32.小さなかいじゅう
「じゃあ、挨拶しに行こうか」
事情を聞いた第一声がそれだった。
こともなげにそう言ったカナの言葉を聞いた瞬間、メアの眉間の皺は過去最深を記録した。
執務室の空気が一気に凍りつく。エイの微笑みも一瞬だけ固まったが、すぐに何事もなかったかのように元の柔らかな表情へと戻った。副官という生き物は、こういう時にこそ真価を発揮するものだ。
「却下だ」
メアが即答した。その反応は、書簡を握り潰したときよりも、速い。
しかし、カナは石段に座っていたときと同じような顔で、きょとんとメアを見上げている。自分の提案の何が問題なのか、本気で分かっていない目だ。悠久の時を森で過ごしてきた存在にとって、白梟師団が繰り広げる政治的駆け引きなど、蟻の巣の勢力争いほどの重みもないのだろう。
「でも、来るんでしょ?なら、私が行った方が早いよ」
理屈としては正しい。恐ろしいことに、純粋な道理だけで言えば一分の隙もない。調査対象が自ら出向けば、相手が調査団を派遣する名目は消滅する。だがそれは、カナという存在を白梟師団の目の前に無防備に差し出すことと同義だった。
メアの顎が固く引き締まり、こめかみに血管が浮き出た。この女は自分の価値を分かっていない。いや、分かった上で気にしていないのか。どちらが厄介かと問われれば、間違いなく後者である。
長年の副官としての本能がエイを動かし、彼は一歩前に出た。
「カナさん、お気持ちは有難いのですが、白梟師団は学術調査を建前にしています。こちらから出向けば、それは交渉ではなく投降に見えてしまいます」
子供に言い聞かせるような、噛んで含める丁寧な口調だった。カナの黒い瞳がエイに向き、それから再びメアへと戻る。メアは腕を組んだまま、いっそ石に刻んで飾っておきたいほど険しい顔をしていた。
窓の外では、夕暮れの鴉が鳴いている。中庭からはビィのくしゃみと、「風邪引くぞ」と珍しく素直に返すイーガの声が聞こえてきた。そんなありふれた日常の音。この平穏を、また魔術師たちが掻き回しに来るのだ。
沈黙を破り、メアが口を開いた。
「お前はここにいろ。守ると言った」
短く、不器用な言葉だった。だが、その奥底に、あの泉での掠れたような声と同じ熱が滲んでいることに、エイは気づいていた。カナがそれに気づいているかは分からない。この浮世離れした泉の主が、人の心の機微に聡いのか、鈍いのか、未だに測りかねるところがあった。
「大丈夫だよ。そんなに心配なら、みんなで一緒に行こうよ」
再び沈黙が落ちた。
メアの組んでいた腕が僅かに緩み、鋭い黒い目が細められた。カナの言葉を、隊長としての頭が冷徹に咀嚼し始めたのだ。感情を脇に置いて、戦術として。
衆人環視。公の場であれば、白梟師団も手荒な真似はできない。カナに何かあれば証人が山ほどいる。調査の名目で連れ去ることも、密室での尋問も不可能になる。協力的な姿勢を見せれば、対象が非協力的だから強制措置が必要だという論法を、始めから封じることができる。
悔しいことに、これ以上ないほど筋が通っていた。
エイも同じ結論に辿り着いたのだろう。金色の瞳がメアを射抜き、メアもまたエイを見た。二人の間で、言葉にならない会話が一瞬で交わされる。
「……場所は騎士団の敷地内。立会人に団長と第三部隊。調査内容の事前開示を条件に加えれば、師団側も呑まざるを得ないかと」
エイの声は穏やかだったが、その裏では既に書面の文言を組み立て始めている気配があった。宰相一家ランティス家の五男である彼は、剣だけでなく政の言葉遣いも血肉として知っている。白梟師団相手の交渉文書など、実家の食卓での会話に比べれば絵本のようなものかもしれない。
メアは黙ったまま腕を組み直し、カナを見下ろしていた。黒い目の奥で、隊長としての理性と、一人の男としての感情が激しく殴り合っている。理性が辛うじて勝利を収めたのは、カナの瞳があまりにも凪いでいたからだ。怖がってもいないし、虚勢を張っているわけでもない。ただ泉の水面のように、静かに澄んでいる。
この女は本気で、何も恐れていない。
「……一つ条件を追加しろ」
「はい」
「俺が隣にいる。常に」
エイは深く頷いた。書面にどう記すかは後で考えればいい。調査対象の警護として第三部隊隊長が同席。公的な文言に直せば、ただそれだけのことだ。しかし、その一文にどれほどの私情が詰め込まれているかは、この部屋にいる三人だけが知っていればいい。
カナが、のんびりとした笑みを浮かべた。
「ちょっかいかける気になれないくらい、思いっきり見せつけよう」
エイが咳払いをした。それは彼の副官人生において、最も盛大で、かつ必死な咳払いだった。
メアの表情からは一瞬、完全に感情が消失した。理性と感情の殴り合いの場に、第三の乱入者が飛び込んできたような顔だ。この女は、白梟師団の正式な調査という場を、何だと思っているのか。
「……何をする気だ」
低く響いた声は、怒りではなく、むしろ恐れに近いものだった。メア・グレンダンは魔物の群れに囲まれても眉一つ動かさない男だが、カナの思いつきが戦場よりも予測不能であることを骨身に染みて理解していた。
カナは答えず、ただにこにこしている。その笑顔が何より恐ろしかった。
エイは窓の方を向いたまま、肩を微かに震わせている。笑いが漏れ出たのは副官としてあるまじき失態だが、今日ばかりは許されたい。金色の目に薄く浮かんだ涙は、左肩の痛みのせいだということにしておく。
「では、書面を整えます。団長への説明は明朝でよろしいですか」
「……ああ」
「カナさん、当日は何か必要なものはありますか」
エイの実務的な問いの中には、純粋な好奇心がちらついていた。森の泉の主が、白梟師団の魔術師どもの前で一体何を見せつけるのか。騎士としては不謹謹だが、人間として興味が勝ってしまう。
中庭からは、再び木剣の音が聞こえてきた。ガルドが、自主練を始めたビィとイーガを追い立てている。日常は回っていく。
その日常の中に、とんでもないものが一つ紛れ込んでしまった。紛れ込んで、芋を剥き、花を届け、今度は白梟師団を手玉に取ろうとしている。
メアは額に手を当てた。頭痛がする。
だが、引き出しの中に仕舞った花の匂いがふわりと鼻をくすぐり、指の間からカナの笑顔が覗いたとき、彼の中から怒鳴る気力はどこかへ蒸発して消えていった。




