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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第二章 森の子
40/71

40.走れ

 エイが剣を鞘に収めた。金属音が夜の森に響き渡る。

「……隊長」

 メアは振り返らなかった。カナの肩を掴んだまま、微動だにしない。

「カナさんの策に乗りましょう」

「エイ」

「ただし、我々の流儀で」

 メアの手が止まった。エイの声には、穏やかさの奥底に宰相家の血が研ぎ上げた刃の鋭さが光っていた。

「カナさんが暴れる。我々が止める。そこまではカナさんの筋書き通りです。ですがその後は我々が引き取ります。第三部隊が森の主を制圧し、事態を収拾した。その実績をもって、カナさんの管理権限は騎士団に帰属すると主張する。そうすれば、師団は手を出せなくなる」

 エイの視線がカナを捉えた。

「いなくならないでください。それだけが条件です」

 森が静まり返っていた。蛇が首をもたげ、黒い瞳でエイを見下ろしている。水色の魚たちが光の軌跡を描きながら、ゆっくりと旋回を続ける。

 メアの手が、カナの肩からずるりと落ちた。彼は拳を握り、顎を引き、奥歯を噛みしめている。エイの策が正しいことは、頭では理解できていた。だが胸の奥では、あの空白の記憶が激しく叫んでいた。

 メアが重い口を開いた。

「……消えるな」

 メアの不器用な祈りが、静けさの中に確かに響いた。

 カナはエイの作戦を、まるで子供の話を聞く母親のようにニコニコと微笑みながら聞いていた。

「そう上手くいくと思わないで。本気でこないと、私は大暴れするつもりだよ」

 エイの笑みが、初めて凍りついた。

 これまでの人生で、そんな目を向けられたことは一度もなかった。策を褒められたのでも否定されたのでもない。ただ、母親に向かって何かをまくし立てる子供のように、微笑ましいものとして受け止められたのだ。枢密院を動かす書簡を幾度も書いたその手が、無意識に握り締められる。

 本気でこないと、大暴れする。

 その言葉の真の重みを、この場で最も正確に測れるのはメアだった。蛇と対峙したとき、真珠に導かれて刃を突き立てたとき、あの圧倒的な存在感を肌で知っている。カナが本気で暴れれば、第三部隊どころか騎士団ごと吹き飛ぶだろう。これは芝居では済まない。

 この女には、最初から芝居をさせる気などないのだ。

「……本気で来い、と」

 メアの声から感情が消えた。それは隊長の声だった。戦場に立つ直前の、あの冷たく澄み渡った声。黒い瞳がカナを真っ直ぐに見据える。それは恋人の目ではなく、敵を見る目でもなかった。これから命を懸ける相手を、正面から見定める騎士の目だった。

 赤い髪の下でエフィの瞳に静かな炎が灯る。この女だけは、最初から全てを理解していたのかもしれない。美貌の口元が、僅かに吊り上がった。

 ガルドがビィとイーガの肩を叩いた。二人が顔を上げる。

「聞いたな、小僧ども。本番だ」

 ビィが唾を飲み込み、拳を握りしめる。イーガが前髪をかき上げると、その緑の髪の下にある瞳は目の前の女を鋭く見据えていた。

 蛇が天を仰ぎ、真珠色の光が脈打った。森が震えている。主の意志に応え、目覚めた力が強大な行き場を求めてうねり出した。

 カナがメアを見上げた。不敵な笑みを浮かべたまま。

 次の瞬間、巨大な蛇がカナを乗せて空へと舞い上がった。燃やされた木々が変化した、青く輝く魚たちが群れをなし、カナの周囲を奔流のように泳ぎ回る。

「走れ!」

 メアの声が夜を切り裂いた。彼は既に愛馬の元へ駆け出している。焼け跡を蹴り、獣道を駆け抜け、街道へと飛び出した。エイが半身遅れて並走し、エフィが風のような速さで続く。ガルドがビィとイーガを追い立て、蹄が全力で地面を叩いた。

 空を見上げる余裕などなかった。だが見上げずとも分かった。頭上を通過する蛇の巨大な影が街道を覆い尽くし、降り注ぐ水色の光が走る騎士たちの鎧を青く染め上げている。魚の群れが鱗を煌めかせながら降下し、王都の尖塔を掠めるように泳いでいく。


 王都の夜空が、裂けた。

 水色の光が闇を貫き、雲を割り、星々の瞬きを掻き消した。巨大な白い蛇が天を駆ける。その背にカナを乗せ、無数の魚を従え、夜そのものを鮮やかに塗り替えながら。王都の屋根という屋根が青白く照らし出され、路地には濃い影が踊った。

 最初に気づいたのは夜警の兵だった。次に酒場から転がり出た酔っぱらいが空を指差し、叫び声を上げた。悲鳴が連鎖し、次々と窓が開き、人々が通りに溢れ出す。子供が空を指差してはしゃぎ、犬が激しく吠え、馬が暴れて繋ぎ縄を引きちぎった。

 王都が、震えている。

 蛇が吼えた。

 それは音ではなかった。空気そのものの振動であり、建物の窓硝子が共鳴して震え、王都の鐘楼が意思を持つかのように鳴り始めた。ゴオン、ゴオンと、重々しい警鐘が夜空に響き渡る。

 白梟師団本部の尖塔に、凄まじい密度の水色の光が集まり始めていた。

「間に合わせる」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。自分自身にか、隣を走るエイにか、あるいは空の上で不敵に笑っているだろうあの女にか。

 蹄が力強く石畳を蹴り、王都の夜を真っ直ぐに駆け抜けていった。

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