37.里帰り
シーツの山に埋もれて目を丸くしているビィを後に、カナの裸足がぺたぺたと石畳を踏む。裏庭から廊下へ、宿舎の奥へ。歩調はいつも通り、のんびりと、急ぐ様子もない。
彼女の足は厨房を素通りし、奥へと進む。そして、メアの執務室の前で止まった。
扉の向こうからは、紙を捲る乾いた音が聞こえる。メアはまだ仕事を続けていた。窓から差し込む夕焼けの光が、カナの影を扉の上に長く伸ばす。
カナがノックをするより早く、中から声が響いた。
「入れ」
足音で分かったのだろう。この宿舎で裸足なのはカナだけだ。革靴でも軍靴でもない、素足が床を打つ微かな音を、メアの耳は既に聞き分けていた。
扉を開けると、メアは机に向かったまま羽根ペンを走らせていた。橙の光が彼の黒髪を縁取っている。インク壺の隣にはエイの書簡が開かれ、机上には見慣れない古い資料が積み上げられていた。
メアのペンが止まる。顔は上げないまま、鋭い視線だけがカナを捉えた。
「どうした」
短い問い。だが、そこに含まれた警戒心は尋常ではなかった。カナの足音がいつもと微妙に異なることを、彼は既に拾い上げていた。
ペンが置かれ、メアは椅子の中で向き直った。黒い目がカナの表情を読み取ろうとする。
「ちょっと、里帰り」
メアの椅子が鳴った。
立ち上がったのではない。座ったまま、体が激しく前に傾いだ。転がったペンがインク壺の縁に当たって止まる。その目は、冷静沈着な隊長のものではなかった。
「理由を言え」
それは命令だった。短く、硬く、拒絶を許さない響き。だがその奥底には、メア自身すら気付いていない焦りが滲んでいた。
里帰り。森に戻るというのか、この時期に。白梟師団が牙を剥いている最中に彼女が宿舎を離れれば、何が起きるか。護衛のない場所で捕捉される危険、騎士団の保護下から外れるリスク。そして何より、二度と戻ってこないのではないかという懸念。
メアの指が強く机の縁を掴んでいた。
二人の間に、夕焼けの橙色の帯が引かれている。カナの瞳の奥にあるものを、メアは必死に探った。のんびりした顔の下に、明確な意志が座っている。
窓を叩いた東風に、メアも僅かに顔を顰めた。人間の鼻では焦げた匂いまでは届かない。だが、カナの表情の変化は、彼にとって何より雄弁な警報だった。
ただ首を傾げて、メアを見つめる。それはいつもの、害のない小動物のような仕草だった。だがその沈黙が、メアの背筋に冷たい戦慄を走らせた。
何も言わないのではない。言葉にする必要すら感じていない。森の主にとって、帰還は呼吸と同じ。なぜ息を吸うのかと問われているようなものなのだ。
だが、メアは騎士だ。
椅子が後ろに弾かれた。立ち上がった影がカナを覆う。
「一人では行かせない」
それは交渉ではなく、決定事項の宣言だった。メアの手が壁の剣帯へ伸び、慣れた動作で腰に巻く。装備を整える金具の音が室内に硬く響いた。
黒い目がカナを見下ろしている。怒りでも心配でもない、もっと根源的な感情。生涯知らずに済むはずだった、守るべきものを手放すことへの恐怖が、無表情の奥で牙を剥いていた。
「支度に要る時間は」
カナはちらりと森の方角を仰ぎ見た。
「いま」
「エイ」
声を張り上げる必要はなかった。扉が開くと同時に、廊下を歩いていたエイが足を止めた。偶然ではない。カナが執務室へ向かった時点で、副官は異変を察知し、近くに控えていたのだ。
「お供は何名で」
問い返しも確認もない。エイは静かにカナの顔を一瞥し、次いでメアの剣帯を見て全てを理解した。
「足の速い者で先に立つ」
「では、エフィと自分を。後発はビィとイーガ、ガルドに預けます。団長への報告は出立前に」
「任せる」
エイが踵を返した。穏やかな足取りながら、廊下を駆けるより速く遠ざかっていく。角を曲がる寸前、彼は一度だけ振り返った。
「カナさん」
金色の目が夕陽を受けて琥珀のように輝く。
「森のことは分かりません。ですが、貴女の帰る場所はここにもあります。それだけは、覚えていてください」
言い終えるが早いか、エイの背中が消えた。廊下に残響だけが溶けていく。
メアがカナを見た。剣帯に手を添えたまま、その視線はエイの言葉と同じことを、より不器用に、より切実に語っていた。
窓の外で東風が唸る。焦げた匂いは、もう人間の鼻にも届きかけていた。
カナがメアの袖を掴んだ。
小さな手。洗濯物を畳み、魚を呼び、中庭を水没させた手が、騎士服の袖をきゅっと握りしめる。言葉はなかったが、メアの喉が微かに動いた。
理由はそれだけで十分だった。
支度は迅速だった。エイが戻った時、背後には武装したエフィがいた。赤い髪を高く結い、長剣を背負い、軽鎧を纏っている。説明を受けた様子もなく、エイの顔を見た瞬間に全てを察し、装備を整えてきたのだ。
正門の前には、三頭の軍馬が鼻息を荒くして待機していた。
ディートが不敵に笑う。
「夜道だ、無茶はするな。……嬢ちゃんを振り落とすなよ」
メアは答えず、一頭の黒馬の鞍に手をかけた。慣れた動作で一息に跨る。鎧と鞍が擦れる硬い音が夜の闇に響いた。
メアが鞍の上から手を差し伸べた。カナがその大きな手を取ると、羽毛のような軽さで彼女の体は宙を舞い、メアの腕の中、鞍の前方へと引き上げられた。メアの腕が囲むように手綱を握りる。
「しっかり掴まっていろ」
メアの低い声が、カナの耳元で響く。
「……行くぞ!」
メアの鋭い号令とともに、三頭の蹄が石畳を爆ぜさせた。
火花が散り、夜の静寂が真っ二つに裂かれる。
宿舎の門を駆け抜けた一行は、藍色の闇が支配する街道へと躍り出た。
前方には、黒々と横たわる東の森。
その上空には、もはや隠しきれない不穏な赤い光が、薄らと雲を染め始めていた。焦げた匂いが、風に乗って本格的に彼らの鼻を突き刺す。
カナの黒髪が風に舞い、メアの頬を打つ。
馬の背の振動、風の咆哮、そして背後から伝わるメアの力強い心音。
「里帰り」にしては、あまりに激しく、あまりに騒がしい旅路が始まった。




