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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第一章 森の主
30/74

30.帰ろう、一緒に

 メアの唇が動いた。

 音にならなかった。一度、二度、形だけが作られて消える。カナの黒い瞳がそれを見上げている。急かすでもなく、待つでもなく、ただそこに在るという顔で。泉の水がメアの腰のあたりで小さく波打った。

「……壊した」

 ようやく出た声は、謝罪でも説明でもなく、告白だった。喉の奥から石を吐き出すような響き。メアの手がカナの頬から離れ、拳を握った。水面に雫が落ちる。

「お前の家を。俺の剣で」

 短い言葉だった。メアにはそれ以上の飾り方が分からなかった。冬の間、引き出しの真珠に触れるたびに胸を食い荒らしていた事実が、たった二つの言葉になって落ちた。報告書には書けなかった言葉。

 カナの髪から雫が一つ、泉に戻った。ぽちゃん、と小さな音が、沈黙を縫った。

 巨木の枝で小鳥が首を傾げている。森の夜気が二人の間を抜けていく。蘇ったばかりの若葉の匂いが、冬の記憶を少しずつ押し退けていた。

 メアは目を逸らさなかった。この女の前で目を伏せることは、剣を捨てるより難しく、それでいて剣を振るうより怖かった。

「戻してくれたでしょ? ありがとう」

 メアの呼吸が、一拍止まった。

 戻した、と言われた。壊したのではなく。奪ったのではなく。戻したと。この女は、今、そう言ったのか。

 メアの頭の中に、報告書の文字が蘇った。泉の消失。森の死。周辺地域の異常。自分がやったことの結果を、事実として書き、読んだ。それが全てだった。それ以外の解釈など、考えもしなかった。あの泉を潰したのは自分だという認識だけを、ずっと抱えてきた。

 だが今、目の前の泉は蘇っている。森は芽吹き始めている。真珠は底で光を灯し、水は透き通り、白い花が揺らいでいる。

 戻せたのだろうか。本当に。

 メアの視界が滲んだ。

 泉の水のせいだ、と言い訳できる程度に、ほんの僅か。メア・グレンダンは物心ついて以来、人前で泣いたことがない。涙腺というものが自分には欠けているのだと、半ば本気で思っていた。

 欠けてなどいなかった。蓋が固かっただけだ。それを、この泉の主はいとも容易くこじ開ける。

 メアは顔を背けた。乱暴に袖で目元を拭う。騎士団長が見たら盛大に笑うだろう。副官が見たら何も言わず茶を淹れるだろう。どちらもこの場にいなくて、本当によかった。

「……礼を言うのは、俺の方だ」

 背を向けたまま、声が落ちた。短く、硬く、不器用で、けれど確かに。

「お礼なんていいよ」

 クスクスと笑いながら、カナは言った。

「君の女、なんでしょ」

 シールに言った言葉を森から聞いてでもいたのか、蒸し返される。

「そうだな」

 メアもまた笑った。

 エイは木の幹にもたれたまま、目を閉じていた。泉から届く会話の断片は聞こえていたが、聞かないふりをする技術なら副官として十分に磨いてある。ただ、笑い声が聞こえたとき、金色の目が薄く開いた。

 メア・グレンダンが笑っている。

 エイはその音を、記憶の引き出しを片端からひっくり返しても見つけられなかった。低く、少し掠れた、不慣れな音。錆びた蝶番を無理にこじ開けたような、ぎこちない響き。

 エイは目を閉じ直した。口元が僅かに緩んでいる。左肩がずきりと痛んだが、今はそれすら心地よかった。

 泉では、メアがようやく振り返っていた。目元はまだ赤い。袖で拭った痕が頬に残っているが、もう隠す余裕すらないのか。カナを見下ろす黒い目には、あの報告書の文字のような冷たさは欠片もなかった。

 蘇った森の夜は、驚くほど静かだった。静かで、それでいて満ちている。

「……帰るぞ」

 ぶっきらぼうだった。その一言が「どこへ」を含んでいることは、カナにも伝わったはずだ。宿舎へ。あの騒がしい厨房と、賑やかな新米と、穏やかな副官と、飄々とした団長がいる場所へ。

 メアの手が、今度は迷わずに差し出された。

 小さな手が、差し出された掌に収まった。

 水の中から引き上げる。それだけのことに、メアは妙な慎重さを発揮した。ぎこちない手つきで、泉の縁までカナを導く。濡れた黒髪が月光を受けて銀の筋を引き、足元の水面に波紋が広がった。

 斜面を登る途中、カナの足が濡れた土に滑った。メアの手が咄嗟に腰を支える。そのまま、離さなかった。

 縁に辿り着くと、エイが木の幹から背を起こして待っていた。左肩を庇いながら、それでもきちんと姿勢を正し、カナに向かって右手を胸に当てる。騎士の礼だった。

 「お待ちしておりました」

 その声は、いつも通り丁寧で、穏やかで、どこまでも実直だった。冬を越えたことも、左肩の傷も、あの夜の厨房のことも、何一つ滲ませない微笑み。

 森が息をしていた。枯死していた木々の間を夜光が通り抜け、若葉を揺らしている。月明かりの下、三人の影が森の道に伸びる。

 馬が待っている場所まで、歩いて少しかかるだろう。二頭で三人。エイは当然のように計算を始めていた。隊長とカナを一頭に乗せ、自分がもう一頭。左肩が悲鳴を上げているが、まあ、何とかなるだろう。

 今夜は何とかなる夜だ。











いったん完。お付き合いありがとうございました。楽しんでもらえたなら嬉しい。


次章

無口な騎士と森の娘。なんだかんだで公認カップルになる2人の話。

※4/30冒頭31-32を夜投稿

※5/1〜1日2エピ朝夜投稿

※5/10は3エピ朝昼夜投稿でいったん完

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