46.嫌なわけない
時が止まった。
それは比喩ではなかった。少なくともこの執筆室においては、三人の男の思考が完全に停止し、朝の光が差し込む窓辺で埃が舞い落ちる音すら聞こえてきそうなほどの静寂が降りた。
最初に動いたのはディートだった。口元を覆っていた手が力なく滑り落ち、常に浮かべていた飄々とした仮面が剥がれ落ちる。四十六年の人生で数えるほどしか見せたことのない、純粋な驚愕がその顔に張り付いていた。
エイの手から、インク壺が音を立てて倒れた。黒い液体が机上の報告書をじわじわと侵食していくのを、彼の金色の瞳は呆然と見つめている。いや、見つめてはいたが、その意識は何も見ていなかった。
そして、メアは。
メアは、石になっていた。
黒い目が見開かれ、口は半開きになり、耳たぶから首筋にかけてが、燃えるような真紅に染まっている。胸は上下せず、彼は完全に息を止めていた。厳格で無口な、少し前まで浮いた噂の一つも無かった男。その彼が、目の前の森の主が放った、たった四文字の爆弾に完膚なきまでに撃ち抜かれていた。
「……は」
団長の口から、意味を持たない音が漏れた。それから、その肩が小刻みに震え始める。堪えようとして、だが堪えきれなかった。
「はっ、ははは……!」
乾いた笑い声が部屋に響き渡った。ディートは腹を抱え、椅子の背を掴んで、涙が出るほどに笑い転げている。
「だ、団長……!」
「いや待て、待て……あぁ、駄目だ……」
メアの声が裏返っていた。それはエイですら聞いたことのない、異常な音域だった。
エイがようやく我に返り、倒れたインク壺を慌てて起こした。黒く染まった報告書を見下ろし、それから静かにカナへと視線を転じる。いつもの穏やかな微笑みが戻っていたが、その瞳はどこまでも真剣だった。
「カナさん。それは、つまり……婚姻によって人としての法的地位を得る、ということですか」
「カナ・グレンダン」
カナは自分の新しい名前を、まるで森で見つけた珍しい木の実の味を確かめるように、のんびりと口にした。
ディートの笑いが止まった。
エイの微笑みが凍りついた。
メアは石から彫像へと進化を遂げていた。顔色は赤を通り越して白くなっている。あまりの衝撃に血の気が引いたのだ。冷静沈着な第三部隊隊長の頭の中で、婚姻届と枢密院、王国法、それからカナの顔が猛烈な勢いで回転し、処理能力の限界を突破していた。
「……おい、エイ」
「はい」
「法的に通るか」
団長の声から笑いの欠片が消えた。飄々とした男の目が、宰相家の五男を鋭く射抜く。ふざけた提案を笑い飛ばすのではなく、本気でその実現可能性を問うている。
エイがほぼ空になったインク壺の横に肘をつき、黒く汚れた指で額を押さえた。宰相家で叩き込まれた法学の知識全てが、彼の頭蓋の中で高速回転を始めているのが、傍目にも分かった。
「婚姻は二名の王国臣民の間で成立する契約です。人でなければならないという禁止規定も、人外の婚姻を無効とする条項も存在しません。カナさんが臣民であるかどうかが争点になりますが……逆に言えば、婚姻届が受理された時点で、国が彼女を臣民であると認めたことになる」
「鶏が先か卵が先か、ってやつだな」
「ですが受理する権限を持つのは枢密院の戸籍局です。昼の出頭より前に届を出せれば、師団側の登録手続きと競合させることができます。少なくとも、議論の土台は変わる」
エイの目が冷徹な光を帯びた。善意の塊のような男の奥底で、宰相の血が脈打っている。法の抜け道を縫うように走る、鋭い知性の輝きだった。
全員の視線がメアに集まった。
メアは黙っていた。白い顔のまま、黒い瞳でカナを見下ろしている。拳が震えていた。それは怒りではなく、それが何という感情なのか、本人すらも理解できていない顔だった。
「お前は……」
掠れた声。一度止まり、喉仏が動いてから、もう一度。
「こういうことは、もっと……」
言葉が見つからなかった。こういうことは、もっと順序を踏んで、静かな場所で、二人きりで。そう言いたかったのかもしれない。だがそのどれもが、今の状況下では途方もない贅沢だった。昼までに出さなければならない答え。声を聞いてくれない法。討伐対象。首輪。その全てを、カナはたった一言で飛び越えようとしている。
メアの拳が開かれ、そしてもう一度、強く握り込まれた。
「嫌?」
一言だった。たった一言が、メアの心のど真ん中を貫通した。
嫌なのか。森の主が、悠久の時を生きた存在が、小首を傾げて、黒い瞳でそう問いかけている。政治も法も策略も関係なく、ただ純粋な心で。
メアの喉から、言葉にならない音が漏れた。
「おい、メア」
ディートの声が低く響く。腕を組み、精悍な顔で部下を見据えた。
「隊長命令とやらで管理責任を背負うと、さっき言ったのはお前だろう。やることは変わらん。書類の名前が変わるだけだ」
乱暴な要約だったが、それは核心を突いていた。メアが自分の手で鎖を握ると言った。それが鎖ではなく婚姻の指輪に変わっただけだ。法的な効力は、むしろこちらの方が圧倒的に強い。
エイが静かに新しい紙を取り出した。インクに汚れていない、真っ白な一枚。ペンを走らせる準備を整えながら、穏やかな声で言った。
「隊長。お気持ちは察しますが、時間がありません」
それは優しい催促であり、同時に冷厳な宣告でもあった。昼を過ぎれば師団の手続きが動き出す。カナは管理対象となり、拒否すれば討伐対象になる。感傷に浸っている猶予は、一秒たりとも残されていなかった。
メアが息を吸い込んだ。深く、長く。肋骨はもう軋まなかった。カナの淹れた茶が癒した骨が、しっかりと彼の肺を支えている。
黒い瞳がカナを捉えた。真っ直ぐに。震えは、もう止まっていた。
「嫌なわけがないだろう」
声は低く、硬く、不器用で、それでいてどうしようもなく正直だった。肌に透ける血液だけが、彼の内側で暴れ回る感情を雄弁に物語っている。
ディートが鼻から息を抜き、エイのペンが紙の上を走り始めた。
カナはキラキラとした期待の眼差しでメアを見つめる。
「よろしくね」
メアの膝が折れそうになり、机の角を掴んでミシミシと音を立てながら耐えた。
第三部隊隊長、黒狼騎士団きっての実力者、冷静沈着の代名詞。その男が、それだけの言葉に膝を砕かれそうになっている。壁に手をついてどうにか体を支えたが、見える肌は真紅に染まり、視線の焦点が定まっていない。
「っ……」
「おい、崩れ落ちるな。書類に署名がいるんだぞ」
ディートが呆れた声を出すが、その口の端は引きつっていた。笑いを噛み殺すために全筋力を動員している顔だ。
エイのペンが一瞬止まり、再び動き出した。金色の瞳を書類に落としたまま、口元には柔らかな微笑を浮かべている。だがその筆致は容赦なかった。婚姻届の書式を、宰相家仕込みの法知識を用いて一行ずつ正確に組み上げていく。
「隊長。お名前のところ、ご自身でお願いします。手が震えていなければ、ですが」
「震えていない」
震えていた。
メアが机から手を離し、歩み寄った。エイから受け取るペンの先が、強張るように揺れている。書類を見下ろし、己の名を記すべき欄を見つけると、彼は一度だけ目を閉じた。
再び開かれた瞳には、もう迷いはなかった。
ペンが紙を撫でる。メア・グレンダン。黒いインクで刻まれた文字は、戦場で剣を握る時と同じ、力強く迷いのない筆跡だった。
「嬉しい?」
メアがペンを置いた。インクが乾くのを待つ静寂の中、カナの問いが落ちる。嬉しいか、と。
メアは答えなかった。答える代わりに、カナの腕を掴んで自分の方へと引き寄せた。少し乱暴に。だが手首にかかる力加減は、驚くほど丁寧に抑制されていた。額を彼女の額にぶつけるように押し当て、目を閉じる。呼吸が唇に触れるほどの至近距離で、低い声が零れた。
「黙っていろ」
その一言に込められた膨大な熱量を、この男の語彙では到底処理しきれなかった。額と額が触れ合う場所から熱が伝わり、メアの耳は赤いままで、閉じた瞼が微かに震えている。
ディートが音を立てずに椅子から立ち上がり、エイの肩を叩いた。
「行くぞ、エイ。戸籍局が開く前に根回しがいる」
「……はい。書類は机の上に。カナさん、署名欄はこちらです。乾いてからお願いしますね」
エイが書類の端を指で示し、穏やかに微笑んで部屋を後にした。ディートが最後に振り返り、額を合わせたまま微動だにしない二人を一瞥すると、静かに扉を閉めた。
廊下に出た途端、ディートが天井を仰ぐ。
「あいつの嫁取りを始末書で読む日が来るとはな」
「始末書ではなく報告書です、団長」
「同じだろ」
二人の足音が遠ざかっていく。部屋にはカナとメアだけが残された。朝の光が書類の上のインクを乾かし、メアの名前の隣にある空白の署名欄が、主を待っていた。




