笑っていた。森で朝露を見つけた時の、あるいは泉に光が差し込んだ時のような、何でもない幸福がそのまま顔に出たような笑みだった。
メアの手から杯が落ちた。
「からん」と乾いた音が廊下に響き、水が石畳に広がった。だがメアはそれすら気づいていなかった。黒い目がカナだけを映し、周囲の全てが視界から消えていた。
ガルドが杯を拾おうとして、ビィに腕を掴まれた。茶色い髪の新米騎士が首を横に振る。今じゃない、と。
メアが一歩踏み出した。水の染みた袖のまま、礼装の裾を翻してカナの前に立った。手を伸ばしかけて、止まる。触れたら壊れるとでも思ったように、指先がカナの頬の手前で震えていた。
「……行くぞ」
声は掠れていた。言いたいことは山ほどあったはずだ。綺麗だとか、似合っているとか、そういう言葉が喉元までせり上がり、けれど一つも形にならなかったのだろう。代わりに出たのは、いつもの素っ気ない言葉だった。
だが、その手がカナの手を取った。袖口の水染みも構わず、彼女の冷たい指を包み込むように、しっかりと。
正門の向こうで、使者の怒号が聞こえている。
「ドキドキするね」
「……していない」
嘘だった。カナの手を握る指先から、メアの脈拍が伝わっている。早かった。死線を彷徨う戦場に立つ時よりもずっと早い。冷静さを謳われる隊長の心臓が、花嫁の手を握っただけで全力疾走の速度を叩き出していた。
正門に向かう廊下を、二人が並んで歩いた。その後ろにガルドが続き、ビィとイーガが並び、最後尾をエフィが締めた。誰が命じたわけでもない。第三部隊の陣形が、自然と隊長の背後に組み上がっていた。
正門が見えた。
重い樫の扉の向こうから、苛立ちを隠そうともしない声が漏れ聞こえる。門番が必死に押し留めているのが、扉越しに伝わってきた。
「開けるぞ、隊長!」
「ああ」
ガルドの太い腕が門の閂を引いた。樫の扉が軋みながら開き、眩い朝の光が廊下に溢れ出した。
門の前には、六人の武装した師団兵が整列していた。その中央に立つ使者は痩せた中年の男で、師団の紋章が刺繍された外套を纏い、巻物を片手に掲げている。開いた扉の向こうに、黒い礼装の騎士と青く煌めくドレスの女が並んで立っているのを見て、使者の顔が歪んだ。それは完全な困惑だった。
だが、それ以上に門の周りに集まった群衆の反応が凄まじかった。
昨夜の騒動から、森の主と騎士の噂を追って、宿舎の前には黒山の人だかりができていたのだ。門が開いた瞬間、水のドレスが朝日を受けて虹を撒き散らし、群衆の中から息を呑む音が波紋のように広がった。
「……花嫁さま?」
誰かが呟いた。その一言が火種となった。ざわめきが膨れ上がり、熱狂的な歓声に変わるまで、心臓が三つ打つほどの間しかなかった。
使者が慌てて巻物を掲げ直し、口を開こうとした。だがその声は、王都の朝に沸き起こった歓声の渦に、呆気なく飲み込まれた。
カナはただ、メアの手を握ったまま、静かに門の前に立っていた。水のドレスが風に揺れ、裾から光の粒が散る。泉の靴が石畳の上で微かに煌めき、鎖骨の雫が朝日を受けて虹を零した。その隣に、黒い礼装のメアが立っている。夜と朝が寄り添って並んでいるようだった。
それだけで十分だった。
群衆が沸いた。昨夜の「森の主と騎士の物語」を目撃した者たちが、その鮮やかな続きを目の前に突きつけられている。吟遊詩人が既に竪琴の弦を弾き、新しい歌詞を即興で紡ぎ始めていた。花売りの少女が籠から花を掴み、二人に向かって投げた。白い花弁が水のドレスの上に落ち、溶けるように消えていく。
使者が叫んだ。
「黒狼騎士団第三部隊隊長、メア・グレンダン!白梟師団大師団長の命により、超常存在の即時引き渡しを……」
声が途切れた。群衆の中から激しい野次が飛んだからだ。
「花嫁さんに何する気だ!」
一人が叫べば、十人が続いた。使者の周囲にいた武装兵たちが不安げに顔を見合わせている。巻物を掲げた痩せた腕が、僅かに震えていた。命令を遂行する義務と、怒れる群衆に囲まれているという現実が、使者の顔の上で激しく衝突していた。
メアがカナの手を握ったまま、一歩前に出た。群衆の歓声が一瞬止まる。黒い礼装の騎士が、使者の前に立ちはだかった。
「伝言を預かる。大師団長に伝えろ」
低く、よく通る声だった。広場の隅々まで届くように、しかし怒鳴るのではなく、静かに響く声。群衆が固唾を呑んで耳を傾けた。
「本日付で婚姻届を枢密院戸籍局に提出する。森の主カナは、カナ・グレンダンとして王国臣民の法的地位を得る。引き渡しの要求には、法的根拠がない」
使者の顔から血の気が引いた。巻物を持つ手が力なく下がり、武装兵たちが石のように固まっている。
その直後、群衆が爆発した。歓声と拍手と口笛が王都の朝を揺らし、花弁の雨が二人の上に降り注いだ。
カナはメアの腕にそっと自分の腕を絡ませた。何の気負いもなく、まるで森の小道を散歩するかのように自然な仕草だった。
使者が後退った。群衆の壁が厚くなっていく。武装兵六人では、この熱狂を切り裂いて花嫁を奪い取ることなどできはしない。それが分からないほど愚かな兵はいなかった。痩せた使者が巻物を丸め、唇を噛み締め、踵を返した。六人の兵が慌ててその後を追う。
逃げていく彼らの背中に、群衆の嘲笑が容赦なく降り注いだ。
「行くぞ。戸籍局まで止まるな」
第三部隊が動いた。ガルドが先頭で群衆を割り、エフィが最後尾で鋭い目を光らせる。ビィとイーガが左右を固め、その中心をメアとカナが歩いた。腕を絡ませたまま、王都の大通りを。
群衆が道を開け、そしてその後ろに続いた。それはいつしか巨大な行列になっていた。花弁が舞い、歌が響き、子供たちが駆け回り、窓から身を乗り出した老婆が祝福の言葉を投げかける。吟遊詩人は三人に増えていた。歌詞はもう滅茶苦茶だったが、誰もそんなことは気にしていなかった。
戸籍局の白い建物が見えた時、エイが階段の上に立っていた。
オレンジ色の髪が朝日に燃え、金色の目が行列を捉えた。その隣にはディートが腕を組んで立っている。その飄々とした顔が、今日初めて本物の笑みを浮かべていた。
「お待ちしておりました。局長の許可は取ってあります」
エイが一礼し、戸籍局の扉を開けた。根回しは完璧に完了していた。宰相家の名が、ここでも静かに、けれど確実に仕事を果たしたのだろう。
メアの足が階段の前で止まった。彼はカナを見下ろした。黒い瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……最後に聞く。本当にいいのか」
群衆の歓声が、少し遠くなっていた。階段の上にはエイとディートが待ち、扉の向こうには書類が待ち、その先には人間の法の中に組み込まれる未来が待っている。悠久の自由と引き換えに。
メアの声は低く、静かだった。それは隊長の声ではなかった。一人の男が、一人の愛する存在に問うている声だった。
カナの唇がメアの唇に触れた。
昨夜の、群衆の前での衝動的な接吻とは違う。静かで、確かで、自ら選び取った口づけだった。水のドレスの裾がさざめき、泉の雫が鎖骨の上で光を散らし、カナの指がメアの顎を捉えたまま離さなかった。
群衆が静まり返った。一瞬だけ、息を忘れたような沈黙が広場を満たし、それから津波のような歓声が押し寄せた。
メアの手がカナの腰に回った。無意識だった。黒い礼装の腕が水のドレスに触れ、水が指の間をすり抜けるかと思いきや、しっかりと布のようにメアの手を受け止めた。
階段の上で、エイが目を伏せた。穏やかな微笑みを絶やさぬまま、開いた扉の取っ手を握っている。ディートが鼻を鳴らし、空を仰いだ。
「……始末書三枚じゃ足りんな」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。だがその目尻には、深い皺が刻まれていた。
唇が離れた。メアの黒い瞳が至近距離でカナを見つめている。その目はもう逸れなかった。
「行くぞ」
繰り返される同じ言葉。だが、響きが違った。命令ではなく、誘いでもなく、それは誓いに近い何かだった。メアがカナの手を取り、階段を上がった。一段ずつ並んで。
戸籍局の扉が二人を飲み込み、そして閉じた。群衆の歓声が、厚い壁の向こうで潮騒のように響いている。
書類が机の上に広げられた。メアの署名と、カナの二つの名前。局長が目を丸くしてその古い文字を眺め、エイが横から何かを囁き、局長が一つ咳払いをして印を押した。
重厚な赤い印が紙に落ちた。乾く間もなく、二枚目の控えにも。
それだけだった。悠久の時を生きた森の主が人間の法にその名を刻むのに、要した時間は呆気ないほど短かった。




