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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第二章 森の子
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41.青星夜行

「私の森を燃やしたのは誰」

 巨大な蛇の口を通し、その声は王都中の隅々にまで響き渡った。

 王都が凍りついた。

 声は夜空から降り注ぎ、分厚い壁を抜け、屋根を貫き、地下深くに隠された酒蔵の奥底にまで染み込んだ。あまりにも穏やかな声だった。怒鳴っているわけでもなく、ただ、静かに問いかけている。それがかえって恐ろしかった。まるで、割れた花瓶の前に立ち、静かに子供の名を呼ぶ母親のような声。逃げ場のない、残酷なまでの優しさ。

 通りに溢れ返っていた人々が、一斉に口を噤んだ。酔っ払いは酒瓶を取り落として砕き、子供は母親の衣にしがみつき、夜警の兵は槍を構えたまま膝を震わせている。

 白梟師団本部の窓に、次々と灯りが点った。

 術師たちが廊下を走り、尖塔の頂にいくつもの防壁が展開される。だが、旋回する水色の魚がその結界に触れた瞬間、防壁は飴細工のように無残に歪み、ぱきん、と硝子を割るような音を立てて砕け散った。

 巨大な白い蛇は尖塔の周囲をゆっくりと旋回し続けている。それは獲物を品定めする、捕食者の動きだった。巨大な黒い瞳が、本部の正門を静かに見下ろしている。

 やがて、その正門が開いた。

 灰色の髪を夜風に乱し、ヘクター・ヴァイルが門前に立っていた。寝衣の上に紫色の衣を羽織っただけの無防備な姿で、彼は空を見上げた。その灰色の瞳には、蛇の放つ圧倒的な光が映り込んでいる。

 その端正な顔から、全ての仮面が剥がれ落ちていた。冷徹な計算も、偽りの穏やかさも、学問を志す者のプライドも。後に残っているのは、自分が何を呼び覚ましてしまったのかを正確に理解した人間特有の、蒼白の絶望した顔だけだった。

 蛇の首が、ゆっくりとヘクターへと向けられた。

 その時、背後の路地から金属のぶつかり合う足音が響いてきた。第三部隊が到着したのだ。

 ヘクターと蛇の間に割り込むようにして、メアを先頭とした第三部隊が並んだ。抜き身の剣が、頭上の青い光を鋭く反射している。

 ヘクターは自嘲するように、歪んだ笑みを浮かべた。

「なんだ、この茶番は。英雄を気取るつもりか……!」

 メアは答えなかった。

 肩で息をしていた。全力で王都を駆け抜けてきた代償が、肺を焼くような痛みとなって襲っている。だが、剣を構えるその腕に揺らぎは微塵もなかった。六人の騎士が扇状に展開し、蛇とヘクターの間に揺るぎない壁を作る。

 蛇が主と同じ仕草で小首を傾げた。品定めするように、第三部隊を見下ろしている。

「茶番かどうかは、終わってから決めろ」

 メアは短く、冷たく言い放った。ヘクターを振り返りさえしない。その黒い瞳は、ただ一点、蛇だけを射抜いている。

 ヘクターの笑みがさらに歪んだ。灰色の瞳が第三部隊の背中を睨みつけ、蛇を見上げ、再び眼前の騎士たちへと戻る。彼は理解していた。自分が今、ここで騎士団に守られているという構図が何を意味するのかを。師団が招いた災厄を、騎士団が体を張って食い止めている。この光景を、今まさに王都中の人間が目撃しているのだ。

「……貴様ら、仕組んだな」

「何のことでしょう」

 エイの声はどこまでも穏やかだった。剣を構えたまま、金色の目は蛇から逸らさない。ただ、その口元だけが微かに弧を描いていた。

 蛇が吼えた。

 衝撃波が石畳を叩き、メアの髪が真横に激しく流れた。魚の群れが渦を巻き、一斉に降下を開始する。本気だった。宣言通り、一欠片の手加減もするつもりはないらしい。

「散開!」

 メアの号令と共に第三部隊が動いた。

 カナからの声はない。蛇が、魚が、その意志を代弁している。森の主の意志が、水色の光そのものとなって王都へと降り注ぐ。

 最初の一匹がメアに突っ込んだ。

 光の塊が剣を弾き、メアの体が石畳の上を激しく滑る。重くはない、だが恐ろしく速い。足を踏み直す間もなく、次の一匹が脇腹を掠めた。鎧の表面を水色の光が走り、金属が悲鳴のような摩擦音を立てる。

 エフィが跳躍した。剣が鋭い弧を描き、降下してきた魚の群れを薙ぎ払う。刃が光を裂き、魚が散る。だが、散ったはずの光は再び凝縮し、別の形を取って襲いかかってきた。斬っても斬っても終わりがない。それは文字通り、水を剣で断とうとする徒労感だった。

「来るぞ!」

 蛇の尾が振り下ろされた。石畳が爆ぜ、破片が四方に飛散する。ガルドがビィとイーガを突き飛ばし、自らの体でその衝撃を真っ向から受け止めた。膝が折れ、歯を食いしばる。腕の骨が軋む嫌な音が響いた。

 ビィが転がりながらも剣を構え直した。その目は蛇をしっかりと見据えている。イーガがビィの隣に並び、鋭い眼光で蛇の挙動を追う。

 エイが走った。蛇の死角へと回り込み、その動きを見極めようとする。相手の呼吸を読み、確実な一撃を叩き込もうと。しかし、蛇には隙がなかった。黒い瞳が正確にエイを捉え、尾が横薙ぎに振られる。跳び退いたエイの左肩を、青い光の一匹が掠めた。傷が開いたのか、彼の顔が苦痛に歪む。

 蛇の背の上で、カナの黒髪が夜風に揺れていた。のんびりとした顔で、彼女は眼下の戦場を見下ろしている。

 メアが立ち上がった。口の端に滲んだ血を拭い、剣を握り直す。蛇を見上げ、その背の上にある小さな影を視界に捉えた。黒い瞳が据わる。

 あそこだ。

 蛇ではない。本体を叩かなければ、この事態は終わらない。分かっている。分かっていても、足が竦みそうになる。あの肩を掴んだ時の、細く温かな感触がまだ掌に残っている。

 魚が群れを成し、メアに向けて殺到した。

「もう一度聞くよ。私の森を燃やしたのは、誰?」

 王都中に、二度目の問いが降り注いだ。逃げ場のない、静かな宣告。

 通りに溢れていた群衆が、ざわめき出した。森を燃やした。誰が、何のために。人々の視線は、自然とひとつの場所へと集まっていく。白梟師団本部の正門前、紫の衣を羽織った灰色の髪の男。

 ヘクターの顔から、完全に血の気が引いた。

 群衆の中から、誰かの声が飛んだ。

「誰だよ、森を燃やしたのは!」

「師団だろ。あいつらだろ!」

 囁きはさざ波のように広がり、瞬く間に濁流となった。ヘクターの背中に、数千、数万の不信の目が突き刺さる。

 ヘクターが口を開いた。何かを言おうとした。弁明か、命令か、あるいは術の詠唱か。だが、声が出るより早く、蛇の瞳が彼を捉えた。あの穏やかな黒が、筆頭調査官の喉元を鋭く見つめている。

 ヘクターの膝が、がくりと折れた。

 抵抗などできなかった。術を編む指は震え、誇り高き衣の裾が汚れた石畳に無残に広がった。威厳も計算も全てを剥ぎ取られ、王都の衆目の下で膝をついた白梟師団の筆頭調査官が、絶望の中で蛇を見上げている。

「……私じゃない」

 掠れた声だった。喉の奥から絞り出した、あまりにもみっともない否定。

「あの男が勝手に……」

 その時、蛇の背の上から、魚に咥えられていた助手が放り投げられた。白目を剥いた男が、ヘクターの足元に無様に転がる。上司と部下が、石畳の上で並んで地に伏した。

 メアは魚を斬り払いながら、その光景を横目で捉えた。口の中に鉄の味が広がる。脇腹の鎧は無残に凹み、裂けていた。呼吸をするたびに肋骨が悲鳴を上げる。だが、足は止めなかった。蛇の注意がヘクターに向いた、この一瞬の隙。

 エイと目が合った。

 二人が同時に地面を蹴った。

 二人の向こうでは、イーガの剣が魚を薙ぎ払っている。イーガがヘクターに向かって怒鳴り声を上げた。

「おっさん!いいから手伝え!魔術師だろ!」

 ヘクターが目を見開いた。

 膝をついたまま、新米の騎士に怒鳴りつけられている。白梟師団の筆頭調査官が、わずか十八歳の小僧に。屈辱が灰色の瞳を走ったが、それはすぐに別の感情へと変わった。

 魚がイーガの背後から襲いかかった。ビィが叫びながら割り込み、剣で弾き飛ばしたが、その衝撃で二人まとめて吹き飛ばされる。石畳に叩きつけられ、ビィの額から鮮血が流れた。それでもイーガは立ち上がり、ヘクターを強く睨みつけた。

「ぼさっとすんな!死にたいのか!」

 ヘクターの指が動いた。

 それは学者の意地でも、権威でもなかった。十八の小僧に怒鳴られ、生存本能が勝手に応じたのだ。指先に光が灯り、イーガとビィの前に堅牢な防壁が展開される。魚が防壁にぶつかって激しく弾け、紫と水色の光が火花となって散った。

 その隙を突き、メアとエイが蛇の懐へと飛び込んだ。

 メアが跳んだ。蛇の鱗を足場に、巨体を駆け上がる。真珠色の光が肌を焼いた、鎧越しに染み込む酸のように、皮膚が侵される。鎧の隙間から微かに白い煙が上がった。痛みを精神の奥底に押し込み、ただ上を目指す。エイが反対側から回り込み、蛇の意識を二つに割った。

 蛇が身を捩った。メアが振り落とされそうになりながら、鱗に剣を深く突き立てて踏み止まる。蛇が悲鳴のような共鳴音を発し、首をもたげた。

 その背の上に、カナがいた。

 裸足で、黒髪を夜風に遊ばせ、幻想的な水色の光に包まれて。彼女は静かに見下ろしていた。自らの方へ駆け上がってくるメアを、あの穏やかな笑みで見つめている。

 メアの右腕が、最速の軌跡を描いた。

 剣を振り下ろす。カナの首筋を標的に、躊躇いのない一閃。第三部隊隊長としての、魂を込めた斬撃。乳白色の光を裂き、刃が奔る。

 蛇が咆哮した。

 カナの体が沈む。刃はわずかに黒髪を攫い、夜風に散らした。蛇の鱗がメアの足元で急激に隆起し、体勢が崩れる。重力に引かれ、石畳という遥か下方の奈落へと落ちていく。

 その腕を、エイの手が強く掴んだ。

 いつの間に登ってきたのか、エイの瞳が蛇の背の上で鋭く光る。

 腱の強張る左手でメアの腕を必死に掴み、引き上げながら、右手一本で制御した剣を真っ直ぐ突きつけるように向けた。

「カナさん」

 穏やかな声だった。呼吸は乱れ、肩からは血が滲んでいる。それでも、敬語を崩さない男の声。

「そろそろ、よろしいですか」

 メアに斬られ、肩から腰まで二つに分かたれたカナの体が、まるで水滴が惹かれ合うようにして、元の形へと戻っていく。

「君たちは誰?どうして邪魔をするの?この人たちは私の森を燃やしたんだよ?」

 半壊した白梟師団本部の上空。浮かび上がる蛇から、問いが響く。

 メアは、至近距離でその光景を目にしていた。

 乳白色の雫が肉を編み直し、骨を紡ぎ、皮膚を閉じていく。斬った手応えは確かにあった。刃は肉を通った。だが、何の意味もなかった。人を斬るための剣では、この存在を止めることなどできない。それを、彼女は最初から知っていたのだ。

 メアが立ち上がり、ゆっくりと剣を下ろした。

 蛇の背の上で強風が吹き抜け、半壊した尖塔の破片が夜空を舞う。眼下には数え切れないほどの群衆が溢れ、松明の光が無数の星のように揺れていた。王都中が、この空の一点を見上げている。

 メアが口を開いた。喉から絞り出した声は、蛇の咆哮に比べればあまりにも小さかった。だが、それは確かに群衆の元へと届いた。

「黒狼騎士団第三部隊。魔物討伐を任とする」

 淡々と、彼は名乗った。まるで事務的な報告書を読み上げるかのような声だった。

「森を燃やした者の処分は、王国の法に基づき我々が行う。だからお前は帰れ。森に帰れ。ここはお前の場所じゃない」

 声は震えなかった。震えさせなかった。それがエイには痛いほどに伝わっていた。この男が今、どれほどの意志の力で自分を押し殺しているか、金色の目にははっきりと見えていた。

 帰れ、と言っている。お前の居場所はここではない。王都ではなく、宿舎でもなく、そして自分の隣でもなく、森へ帰れと、彼は突き放したのだ。

 群衆が固唾を飲んで見守っている。蛇の上の小さな影と、その前に毅然と立つ騎士の影。水色の光と、冷たい月明かりに照らされた抜き身の剣。

 カナの黒い瞳が、じっとメアを見つめていた。

「君の名前は?」

「メア・グレンダン」

 迷いなく答えた。蛇の背の上、眩い水色の光に晒されながら、真っ直ぐに彼女を見据えて。まるで、今日初めて会った知らない相手に名乗るかのように。

 メアは、カナが求めている台本を正確に読み取っていた。

 群衆が息を止めた。松明が揺れ、数千の視線が空に釘付けになる。蛇の上で対峙する二つの影。名乗りを上げた騎士と、人知を超えた森の主。吟遊詩人が百年後まで語り継ぐような伝説の光景が、今まさに編まれている。

「処分は必ず行う。王国の名において。だから、矛を収めろ」

 メアは再び剣を構え直した。切っ先がカナの喉元を指す。斬れないと分かっている。斬っても繋がると知っている。それでも、彼は構えた。たとえこれが芝居であったとしても、メア・グレンダンという男は決して手を抜かない。カナが本気で来いと言ったから、彼は全力でそこに立っている。

 蛇が低く唸り、その振動が骨の芯まで伝わってくる。メアの歯が微かに鳴った。隣でエイが剣を握り直す気配がする。

 魚の群れが旋回を止めた。一匹、また一匹と、その光が淡く薄れていく。蛇の鱗の輝きも、僅かに彩度を落とした。

 カナが、小さく息を吐いた。

「メア・グレンダン。あなたの言うことなら聞きましょう。素敵な人。私、あなたに一目惚れしたみたい」

 王都中に、その宣言が響き渡った。

 一拍の静寂の後、王都が爆発的な熱狂に沸いた。

 それは根源的な恐怖からの解放だった。蛇が矛を収め、光が散り、緊張の糸が切れた瞬間に溢れ出した歓声、笑い声、悲鳴、それらが混ざり合った混沌たる感情の奔流。

 だが、メアにはその喧騒すら聞こえていなかった。

 蛇の背の上で、残光を浴びながら、彼は完全に凍りついていた。黒い目は大きく見開かれ、口は半開きになり、耳の先から首筋にかけて、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。王都数万の衆目が見上げる中、その顔を見ることができたのはカナとエイだけだった。

「……お見事です」

 エイが小さく呟いた。剣を下ろし、肩を気にすることもせず、柔らかく目を細める。今しがた完成した政治劇の全貌を、この男は誰よりも理解していた。

 森の主が襲撃し、騎士団が止めた。その騎士に、主が惚れた。だから矛を収めた。これ以上なく単純で、これ以上なく強固な物語。白梟師団が今後いかなる理屈を並べようとも、森の主自身が公の場で騎士団の個人を選んでしまった事実は覆せない。

 眼下では、ヘクターが石畳に力なく座り込んでいた。灰色の目は虚ろに空を見上げ、泥で汚れるのも構わず、ただ茫然としていた。完敗を、あの聡明な頭脳で反芻している最中なのだろう。

 蛇がゆっくりと降下し、その巨体は淡く透け、夜空へと溶け始めていく。

 蛇が消えた。

 水色の光は夜空に溶け、魚たちは星屑のように散って消えた。最後の一匹が尾を振って消え去ると、空にはただ冷ややかな月だけが残った。何事もなかったかのように、月光が半壊した尖塔を静かに照らし出している。

 メアが石畳に降り立った瞬間、その膝が折れた。

 鎧は凹み、裂け、溶けたように歪だった。そこかしこから血が滲み出ている。激闘の代償が一気に押し寄せたように力が抜け、剣を杖代わりにどうにか体を支え、荒い息を吐く。

 エイが隣に膝をつき、メアの肩を支えた。隊長の容態を素早く確認し、致命傷がないと知ると、エイはほんの僅かに口元を緩めた。

「隊長。お怪我の具合は」

「……黙れ」

「一目惚れされたそうで」

「黙れと言っている……」

 エイは黙らなかった。穏やかに微笑みながら、メアの腕を自分の肩に回す。向こうではガルドがビィを担ぎ上げ、イーガが額の血を乱暴に袖で拭っていた。エフィは腕を組み、冷静に事の結末を見届けている。

 群衆の歓声は鳴り止まない。松明が揺れ、口笛が飛び交い、誰かが黒狼騎士団の名を叫び続けている。

 その喧騒の中を、カナが裸足で歩いてきた。

 砕けた石畳を踏むたび、その足元から若芽が顔を出す。光はもう纏っていない。黒髪の、黒い瞳、華奢な体。先ほどまで空を震わせていた存在と同一人物だとは、到底信じられないほど、どこにでもいそうな娘だった。

 メアが顔を上げた。

 エイに支えられ、剣を杖にして、どうにか彼女を見上げる。鎧はボロボロ、体は血に汚れ、息は絶え絶え。何かを言おうとして口を開き、そして閉じる。

 カナが足を止めた。手を伸ばせば届く、すぐ目の前で。

 群衆の歓声が遠くに感じられた。揺れる松明の光が、二人の影を幾筋も地面に引いている。

 エイが、そっとメアの腕を離した。支えを失ったメアがわずかによろめき、剣の切っ先が石畳を鳴らす。だが、彼は倒れなかった。歯を食いしばり、ボロボロの姿で、カナの前に毅然と立ち続けた。

 メアの唇が動いた。掠れた、小さな声だった。王都の喧騒に紛れ、カナだけに届く声。

「……満足か、お姉さん」

 皮肉を吐ける程度には、彼はまだ生きていた。

「大満足」

 カナの手が、血と埃で汚れたメアの頬に添えられた。

 そのまま、二人の唇が重なった。

 王都が、爆発した。

 歓声、口笛、足踏み、拍手。世界がひっくり返ったかのような熱狂。窓から身を乗り出した娘たちが黄色い悲鳴を上げ、酒場の親父が杯を高く掲げ、夜警の兵は槍を放り出して手を叩いた。蛇に怯えていた群衆は、一瞬にして最高の恋物語の観客へと変貌した。人間とは、どこまでも現金で愛おしい生き物だった。

 メアの体は完全に硬直していた。

 カナの手は温かく、唇は驚くほど柔らかい。血と汗の匂いの中に、あの懐かしい泉の香りがした。逃げることも、抱きしめることもしなかった。体を動かそうともしなかった。ボロボロの鎧の下で、心臓だけが馬鹿げた速さで脈打っている。その音だけを聞いていた。

 エイが、そっと視線を逸らした。空を仰ぎ、月を眺め、まるで、実に興味深い天体観測だとでも言いたげな顔で、口元を覆う。その手の下で、唇が笑いを堪えて震えていた。

「おおおおお!!」

 ガルドの野太い雄叫びが響いた。担いでいたビィを落としかけ、ビィは額の血も忘れて目を丸くしている。イーガは顔を背けていたが、その口角は上がっている。エフィは満足そうに微笑んでいる。

 やがて、唇が離れた。

 メアは離れていく顔をじっと見つめていた。黒い瞳がカナを見下ろし、何かを言おうとするが、ついに声にはならなかった。

 その背後では、ヘクター・ヴァイルが石畳からゆっくりと立ち上がっていた。灰色の瞳が、口づけを交わす二人の影を静かに捉える。彼は汚れた紫衣の袖で顔を拭うと、無言のまま踵を返した。崩れた正門の奥へと消えていくその後姿を、追う者は誰もいなかった。

 勝負は、完全についていた。

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