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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第二章 森の子
47/59

47.古い名前、新しい名前

「メア、こっちにお手本書いて」

 メアが額を離し、カナを見下ろした。黒い目が一度、二度と瞬く。

 理解が追いついた瞬間、メアの表情が微妙に変わった。赤みが引き、代わりに眉間に薄い皺が寄る。いつもの隊長の顔が戻りかけていた。

「……書けないのか」

 カナは長い長い時を森の中で過ごした存在だ。人間の言葉に通じ、知識も豊富だが、文字を書く機会が森にあったかと問われれば、木の幹に指で描くことはあっても、羽ペンで紙に名を記すことはなかったとしても不思議ではない。

 メアが机の端に手を伸ばし、エイが残していった白紙を一枚引き寄せた。ペンを取り、インクに浸す。さっきまで震えていた指は、今はもう静かだった。

 紙の上に、丁寧な筆跡が並ぶ。カナ。一画ずつ、ゆっくりと。それは報告書を書く時の実務的な字ではなく、新米騎士に剣の型を教える時のような、導くための動きだった。

「こうだ。何度でも練習しろ」

 ペンを差し出す手つきはぶっきらぼうだったが、書き上げたばかりの手本を汚さないよう紙の位置をそっとずらした指先の動きが、彼の本音を語っていた。

 カナは空欄に二つの名前を書いた。一つはメアの手本通りの、カナ。そしてもう一つは、メアの知らない言語の文字。

 メアの目が、その二つ目の名前に釘付けになった。

 不思議な文字だった。流れるような曲線が滑らかに連なり、インクの上で微かに光を帯びているように見える。それは朝日の加減だけではないはずだ。

 カナの手つきには迷いがなかった。羽ペンを持つのは初めてだろうに、その文字だけは一画の淀みもなく、紙の上を水が流れるように滑っていった。手本がなくても書ける名前。その存在そのものが覚えている名前。

 メアの指が、その文字の横で止まった。触れはしなかった。触れていいものかどうか、分からなかったのだ。

「これが、お前の名前か」

 低い声だった。問いかけでも確認でもなく、ただ噛みしめるような響き。人間の法に収まる前の、東の森の主としての本当の名前。

 朝の光が書類を照らし出す。メアの署名の隣に、二つの名前が並んでいた。人間の文字と、人間ではないものの文字。その両方がカナであり、そのどちらもが真実だった。

 メアの手が、ペンを置いたカナの手にそっと重なった。

「……いつか読み方を教えろ」

 メアの手が、カナの手の上で僅かに力を帯びた。

 悠久を生きた存在が、出会って一年にも満たない人間の姓を、己の真の名に重ねようとしている。古い文字で書かれた名前は、森の主がグレンダンを名乗ることを、人間の法よりも遥かに深い場所で宣言していた。

 メアの喉が動く。何かを飲み込むような動き。それは言葉ではなく、もっと熱くて形のないものだった。

 その時、廊下から複数の足音が近づいてきた。早足で、切迫している。ディートたちが戻ったにしては早すぎる。メアの目が瞬時に鋭くなり、彼はカナの前に半歩踏み出した。体が勝手に動いていた。書類の上のインクはまだ乾ききっていない。

 扉が激しく叩かれた。

「隊長!大変です!」

 ビィの声が響いた。昨夜の茶で傷が癒えたはずの声が、別の理由で震えている。

「白梟師団の使者が正門に来ています。武装した護衛付きで、昼を待たずにカナさんの身柄を引き渡せと……!」

 メアの瞳から、一瞬前の温もりが消え失せた。黒い目に冷徹な光が灯り、口元が引き締まる。隊長の顔だ。

 彼は机の上の書類を一瞥した。インクは乾きかけているが、この紙切れはまだ、ただの紙切れに過ぎない。戸籍局に届かなければ、法的な効力は何一つないのだ。

「ビィ、正門は閉じたままにしろ。誰も入れるな」

 メアが振り返った。カナが何かを言いかけている。その顔はいつも通りのんびりしていて、外の緊迫感とは無縁の空気を纏っていた。

 ビィが扉の向こうで息を荒げ、廊下を走る別の足音が重なる。遠くでイーガが何かを叫んでいる。

 メアはカナを見据えた。彼の脳内では、二つの思考が走っていた。一つは隊長としての判断。使者を門前で足止めし、団長たちが根回しを終えるのを待つこと。そしてもう一つは、カナの表情への警戒だ。あの顔を、メアは知っている。とんでもない「いいこと」を思いついた顔だ。

 さっき、その顔で結婚を申し込まれた。

 その前は、王都の空を蛇で飛んだ。

「何だ。言え。ただし、王都を壊すようなことは許可しない」

 先手を打った。だが、カナの「いいこと」がメアの想定の範囲に収まった試しは、今のところ一度もなかった。

 書類の上で、二つの名前が朝の光を浴びている。

 人間の文字と、古い文字。

 インクは、もう乾いていた。

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