39.森の主
助手が地面に這いつくばっていた。
白梟師団の紫は泥と煤にまみれ、顔色は蒼白を通り越して不気味な灰色に沈んでいる。周囲を旋回する光の魚たちが逃げ道を塞ぎ、巨大な蛇の影が助手の全身を飲み込まんばかりに覆っていた。恐怖に支配された男の歯が、ガチガチと音を立てて震える。
火をつけたのは、この男だった。その指先には焦げた魔力の残臭が漂っている。単独の犯行ではないはずだ。だが、実行したのは間違いなくこの手だ。
蛇が頭を下げ、カナをはのんびりとした足取りで助手に近づき、その場にしゃがみ込んだ。
助手が顔を上げた。目が合った瞬間、男の喉から引き攣った悲鳴が漏れる。カナの表情はいつも通りだった。にこにこと、穏やかで、のんびりとしていて、だからこそ、男は絶叫したのだ。あの瞳の奥にある底知れぬものを、至近距離で覗き込んでしまったから。
蛇が音もなく身を縮め、カナの背後にとぐろを巻いた。幻想的な光が助手の顔を青白く照らし出す。
メアが一歩踏み出した。行く手を阻んでいた根の壁は、いつの間にか音もなく地中に沈んでいる。道は開かれていた。
「カナ」
低い声だった。それは制止ではなく、自分がここにいるという宣言だった。メアの長靴が煤を踏み、カナの背中へと近づいていく。剣の柄を握ったまま。
カナは振り返ることなく手を振った。まるで「ついてこい」と促すかのように。
「一番偉い人に会いに行こう。お城にいけばいいのかな」
沈黙が落ちた。
カナの問いが夜の気配に浮かんだまま、誰も答えを返さなかった。騎士たちの顔には、それぞれ異なる感情が走っている。ビィは茫然とし、イーガは険しく眉を寄せ、ガルドは石のように固まっていた。
メアの顔は無表情だった。だが、その無表情の裏側をエイは読み取っていた。隊長の頭の中では、今この瞬間も幾つもの筋道が走り、潰れ、再び組み直されている。森に火を放った白梟師団の助手を引きずり、巨大な蛇を従えた森の主が王城に乗り込む。それは外交か、あるいは宣戦布告か、その両方か。
「城ではない」
短く、硬い声だった。メアがカナの隣に並び、焼け跡の向こうを見据える。
「白梟師団の本部だ。ヴァイルはそこにいる。城に行けば王の管轄になる。今はまだ早い」
エフィが剣を鞘に収めた。乾いた金属音が静寂を切り裂き、それが沈黙を破る合図となった。
「隊長の判断に同意します」
エイが歩み出た。穏やかな声とは裏腹に、その瞳は夜の底のように静まり返っている。
「ただし、条件があります。その蛇は街中では仕舞っていただけますか。王都の民が腰を抜かします」
カナの背後で、蛇が小首を傾げた。主人とまったく同じ角度で。光の魚たちは助手の周囲をぐるぐると回り続けている。男はもはや叫ぶ気力すら失い、白目を剥いて引きずられるがままになっていた。
「叩くなら頭からだよ。やめてほしければ、とめにおいで。君たちの仕事でしょう?見せ場だよ」
メアの目が見開かれた。
ほんの一瞬だった。黒い瞳を走った動揺は瞬きひとつで消え去ったが、エイは見逃さなかった。隊長が、その言葉に込められた意味を正確に理解した瞬間を。
叩くなら頭から。止めにおいで。
彼女は第三部隊に、自分を止める役目を与えようとしているのだ。森の主が王都に現れ、白梟師団を脅かす。それを食い止めるのが黒狼騎士団第三部隊であるという絵図。彼女をなんとか手中に入れようとする師団の目論見を、根底からひっくり返す構図だ。師団が招いた災厄を、騎士団が収める。政治的な力関係が一夜にして逆転する。
エイの唇が微かに開き、そして閉じた。彼もまたこの策の鮮やかさを瞬時に理解していた。
「ふざけるな」
低く、静かで、それでいて煮えたぎるような声だった。メアがカナの前に回り込み、正面から彼女を見下ろした。その黒い瞳には怒りが燃えている。策の巧拙などどうでもよかった。カナが自らを悪役に据えようとしていることに対する、剥き出しの拒絶だった。
「お前を討伐対象にしろと言っているのか」
カナがメアを見上げた。水色の光が二人の間でゆらゆらと揺れている。蛇が沈黙し、魚が動きを止め、森そのものが息を潜めた。
カナは笑っていた。あの、のんびりとした笑みで。だがメアには分かっていた。この女がどれほど穏やかに笑おうとも、その奥で何を差し出そうとしているのか。自分の立場を、評判を、安全を、その全てを賭け金として盤上に投げ出そうとしていることを。
メアの拳が震えていた。
「大丈夫だよ。君たちは君たちの仕事をしなさい」
不敵に笑う彼女の言葉に、重苦しい沈黙が続く。
夜風が灰を巻き上げ、水色の光の中に灰色の粒子が舞い踊った。誰も動けなかった。カナの不敵な笑みが、騎士たちの記憶を鋭い刃のように抉っていたからだ。
エイの剣を保持する手が、微かに下がった。瞳の奥で、あの日が蘇る。魔物を取り込んだ体に刃を向けた感触。刺し貫いた瞬間の手応え。そして彼女が消えた後の、何もない日々。春が来るまでの、息を吸うことすら億劫になるような空白の時間。
ビィの目は潤み、唇を噛んで必死に耐えている。イーガは顔を背け、頬を強張らせていた。
メアは動かなかった。
カナを見下ろしたまま、石像のように動かなかった。あの日、真珠の鼓動が止まり、蛇が消え、泉が枯れ、森が死んだ。そして、いなくなった。どこにもいなかった。それからの日々を、彼は誰にも語っていない。語るべき言葉を持っていなかったからだ。ただ機械的に任務をこなし、飯を食い、眠れない夜を積み重ねた。
また同じことをさせる気か。
「断る」
声が割れていた。それは冷静な隊長の声ではなかった。
「別の方法がある。お前が悪役を演じる必要はない」
メアの手が肩を掴んだ。強く、痛いほどに。黒い瞳が至近距離で彼女を射抜く。その目は怒りに満ち、そして怯えていた。もう一度あの空白を生きることへの、彼が決して認めないはずの恐怖が、剥き出しになっていた。
「二度とお前を斬らせるな。俺にも、誰にも」
蛇が身じろぎした。真珠色の体の上で水色の光が揺らぎ、魚たちがざわめき出す。森が主の感情に呼応するように、深く息を詰めている。カナの肩を掴むメアの手は、依然として震えていた。
「お姉さんに、まかせなさい」
落ち着いた言葉だった。
メアの眉間に深い皺が刻まれる。
お姉さん。この期に及んで?永い時を生きた存在が冗談を言う場面がここなのかと、メアの思考回路が一瞬だけ停止した。掴んだ肩の下で、カナの体は細くて小さくて、そして温かい。とてもではないが、王都を揺るがす策謀を巡らせている存在には見えなかった。
だが、目は笑っていた。自信に満ちた、揺るぎない瞳だった。




