44.代償
朝が来た。
王都の屋根を金色の光が舐め、昨夜の騒動の痕跡を容赦なく照らし出していた。白梟師団本部の尖塔は半ばから折れ、無惨な姿を晒している。砕けた石畳の隙間からは、森の主の力に当てられたのか、季節外れの小さな花が可憐に咲き誇っていた。路地には、騒ぎの余韻で酔い潰れた市民が転がっている。
朝靄の中、吟遊詩人は早くも歌い始めていた。それは昨夜の出来事を脚色した、森の主と騎士の恋物語。尾ひれは既に原型を留めないほどについていたが、誰もがその調べに聞き惚れていた。
騎士団宿舎の医務室では、医務官が報告書を前に頭を抱えていた。全治数週間の骨折が一晩で完治した。縫合直後の傷口が跡形もなく消え去った。そんな事実をそのまま書いて、誰が信じるというのか。結局、彼は正気を疑われるのを恐れ、白紙のまま筆を置くしかなかった。
エイは寝ていなかった。
団長室の隣の小部屋では、羽ペンが紙を走る音だけが規則正しく響いている。枢密院への報告書、実家であるランティス家への私信、近衛中隊への事実確認の照会状。インク壺が空になり、二つ目に手を伸ばした指先は黒く染まっていた。左肩の傷はカナの茶のおかげで塞がっていたが、徹夜の代償は隠しようもなく、金色の瞳の下には薄い隈が刻まれている。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
入ってきたのはディートだった。その手には二通の封書がある。一通は枢密院の紋章、もう一通には見慣れない赤い封蝋が押されていた。
ディートがエイの机に封書を置いた。その飄々とした表情は昨夜と変わらないが、目の奥に宿る温度が違っている。
「枢密院から呼び出しだ。今日の昼、第三部隊隊長と森の主の出頭を求めるとさ」
エイの羽ペンが止まった。
「で、こっちが厄介だ」
ディートの指が、赤い封蝋の方を叩いた。
「白梟師団の長、大師団魔術師からの親書だ。ヘクターの上司の、さらに上。俺宛てに来てる。中身は読んだ。端的に言うぞ」
ディートは椅子の背に腰を預け、腕を組んだ。
「森の主を王国の戦力として正式に登録しろ、さもなくば師団の管轄下に置く手続きを再開する、だと。昨夜のあれを見て、欲しくなったらしい」
エイの羽ペンが、指の間で静かに折れた。インクが机に飛び散り、書きかけの報告書の端を黒く汚す。穏やかな笑みは崩れなかった。だが、折れたペンの破片を見下ろす金色の瞳には、鋭く冷たい光が宿っていた。
「……戦力登録、ですか」
「ああ。お前の書いた筋書きが上手くいきすぎたな。騎士団に帰属させたのは正解だった。だが、帰属させたってことは、王国の資産として扱える口実を与えたってことでもある」
沈黙が落ちた。窓の外では朝の鐘が鳴り響き、王都が目覚め、昨夜の英雄譚を語り始めている。その裏側では、政治の冷徹な歯車が既に回り出していた。
話を聞いたカナは、不思議そうに首を傾げた。
「その人たち、まだ私が言うことを聞くと思ってるの」
「思ってるんじゃない。そう思いたいんだ」
ディートの声は軽かったが、目は笑っていなかった。彼は椅子の背から体を起こし、カナを真っ直ぐに見据えた。
「嬢ちゃんが昨夜やったことは、王都の連中にとって二つの意味がある。一つは恐怖。もう一つは欲だ。恐怖は時間が経てば薄れるが、欲は決して消えない」
カナはディートの言葉を噛み締めるように聞いていた。壁際に立つメアは腕を組み、黒い目を細めている。
「あの蛇を、あの魚を、あの治癒の茶を、国のために使えと言ってくる。断れば管轄権を盾に取る。受ければ首輪をつけられる。どっちに転んでも、あんたの自由は削られるんだ」
「枢密院への出頭が先です。昼までに方針を固めなければなりません」
エイが真新しいペンをインクに浸す。その手つきに淀みはなかったが、机の染みを拭う余裕はなかったようだ。
「カナ」
短く、硬い声だった。壁際に立っていたメアがカナの前に立った。昨夜見せた甘さは微塵もなく、そこにあるのは隊長の目だった。
「お前はどうしたい」
問いは単純だった。政治的な駆け引きでも策略でもなく、カナ自身の意志を問うている。この男はいつもそうだった。周囲が計算を巡らせる中で、一番最初に本人の心を聞く。不器用で、直線的で、だからこそ戦場で誰も踏み込めない領域に踏み込める。
ディートとエイの視線がカナに集まった。朝の光が窓から差し込み、机の上の二通の封書を鮮やかに照らし出す。赤い封蝋が、まるで血の色のように見えた。
「もう一回襲撃……」
言いかけて、カナはメアの怖い顔を見て言葉を飲み込んだ。
「来いと言われて行くのはいいけど、管轄権て何?何かしろって言われても、私はやらないよ?」
「そこが問題なんだよ」
ディートが封書を指先で弾いた。赤い封蝋がぱちりと乾いた音を立てる。
「あんたがやらないと言っても、登録が通れば命令権が発生する。拒否すれば王国法への反逆と見なされる。人間の法ってのは、そういうふうにできてるんだ」
カナが不思議そうに首を傾げた。悠久の時を森で過ごしてきた彼女にとって、人間の法という概念は、蟻の巣の交通規則ほどに実感が湧かないものなのだろう。
「反逆」
「最悪の場合、討伐対象になる」
メアの声は平坦だった。感情を極限まで削ぎ落とした、報告書のような声。だがカナに向けられた黒い瞳の奥では、何かが軋んでいた。討伐対象。それは彼ら第三部隊の専門だ。魔物討伐。つまり、それは。
メアは口を閉じた。その先を言葉にする必要はなかった。部屋にいる全員が、その意味を痛いほど理解していたからだ。




