43.後始末
夜明けが近かった。
王都の東の空が薄く白み始め、街を照らしていた松明の火が次第に色褪せていく。街角では即席の祝宴が未だ続いていたが、その喧騒の中に騎士たちの姿はもうなかった。
宿舎への道を、第三部隊が歩いている。
先頭を行くのはガルドだ。負傷した右腕を庇いながらも、左肩にはビィを軽々と担いでいる。額の傷から乾いた血を垂らしたまま眠り込んだ若き騎士は、時折何かを呟いていた。イーガがその隣を歩き、何度もビィの呼吸を確認している。最後尾を歩くエフィは、長剣の柄にそっと手を添えたまま、背後の気配を警戒し続けていた。
メアとカナは、その間を並んで歩いていた。メアの足取りが時折よろめくと、そのたびにカナの手がそっと握り返す。それは言葉を介さずとも通じ合う、深い沈黙だった。
宿舎の門ではエイが待っていた。
疲れた瞳が、並ぶ二人の距離感に穏やかに細められた。
「おかえりなさい。本館に医務官を待機させてあります」
メアの顔が僅かに歪んだ。肋骨の痛みか、待っている顔を思い浮かべたせいか、あるいはその両方か。
「あと、枢密院から早馬が来ています。今回の件について、明朝までに報告書の提出を求められております」
「……何時だと思っている」
「明朝まで、あと二刻ほどですね」
騎士団本部の門をくぐった瞬間、空気が引き締まった。
中庭には松明が焚かれ、その揺れる灯りの中にディートが立っていた。腕を組み、第三部隊の帰還を眺めている。精悍な顔の奥で、団長としての冷徹な計算が高速で回っている。
「派手にやったな」
第一声はそれだった。視線がメアの鉄屑と化した鎧を舐めるように走り、カナの裸足を確認し、何も言わずに視線を流した。
「王都中が大騒ぎだ。宮殿の近衛が二個中隊出動して、師団本部の周りをうろうろしてる」
ディートが柱から背を離し、ゆっくりと歩み寄る。ガルドの肩のビィを一瞥し、イーガの傷を確認し、エフィに小さく頷いた。それから、メアの前で足を止めた。
「報告は後でいい。先に医務官のところへ行け。全員だ」
「団長、先に状況を……」
「命令だ、メア」
軽い口調だったが、そこには有無を言わせぬ重みがあった。メアは口を閉ざすしかなかった。
ディートの目がカナに向いた。
「嬢ちゃんも怪我はないか」
問いかけは穏やかだった。だがその目は、先ほど王都の空を割った一群の正体を正確に認識している目だった。面倒見の良い団長の顔と、王国最強の騎士団を束ねる男の顔が、同じ皮膚の下で重なり合っていた。
「ずっと前に私がエイにあげたお茶、まだある?」
「ああ、あるよ」
短い返事だった。ディートの目が一瞬だけ細まり、エイを見た。エイが小さく頷く。初めて第三部隊と会った日、カナが振る舞った森の新芽の茶。あの水晶の容器は、証拠品として団長室の金庫に保管されている。東の森の主との最初の接触を証明する、極めて重要な物品として。
「だが、あれは証拠品だ。使うなら理由がいる」
飄々とした声の下に、釘が一本打ち込まれていた。王都を揺るがした直後に証拠品を持ち出すことの意味を、彼は決して見誤らない。
だが、その目は中庭の松明に照らされた部下たちを見渡していた。ガルドの庇われた右腕。ビィの額の乾いた血。イーガの強張った顔。エフィの剣の柄を握る手。エイの左肩に滲む赤。そして、呼吸のたびに顔を歪めるメア。
ディートが長く、深い息を吐いた。面倒見のいい男の顔が、団長の顔を押し退けた。
「エイ、持っていけ。金庫の鍵だ」
「はい」
エイが踵を返した。その足取りに迷いはなかった。
ディートがカナを見下ろした。その不敵な笑みが、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「あんたの茶で部下が元気になるなら、証拠品の一つや二つ安いもんだ。ただし、後で始末書は書かなきゃならん。俺がな」
最後の一言に、メアの眉が僅かに動いた。団長自らが始末書を書く。それは、今夜の全ての責任を自分が背負うという宣言に他ならなかった。
医務室には簡素な寝台が並んでいる。薬瓶の棚が詰め込まれた狭い部屋に、第三部隊の面々が押し込まれた。ランプの暖かい光が、傷だらけの顔を照らし出していた。
ビィは寝台に横たえられ、ようやく意識を取り戻していた。額の傷を医務官に縫われながら、涙目で天井を睨んでいる。その隣ではイーガが軟膏を塗られ、痛みに顔を歪めるビィの手を無言で握っていた。ガルドの右腕は添え木で固定され、豪快な彼にしては珍しく顔をしかめている。エフィは隅で自分の傷を自ら手当てしていた。
メアは壁際に立っていた。上半身の鎧を脱がされ、肋骨に巻かれた包帯が呼吸のたびに赤く滲む。医務官が座れと言い、ディートが座れと言っても、彼は頑なに拒んだ。
エイが戻ってきた。その手には、水晶を削り出した小さな容器が光っている。松明の灯りを受けて中の液体が淡く揺れ、森の清々しい匂いが微かに漂った。
「腐ってないよね?淹れたのいつだっけ……」
「九ヶ月ほど前になりますね」
エイが水晶の容器を差し出しながら、正確に答えた。第三部隊の日常が劇的に変わり始めた記念すべき日だった。
カナが容器を受け取り、蓋を開けた。
瞬時に森の匂いが広がった。九ヶ月も前の液体が、まるで今朝摘み取ったばかりのように青々と香っている。
カナが容器の中を覗き込み、首を傾げた。
「うーん」
その一言に、医務室の空気が凍りついた。
ディートの眉が上がり、メアの目が鋭く細まる。エイの表情も一瞬だけ固まった。「うーん」とは、どういった意味なのか。満身創痍の騎士たちが、裸足の少女の呟き一つに息を止めている。その光景は、どこか滑稽ですらあった。
カナが指先で液体に触れると、水面に波紋が広がり、淡い光が走った。匂いが変化した。若葉の香りの奥に、透き通るような泉の冷たさが混じる。
「薄いけど、大丈夫かな」
カナの声はいつ通りのんびりとしていた。王都の空を割った存在と同じ口が、今はお茶の濃さを心配している。ディートが鼻から息を抜いた。それが笑いなのか呆れなのかは、本人にしか分からなかった。
カナが水晶の容器から、医務室の杯に茶を注いでいった。六つの杯に分けると、容器は空になった。一杯の量は、喉を潤すにも足りないほど僅かなものだった。
「どうぞ。全部飲んでね」
ビィが最初に杯を受け取った。一口含んだ瞬間、痛みに歪んでいた顔がふっと緩む。イーガが怪訝な目で彼を見、自分も口をつけた。髪の下で、その目が見開かれた。
ガルドが一息に煽り、エフィが静かに含み、エイが丁寧に両手で持って少しずつ味わう。
最後に、メアの杯だけが残った。
カナが最後の一杯を手に、壁際のメアの前に立った。差し出された杯の中で、淡い光が揺れている。メアはそれを見下ろした。泉の匂いが鼻腔を満たし、包帯の下の肋骨が疼く。
周囲では既に奇跡が起きていた。ビィの額の縫合痕は薄桃色に塞がり始め、医務官が目を丸くしている。
メアが杯を受け取った。その際、カナの指に触れた。温かかった。数時間前、この手を剣で裂いた。体が二つに割れるのを見た。その彼女が今、目の前で杯を差し出している。
メアが杯を煽った。一息に、全てを。
冷たい感覚が喉を滑り落ち、胸の奥で広がっていく。泉に浸かったような心地よさが肋骨を包み込み、軋むような痛みが遠ざかる。包帯の下で骨が繋がる微かな振動が走り、波が引くように痛みが確実に消えていった。
メアが深く息を吐いた。肋骨は、もう軋まなかった。
「……」
礼を言うべきだったが、言葉にならなかった。代わりに、空の杯を返す手が、そのままカナの手を握った。不器用に、ぶっきらぼうに。
医務室の隅で、ディートが腕を組んで一部始終を見ていた。九ヶ月前のお茶が、これほどの効力を持つ。薄いと言ってこれならば、本来の力はどれほどか。ディートの視線がカナの背中に据えられ、頭の中で始末書の内容が書き換えられていく。
メアだけに聞こえる小さな声で、カナが囁いた。
「メアが一番カッコよかったよ」
メアの手が、握った彼女の指を僅かに強く締めた。
顔は正面を向いたまま、表情も変えない。だが、百戦錬磨の騎士が、たった一言に撃ち抜かれていた。
メアの唇が微かに動く。一度閉じ、もう一度開いて、ようやく絞り出した。
「……二度とあんな無茶をするな」
それが精一杯の言葉だった。ありがとうでも嬉しいでもなく、小言。この男の愛情表現は、いつだって分かり辛い。
エイが視界の端で二人を捉えていた。聞こえてはいなくても、メアの表情で全てを理解した。包帯を結ぶ手が少しだけ優しくなる。
「あの、カナさん!このお茶、すごいです!全然痛くない!」
ビィが寝台から身を起こし、目を輝かせる。
「騒ぐなよ、みっともない」
イーガは呟きながらも、自分の腕を何度もなぞって確認していた。
「いやぁ、こいつは参った!」
ガルドが添え木を放り出し、豪快に笑いながら右腕を振り回す。
医務室に笑い声が満ちた。緊張と恐怖に満ちた夜が、ようやく終わろうとしていた。
ディートが静かに医務室を後にした。廊下に出た団長の顔から笑みが消える。精悍な顔に刻まれた皺が深くなり、彼は夜明けの廊下を歩んでいく。
その足は、団長室へと向かっていた。始末書のためではない。書くべきは、もっと別の重い事実だ。今夜の出来事は英雄譚として語られるだろう。だが、東の森の主を味方につけた騎士団という存在が、王国の権力構造に何をもたらすか。
その恩恵には、必ず相応の代償が伴う。
団長室の扉が、静かに閉まった。




