36.森のしらせ
三日が過ぎた。
白梟師団からの音沙汰はない。沈黙が続くほどに宿舎の空気は密度を増し、騎士たちの本能は、これが嵐の前の不気味な凪であることを嗅ぎ取っていた。
四日目の朝、エイの元に実家から一通の書簡が届いた。
執務室で一人、ランティス家の紋章が刻印された封蝋を解く。現れたのは父の筆跡ではなく、長兄による実務的で無駄のない、鋭い文字列だった。
白梟師団が枢密院に対し、「王国領内における未登録の超常存在の管理権限」に関する法案の審議を請求したという。提出者の名は伏せられていたが、兄の情報網は、その裏にヘクター・ヴァイルの署名があることを掴んでいた。法案が可決されれば、師団は騎士団の管轄を蹂躙し、カナの身柄を合法的に強奪することが可能になる。
審議は早くて半月後。遅くとも、月が変わるまでには。
エイの金色の目が、書簡の最後の一行で止まった。兄はただ、一言だけ付け加えていた。
『手を打つなら今だ』
エイは書簡を畳み、懐へと収めた。古傷の残る左肩が疼く。それは肉体的な痛みではなく、穏やかな仮面の下で政治一家の血が冷たく研ぎ澄まされていく合図だった。
彼はこれまで、実家の権力を盤上で振るったことがない。家柄を利用することを嫌い、一介の騎士として生きる道を選んできた。
だが今、守るべきものがそこにある。
エイは羽根ペンを取り、白紙の便箋に向かった。宛先は三通。長兄、宰相府の書記官、そして枢密院に席を持つ伯父。指は一切の迷いなく紙の上を滑り、静寂に包まれた執務室には、インクが紙に乗せられる音だけが規則正しく響いた。
その時、カナの裸足の足音が廊下を通り過ぎていくのが聞こえた。のんびりとした足取りが遠ざかり、やがて消える。
エイのペンが一瞬だけ止まり、そして再び動き出した。書き終えた便箋を封じ、蝋を溶かす。実家の紋章を刻むことに、今日の彼は一切の躊躇いを持たなかった。
「やるべき時に、やるべき事を」
誰もいない部屋に、独り言が落ちた。言葉の苦味に頭が冴えていく。それは穏やかで、静かで、しかし鋼のような硬度を秘めた決意だった。
五日目の昼、メアは執務室でエイから報告を受けていた。
事態の推移を聞き終えても、メアの表情に揺らぎはなかった。ただ、机上の地図を凝視する彼の、ペンを握る指の関節が白く浮き上がっている。
「法案が通れば、拒否権はなくなるな」
「はい。ですが、兄からの返書がすでに届いています。宰相府の書記官も動いてくれました。枢密院の審議に持ち込まれる前に、手続き上の不備を指摘して差し戻す余地がある、と」
メアが顔を上げ、エイの金色の目を真っ直ぐに見据えた。
この副官が何をしたのか。何を代償に差し出したのか。言葉を交わさずとも理解できた。家の名を使ったのだ。一介の騎士として生きる決意を曲げてまで。
「……すまない」
「何がです?」
エイは微笑んだ。いつもの穏やかな笑みだったが、その奥にはメアにしか読み取れない不動の覚悟が据わっていた。
「差し戻しは時間稼ぎに過ぎません。ヴァイルは必ず別の手を打ってくるでしょう。根本的な対策が必要です」
「案があるのか」
「一つだけ。カナさんに、王国における正式な法的地位を与えることです。保護対象でも管理対象でもなく、一個の存在として権利を認めさせる。前例がないわけではありません。三百年前、当時未開の地とされた南の蛮族が王国と条約を結んだ記録が枢密院の書庫に眠っているそうです」
メアのペンが止まった。
それはもはや御伽噺の領域に近い話だった。だが、その御伽噺の住人のような存在が、今まさに宿舎の厨房で芋の皮を剥いているのだ。前例があるのなら、それを使わない手はない。
廊下の向こうから、ビィの明るい声と、カナののんびりした返事が聞こえてくる。何かを落として割ったのか、イーガの短い舌打ちがそれに続いた。
それは何気ない日常の音だった。この音を、守り抜かねばならない。
「やれ。必要なものは全て用意する」
「承知しました」
エイが一礼し、踵を返そうとしたその背に、メアが声をかけた。
「エイ」
「はい」
「家に顔を出せ。礼くらいは直接言え」
エイの足が止まった。振り返った顔に一瞬だけ驚きが浮かび、それからふわりと柔らかく崩れた。
「……そうですね。そうします」
扉が閉まると、メアは椅子の背に体を預け、天井を仰いだ。黒い目が、古い木目の染みを無意識に数える。
半月。それが彼らに与えられた猶予だった。
その日の夕刻、カナは宿舎の裏庭にいた。
洗濯物を取り込む仕事を終え、畳んだシーツの山を抱えたまま、彼女は空を見上げていた。夕焼けが雲の腹を橙に染め上げ、沈みかけた太陽が石畳に長い影を落としている。
ふと、風が変わった。
カナの髪が揺れる。それは西からの風ではなく、東の森の方角から流れ込んできた湿った空気だった。土、苔、朽ちた葉。カナの鼻腔が親しんできたあの森の匂い。
だがその中に、一筋だけ、異質なものが混じっていた。
焦げた匂いだ。
カナの黒い瞳が、一瞬だけ揺れた。のんびりとした表情が消え、シーツを抱えた細い腕がぴたりと静止する。人間には持ち得ない感覚器官が、風に含まれた情報を読み取っていた。
森が、呼んでいた。
それは言葉ではない。泉を通じて伝わる微かな振動。木々の根が土の中で震え、地下を這う水が脈打ち、獣たちが巣穴に身を潜める気配。何かが森に入った。かつて森が追い出したものとは違う、別の何かが。
「シーツ持ちま……カナさん?」
裏庭の扉を開けたビィの声が途切れた。カナの横顔を見たからだ。いつものぼんやりした表情はそこになく、童顔の新米騎士は本能的に一歩後ずさった。目の前にいるのが、本当にあの厨房の女性なのか。一瞬、分からなくなったのだ。
風が止み、焦げた匂いが消えた。
カナの表情がふわりといつものものに戻る。彼女はシーツの山をビィに押し付け、にこりと笑った。
だがその裸足の爪先は、東を向いたままだった。




