42.帰るぞ
群衆は散らなかった。松明を掲げた市民たちが第三部隊を囲み、口々にその名を呼んでいる。どこかの酒場から樽ごと担ぎ出された麦酒が惜しげもなく振る舞われ、砕けた石畳の上では即席の祝宴が始まっていた。恐怖の記憶は驚くほど早く薄れ、代わりに英雄譚の興奮が王都の夜を熱く満たしている。
メアは壁に背を預けていた。
エイが手際よく施した応急処置によって出血は止まっていたが、呼吸のたびに軋む肋骨の痛みが、メアの顔を幾度も歪ませた。それでも彼は座ることを頑なに拒み、壁に寄りかかったまま腕を組んでいる。隊長が座り込めば部下の士気に関わる――彼は、どこまでもそういう男だった。
カナがメアの隣にいた。壁際に並んで立ち、祝宴の喧騒を静かに眺めている。裸足の足元には、無機質な石畳の割れ目から小さな花が健気に咲いていた。
「……全部計算通りか」
低い声だった。群衆の耳には届かない、二人だけの距離で交わされる言葉。
「蛇も、魚も、あの台詞も。最初から、この結末を描いていたのか」
メアの黒い瞳が、隣に立つカナを見下ろした。そこには怒りも呆れもなかった。ただ、知りたかったのだ。自分が彼女の手のひらで踊らされたのか、それとも共に踊ったのか。あの時交わした口づけは、用意された台本の一部だったのか、それとも。
遠くでは、ビィがガルドに肩の上で朦朧とし、イーガは赤い顔を群衆から背け、エフィは静かな佇まいで麦酒の杯を受け取っていた。エイの姿はどこにもない。おそらく、今夜の出来事を然るべき形で然るべき場所へ届けるため、書くべき山のような書簡と向き合っているのだろう。
メアの指が、ふとカナの手に触れた。それが無意識だったのか、それとも意識的だったのか、本人にもわからなかった。
「一目惚れした甲斐があった、って感じ」
カナは心底楽しそうに声を弾ませた。
「……一目惚れは台本だろう」
低く掠れた声で返しながらも、彼女の手に触れた指を離すことはなかった。
カナが楽しそうに笑っている。蛇を操り、王都を震わせ、白梟師団を叩き潰して政治の盤面を根底からひっくり返した存在。そんな彼女が、今は壁際で隣に並び、子供のように笑っている。メアの肋骨が呼吸のたびに軋み、砕けた鎧の破片が地面に落ちて音を立てた。満身創痍の騎士と、傷ひとつない森の主。並んで立つその姿は、客観的に見ればどうしようもなく不釣り合いだった。
「俺は本気で斬った」
ぽつりと落とした声には、隠しきれない問いが滲んでいた。本気で斬りかかり、その体が裂けるのを目の当たりにした。それが水のように再び繋がるのも。あの瞬間、メアの腕に迷いはなかった。だが、斬った後に全身を駆け抜けた感覚は、勝利でも達成感でもなかった。臓腑を鷲掴みにされるような、強烈な恐怖だった。
カナの体が二つに裂けたあの光景が、今も目の裏に焼きついている。
「お前は痛くなかったのか」
声はさらに小さくなり、群衆の歓声に紛れて消えてしまいそうだった。メアの指が、カナの手を強く握り込んだ。そこに存在することを確かめるように。壊れていないことを、さっき裂けた体が本当に元に戻ったことを、その熱を求めて確認するように。
隊長の仮面は、とうに剥がれ落ちていた。
「優しくて心配性のメア。信じてくれたメア。どのメアも大好きだよ」
メアの指が、カナの手の中で微かに震えた。
大好き。この男が、生涯で何度言われたことのある言葉だろうか。辺境貴族の次男坊として生まれ、剣を振るい、任務を果たすことだけを糧に生きてきた。部下からの厚い敬意はあった。周囲からの畏怖もあった。だが、大好き、という、これほどまでに真っ直ぐな言葉を、壁際で手を繋ぎながら投げつけられたことは、おそらく一度もなかった。
メアは黙って、ただ空を見上げた。蛇の消えた夜空には、静かに月が浮かんでいる。冷たい月光が鎧の残骸を照らし、砕けた石畳を銀色に染め上げていた。遠くで群衆がまだ騒いでいる。ガルドの野太い声が混ざり合って響く。
メアの喉が、何かを飲み込むように動いた。
「……お前は」
言葉が途切れる。続きを探しているようだったが、彼の語彙には、このような場面に対応できる引き出しが致命的に不足していた。報告書なら書ける。作戦指示なら完璧に出せる。だが、隣に立つ女に返す言葉だけが、心のどこを探しても見つからない。
メアは諦めたように、短く鋭く息を吐いた。そして、カナの手を引いた。ぐい、と、少し乱暴に。壁に預けていた体を起こし、握った手ごとカナを引き寄せると、二人の額を合わせた。
焼けた鎧の匂い、血の匂い、そして汗の匂い。その奥に、メアという男の確かな体温があった。
「帰るぞ」
それだけだった。好きだとも、愛しているとも言わなかった。ただ額を合わせたまま、それだけを告げた。宿舎に。お前の居場所に。俺の隣に。言葉にできなかった全ての想いを、握り締めた手に詰め込んで。
カナの足元で、小さな花が静かに揺れていた。




