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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第二章 森の子
35/75

35.遊ぶ魚

 ヘクターが立ち上がった。問答で得るものがなかった以上、測定こそが本命だったのかもしれない。灰色の目に、再び冷たい光が灯った。

「測定は簡易なものだ。接触は不要、痛みもない。ご同意いただけるなら」

 いつの間にか、ヘクターの背後で助手の一人が装置らしき物体を持って控えていた。据えられた紫色に透ける水晶が、無機質に日の光を反射している。

 メアがカナを見た。判断を委ねる目だった。口は出さない。だがその黒い目は、嫌なら断れ、と雄弁に語っている。ディートがここにいる以上、断る権利は最初から保証されているのだ。

 カナの黒い瞳が、メアの視線を受け止めた。それからヘクターに向き直り、にこりと笑った。

 あの、のんびりとした、いつもの笑みだった。

 何の前触れもなく、突如として水が溢れ出した。じわじわと、薄く、地面に広がっていく。水面は瞬く間に中庭の端まで到達し、見えない壁に跳ね返されたように、音を立てて小さく飛沫をあげた。そして、じわじわと上方へと、その水深を深めていく。

 中庭の石畳が、水の下に沈んでいった。

 それは、あの泉の水だった。冷たくもなく温かくもない、ただ在るという温度。どこからともなく際限なく湧き出している。足首を浸し、脛を浸し、音もなく水嵩を増していく。

「うわっ!」

 ビィが一つ上の石段に飛び乗った。イーガが舌打ちをしながら同じように避難する。ガルドが二人の襟首を掴んでさらに上へと引き上げ、エフィは無言で剣の柄に手をかけていた。敵はいない。斬るべきものなどどこにもない。それでも手が動くのは、染み付いた戦士の本能だった。

 ヘクターの紫衣の裾が水に浸かっていた。灰色の目が見開かれている。初めて、完全に、この男の仮面が剥がれ落ちていた。理解の及ばない事象を前にした、純粋な驚愕だった。

「止めろ。装置を止めろ!」

 補佐に怒鳴ったが、そもそも起動してすらいない装置を止める手段など最初からなかった。その装置は水に沈み、くすんだ紫色がおぼろげに見えるだけだった。

 水はとめどなく湧き続けている。

 メアの足元で、何かが銀色に輝いた気がした。水は既に膝に届こうとしている。黒い目がカナを見た。

 カナは椅子に座ったまま微笑んでいた。椅子の座面まで迫った水面の下で、足を揺らめかせている。裸足の指先が水を掻き、周囲に波紋が伝っていった。羽織った上着の裾が水面に広がっていることも気にしていない、のんびりとした顔だった。中庭が水没しかけていることなど、微塵も動揺していない。

 ディートが水を蹴って歩み寄り、豪快な水飛沫を上げた。

「嬢ちゃん」

 一言だった。低く、穏やかで、それでいて有無を言わさぬ響きがあった。カナの黒い瞳がディートを見上げた。

 ──ぽちゃん。

 水面で魚が跳ねた。ぽちゃん、ぽちゃん、と、あちこちで音が重なる。跳ねた魚が一匹、からかうように調査員たちの間を通り過ぎていった。

 ヘクターの足元を、銀色の鱗が掠めていく。

 筆頭調査官が慌てて飛び退いた。紫衣の裾が水を巻き上げ、体勢を崩しかける。名門の誇りも学者の矜持も、脛を魚に撫でられれば形無しだった。補佐の一人が腰まで水に浸かりながら、もう一人の襟を掴んで引き起こしている。記録用紙は、とっくに水底に沈んでいた。

 ビィが椅子の上から身を乗り出した。

「魚だ!魚いますよイーガ!」

「見りゃ分かる」

 イーガの声は素っ気なかったが、緑がかった目は驚きを隠せず水面を追っている。銀の魚たちが中庭を自在に泳ぎ回り、石畳の隙間を縫い、椅子の脚の間をすり抜けていく。そのうちの一匹がヘクターの足首に頭突きをかまし、筆頭調査官の顔が苦々しく歪んだ。

 ガルドが豪快に笑い声を上げた。もはや堪えきれなかったのだろう。エフィも剣を握る手を離し、代わりに口元を押さえている。その肩が激しく震えていた。

 ディートはカナを見下ろしたまま、動かなかった。水面は既に膝を越えようとしていた。靴の中はとうに浸水しているはずだが、その顔に不快の色はない。むしろ、その笑みが少しだけ柔らかくなっていた。

「嬢ちゃん、楽しそうなとこ悪いが、これ以上水嵩が増えると書庫が沈む。団長として、それだけは勘弁してくれ」

 カナの足元で、魚が一匹跳ねた。ぽちゃんと水面に戻り、くるりと円を描いてカナの足首に寄り添うように泳いでいる。それはまるで、飼い主の帰りを喜ぶ犬のようだった。

 メアは膝まで水に浸かったまま、カナの隣に立っていた。剣の柄にも手をかけず、怒鳴りもせず、ただ黒い目でカナを見ている。その目には諦めに似た何かが浮かんでいた。この女は、こういう存在なのだ。人の枠になど収まらない。収める必要もない。それを今、白梟師団の筆頭調査官が骨の髄まで思い知らされている。

 ヘクターの灰色の目は、もう笑っていなかった。驚愕も消えていた。持ち込んだ装置が使われることなく水没し、ただただ魚が泳ぎ回るこの超常の光景を、冷徹な眼差しの奥で反芻しているかのようだった。

 その目が、カナの首筋にある赤い痕を捉えた。それからメアの横顔を射抜くように見る。そして、何かを決意したように、薄い唇が引き結ばれた。

 カナは足を水面に浸したまま、小さく首を傾げた。

 ただ、それだけの動きだった。

 不意に、水が引き始めた。音もなく、抵抗もなく、静かに呼吸を吐き出すように。水嵩が膝から脛へ、脛から足首へ、そして足首から石畳の隙間へと吸い込まれていく。魚たちは最後にもう一度だけ跳ね、銀の鱗を陽光にきらめかせてから、水とともに消え去った。後には、砕けた水晶の欠片だけが、濡れた石畳の上に散らばっていた。

 魚たちが水を撒き散らしたおかげで、全員がずぶ濡れだった。ディートの靴からは水が溢れ出し、ビィは石段から降りて靴の中を確認し、顔をしかめた。イーガの髪が額に張り付き、ガルドは犬のように頭を振って周囲に飛沫を撒き散らした。エフィだけは、濡れた赤毛を片手で絞りながら、何事もなかったかのような澄ました顔をしていた。

 ヘクターは立ち尽くしていた。紫衣が水を吸って重く垂れ下がり、丹念に撫でつけられた灰色の髪が崩れ、額に一筋貼りついている。筆頭調査官としての威厳は、文字通り水に流されていた。

 だが、その目だけが異様なほどに乾いていた。嘘のように水の引いた中庭を視線が一巡する。

「……本日の調査はここまでとする」

 声は平静だった。それが逆に、この男の底知れなさを物語っていた。彼は補佐二人を促し、砕けた水晶の回収すら指示することなく、踵を返す。紫衣から水滴が滴り、石畳に点々と跡を残した。

 門に向かう背中が、一度だけ止まった。振り返ることはしなかった。だが、僅かに見えたその横顔には険しい色が混じっていた。

「黒狼騎士団に、協力への感謝を」

 感謝。その一語が、中庭の湿った空気に重く沈んだ。礼を言われる筋合いなどない。だがヘクターは確かにそう言った。この男が持ち帰るものは、もはや記録ではない。自分の目で見た光景そのものだ。水晶を砕く力、中庭を水没させる力、それを鼻歌でも歌いそうな顔で収めてしまう存在。その全てが、彼の灰色の目の奥に焼き付いている。

 重々しい音を立てて門が閉じた。

 沈黙が落ちた。

「……さて」

 団長が片足立ちで靴を履き直しながら、カナを見た。その顔には、呆れと感嘆、僅かな憂慮が混ざり合っていた。

「嬢ちゃん、信者でも増やしたいのか?」

 カナがメアを見上げた。にこにこと、花が咲くような笑みを浮かべて。

「十分いるから、いらないよ」

 メアもまたずぶ濡れだった。黒髪が額に張り付き、騎士服からは水が滴り、靴の中で足が不快な水溜まりに浸かっている。その状態で、彼は腕を組み、仏頂面のままカナを見下ろしていた。

 沈黙が三拍続いた。

「……着替えろ。風邪を引く」

 仏頂面の眉が僅かに下がっていた。

 ビィが靴を脱ぎながら、小さく呟いた。

「すごかったなぁ……」

「魚に体当たりされた調査官の顔な」

「そこじゃないよ!まあ、その、全部……」

 ビィの語彙が追いつかず、両手をばたばたと振って必死に言葉を探している。イーガが呆れた顔で肩を竦めたが、その口元は微かに緩んでいた。

 ガルドが濡れた上着を絞り、豪快に笑った。

「あの調査官、しばらく魚の夢を見るだろうな」

 エフィが濡れた赤毛を絞り終え、カナの隣を通り過ぎた。足を止めず、目も合わせず、ただカナの頭を一度だけ撫でた。それだけで、彼女の気持ちは十分に伝わった。

 エイがメアの傍に歩み寄った。左肩を庇う動きが、今日は少しだけ軽い。メアを見上げ、穏やかに微笑む。

「ずいぶん見せつけていましたね」

「……うるさい」

 言葉の鋭さとは裏腹に、メアの手がカナの肩にそっと置かれた。濡れた指先が、その小さな肩を一度だけ力強く握る。よくやった、とは言わなかった。この騎士の辞書に、そんな器用な台詞は載っていない。だが、掌から伝わる温度が、全てを語っていた。

 中庭に風が吹き抜けた。濡れた石畳が陽光を反射し、散らばった水晶の欠片がきらきらと光を放つ。魚が泳いだ痕跡はもうどこにもない。ただ空気だけが、ほんの少しだけ、深い森の泉の匂いを残していた。

 ディートが濡れた靴の感触を確かめるように石畳を踏み締め、空を見上げた。

「ヴァイルは引かんぞ」

 独り言のような呟きだった。だが、メアの耳には確実に届いていた。団長の精悍な顔に刻まれた皺が深くなっている。あの男が感謝と言い残して去った意味を、ディートは正確に読み取っていた。

 今日はただの偵察だ。本当の戦いは、これから始まるのだ。

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