31.いつもの日常
黒狼騎士団の朝は、早い。
日の出とともに訓練場からは木剣がぶつかり合う乾いた音が響き、ガルドの地を這うような怒号が宿舎の窓硝子を震わせる。
「何をやっている、腰が浮いているぞ!」
打ち込みを受け損ねたビィが派手に尻餅をつき、それを見たイーガが鼻で笑う。だが、その直後にはガルドの大きな平手がイーガの後頭部を容赦なく張り倒していた。
毎朝繰り返される見慣れた光景だ。あの凄惨な夜を越えても、彼らの日常は変わらなかった。変わった点があるとすれば、二人の足捌きが以前より僅かに鋭くなったことと、互いの背中を庇う間合いが、意識せずとも自然に取れるようになったことだろうか。
厨房ではエフィが静かに茶を淹れていた。立ち上る湯気の向こう、板間の隅には裸足の娘、カナが座っている。
彼女は今、芋の皮を剥いていた。その手つきは驚くほどにのんびりとしていて、一つ剥き終えるのに普通の人が二つ剥くほどの時間をかけている。エフィは急かすこともなく、ただ無言で剥き終わった芋を一つずつ受け取り、鍋の中へと放り込んでいく。
二人の間に会話はほとんどなかったが、厨房を包む空気は不思議なほどに穏やかだった。
そこへ、エイが片手で書類の束を抱えてやってくる。左肩は強張っているが、彼は右手一本で茶を受け取り、手際よく書類を捌き、新米騎士の質問に淀みなく答え、さらには隊長の機嫌までをも正確に伝えていった。器用な男というのは、たとえ腕一本でも器用なままなのだ。
一方、メアは執務室にいた。
彼はいつも通り、眉間に深い深い皺を寄せて報告書に目を通している。だが、その机の引き出しが少しだけ開いており、そこから一輪の小さな白い花が顔を覗かせていた。昨日までは青い花だった。その前は黄色。誰が毎朝その花を届けているのか、今や宿舎の全員が知っていて、そして全員が知らないふりをしていた。
廊下を通りかかったディートが、すれ違いざまにメアの肩を軽く叩く。
「いい顔になったな」
メアの眉間の皺が一層深くなった。何のことだ、と言わんばかりの険しい表情だったが、ディートは既に背を向けて歩き去っている。
ディートは陽気に口笛を吹いていた。団長の機嫌がいい日は、宿舎の飯が一品増える。そんな賭けが、時に当たったり、時に外れたりしていた。
昼下がり、カナがふらりと中庭に出てきた。訓練を終えたばかりのビィとイーガが頭から水を浴びているそばで、彼女は石段に腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げた。
ビィが顔の水を拭いながら、明るい声を出す。
「昼飯食べました?今日のシチューもすごく美味しかったです。カナさんが剥いた芋は、なんだか格別な感じがします」
カナの芋剥きは遅いが、その仕事は妙に丁寧だった。剥き身の形が綺麗に揃っている。その仕事振りを認められ、いつの間にか芋担当はカナの定位置となっていた。
イーガが水を被りながら、横目でカナの様子を窺う。目つきの悪さは相変わらずだが、出会った頃の刺すような警戒心は消え失せていた。そこにあるのは、自分でも持て余しているような、ぶっきらぼうで不器用な親しみだった。
穏やかな午後だ。こんな日が、この先いつまでも続くのではないかと思えるほど。
だが、メアの執務机には、今朝届いたばかりの書簡が一通、封を切られないまま置かれていた。梟の紋章が、重々しく紫の蝋に窪みを作っている。。それは、白梟師団から届けられた正式な書面だった。
春の風が窓から吹き込み、書簡が机の上を僅かに滑る。
メアはその書簡を、昼を過ぎても開こうとはしなかった。
彼は午後の執務を淡々とこなし、エイが持ってきた茶を飲み、訓練報告に目を通した。ビィの剣術評価書には、いつもより丁寧な所見を書き加えた。その間もずっと、梟が机の端で彼を待っていた。封蝋の紫が、引き出しからのぞく白い花の色と、皮肉な対照を成している。
日が大きく傾いた頃、メアはようやくその封を切った。
中に記された文面は短かった。形式張った言葉の奥に、シールに似た独特なねちっこさが透けて見える。行間に滲む執念じみた感情。穏やかな文体の中に、容赦のない刃を仕込む書き方。メアは同じものを、かつてあの泉で直接目にしている。
要旨は簡潔だった。
『森林区域に出現した巨木について、白梟師団は正式な調査権を主張する。先の調査が不完全に終了したことを鑑み、新たな調査団の派遣を予定している。調査対象には、巨木そのもの、泉、それらに関連する一切の存在を含む。貴殿らの協力を求める』
一切の存在。
メアの指が、無意識に紙の端を握り潰した。白い紙に深い皺が走る。白梟師団の紋章の上を、騎士の力強い指の跡が横切った。
「エイ」
低く呼ぶと、扉の向こうで足音がぴたりと止まった。呼ぶ前から、そこで待っていたのだろう。ノックもなく扉が開き、エイが書簡を一目見て察した表情で歩み寄る。
メアが無言で紙を差し出すと、エイはそれを受け取り、一字一字を精査するように読み進めた。金色の瞳が一行ずつ追い、最後の行に達したところで僅かに細められた。
「シールは地方へ異動されたはずですが」
「名前がない。師団としての通達だ。仮に関わっているとしても、表には出ないようになっている」
「……厄介ですね」
エイが口にした厄介という言葉には、書簡の内容以上の重みが込められていた。白梟師団の調査権は、実質的に王命に準ずる。騎士団がこれを正面から拒めば、それは王への反発と紙一重の行為となる。相手はそれを熟知しているのだ。
泉で火傷を負い、森から追い出され、職権濫用の末に異動させられた男の後釜が、今度は正規の手続きという鉄の鎧を纏っている。組織という巨大な傘を利用して。
メアは椅子の背に深く体を預け、天井を見上げた。引き出しからは、白い花の涼やかな匂いが微かに漂っている。
「団長に上げろ」
「それだけで宜しいですか」
エイの問いに、メアの視線が天井から降り、まっすぐに部下を射抜いた。その黒い瞳には、かつての冷徹な光が戻っている。それは紛れもなく、一隊を率いる隊長の目だった。だが、その奥底には、冬の間には決して見られなかった熱が灯っている。守るべきものを明確に定めた男の、揺るぎない熱だ。
「俺の女に手を出すなら、相応の覚悟をしてもらう」
エイは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。
それから、すべてを飲み込んだように穏やかな微笑を浮かべた。




