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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第二章 森の子
37/74

37.里帰り

 シーツの山に埋もれて目を丸くしているビィを後に、カナの裸足がぺたぺたと石畳を踏む。裏庭から廊下へ、宿舎の奥へ。歩調はいつも通り、のんびりと、急ぐ様子もない。

 彼女の足は厨房を素通りし、奥へと進む。そして、メアの執務室の前で止まった。

 扉の向こうからは、紙を捲る乾いた音が聞こえる。メアはまだ仕事を続けていた。窓から差し込む夕焼けの光が、カナの影を扉の上に長く伸ばす。

 カナがノックをするより早く、中から声が響いた。

「入れ」

 足音で分かったのだろう。この宿舎で裸足なのはカナだけだ。革靴でも軍靴でもない、素足が床を打つ微かな音を、メアの耳は既に聞き分けていた。

 扉を開けると、メアは机に向かったまま羽根ペンを走らせていた。橙の光が彼の黒髪を縁取っている。インク壺の隣にはエイの書簡が開かれ、机上には見慣れない古い資料が積み上げられていた。

 メアのペンが止まる。顔は上げないまま、鋭い視線だけがカナを捉えた。

「どうした」

 短い問い。だが、そこに含まれた警戒心は尋常ではなかった。カナの足音がいつもと微妙に異なることを、彼は既に拾い上げていた。

 ペンが置かれ、メアは椅子の中で向き直った。黒い目がカナの表情を読み取ろうとする。

「ちょっと、里帰り」

 メアの椅子が鳴った。

 立ち上がったのではない。座ったまま、体が激しく前に傾いだ。転がったペンがインク壺の縁に当たって止まる。その目は、冷静沈着な隊長のものではなかった。

「理由を言え」

 それは命令だった。短く、硬く、拒絶を許さない響き。だがその奥底には、メア自身すら気付いていない焦りが滲んでいた。

 里帰り。森に戻るというのか、この時期に。白梟師団が牙を剥いている最中に彼女が宿舎を離れれば、何が起きるか。護衛のない場所で捕捉される危険、騎士団の保護下から外れるリスク。そして何より、二度と戻ってこないのではないかという懸念。

 メアの指が強く机の縁を掴んでいた。

 二人の間に、夕焼けの橙色の帯が引かれている。カナの瞳の奥にあるものを、メアは必死に探った。のんびりした顔の下に、明確な意志が座っている。

 窓を叩いた東風に、メアも僅かに顔を顰めた。人間の鼻では焦げた匂いまでは届かない。だが、カナの表情の変化は、彼にとって何より雄弁な警報だった。

 ただ首を傾げて、メアを見つめる。それはいつもの、害のない小動物のような仕草だった。だがその沈黙が、メアの背筋に冷たい戦慄を走らせた。

 何も言わないのではない。言葉にする必要すら感じていない。森の主にとって、帰還は呼吸と同じ。なぜ息を吸うのかと問われているようなものなのだ。

 だが、メアは騎士だ。

 椅子が後ろに弾かれた。立ち上がった影がカナを覆う。

「一人では行かせない」

 それは交渉ではなく、決定事項の宣言だった。メアの手が壁の剣帯へ伸び、慣れた動作で腰に巻く。装備を整える金具の音が室内に硬く響いた。

 黒い目がカナを見下ろしている。怒りでも心配でもない、もっと根源的な感情。生涯知らずに済むはずだった、守るべきものを手放すことへの恐怖が、無表情の奥で牙を剥いていた。

「支度に要る時間は」

 カナはちらりと森の方角を仰ぎ見た。

「いま」

「エイ」

 声を張り上げる必要はなかった。扉が開くと同時に、廊下を歩いていたエイが足を止めた。偶然ではない。カナが執務室へ向かった時点で、副官は異変を察知し、近くに控えていたのだ。

「お供は何名で」

 問い返しも確認もない。エイは静かにカナの顔を一瞥し、次いでメアの剣帯を見て全てを理解した。

「足の速い者で先に立つ」

「では、エフィと自分を。後発はビィとイーガ、ガルドに預けます。団長への報告は出立前に」

「任せる」

 エイが踵を返した。穏やかな足取りながら、廊下を駆けるより速く遠ざかっていく。角を曲がる寸前、彼は一度だけ振り返った。

「カナさん」

 金色の目が夕陽を受けて琥珀のように輝く。

「森のことは分かりません。ですが、貴女の帰る場所はここにもあります。それだけは、覚えていてください」

 言い終えるが早いか、エイの背中が消えた。廊下に残響だけが溶けていく。

 メアがカナを見た。剣帯に手を添えたまま、その視線はエイの言葉と同じことを、より不器用に、より切実に語っていた。

 窓の外で東風が唸る。焦げた匂いは、もう人間の鼻にも届きかけていた。

 カナがメアの袖を掴んだ。

 小さな手。洗濯物を畳み、魚を呼び、中庭を水没させた手が、騎士服の袖をきゅっと握りしめる。言葉はなかったが、メアの喉が微かに動いた。

 理由はそれだけで十分だった。

 支度は迅速だった。エイが戻った時、背後には武装したエフィがいた。赤い髪を高く結い、長剣を背負い、軽鎧を纏っている。説明を受けた様子もなく、エイの顔を見た瞬間に全てを察し、装備を整えてきたのだ。

 正門の前には、三頭の軍馬が鼻息を荒くして待機していた。

 ディートが不敵に笑う。

「夜道だ、無茶はするな。……嬢ちゃんを振り落とすなよ」

 メアは答えず、一頭の黒馬の鞍に手をかけた。慣れた動作で一息に跨る。鎧と鞍が擦れる硬い音が夜の闇に響いた。

 メアが鞍の上から手を差し伸べた。カナがその大きな手を取ると、羽毛のような軽さで彼女の体は宙を舞い、メアの腕の中、鞍の前方へと引き上げられた。メアの腕が囲むように手綱を握りる。

「しっかり掴まっていろ」

 メアの低い声が、カナの耳元で響く。

「……行くぞ!」

 メアの鋭い号令とともに、三頭の蹄が石畳を爆ぜさせた。

 火花が散り、夜の静寂が真っ二つに裂かれる。

 宿舎の門を駆け抜けた一行は、藍色の闇が支配する街道へと躍り出た。

 前方には、黒々と横たわる東の森。

 その上空には、もはや隠しきれない不穏な赤い光が、薄らと雲を染め始めていた。焦げた匂いが、風に乗って本格的に彼らの鼻を突き刺す。

 カナの黒髪が風に舞い、メアの頬を打つ。

 馬の背の振動、風の咆哮、そして背後から伝わるメアの力強い心音。

「里帰り」にしては、あまりに激しく、あまりに騒がしい旅路が始まった。

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