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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第一章 森の主
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29.春の産声

 小さな手だった。メアの指を掴み、引き上げる。力は弱い。だが方向だけは確かだった。その手に導かれるまま、メアの体が浮上する。水面を割って顔が出た瞬間、肺が勝手に空気を吸い込み、咳が止まらなかった。

「隊長!」

 窪地の縁からエイが叫んでいた。だがメアの意識は、まだ水中に残された右手の感触に向いていた。指を掴んでいた小さな手は、もう離れている。水面に波紋だけが残り、広がり、消えた。

 泉がそこにあった。

 窪地を満たした水は、もう暴れてはいなかった。穏やかに凪ぎ、縁まで湛えられた透明な水面に、とっくに暮れた空が映っている。中央で真珠が沈んでいく。ゆっくりと、底へ。その軌跡に沿って、乳白色の光の筋が水中に溶けていった。

 メアは胸の高さまで浸かったまま、右手を見つめている。指先に残る感触が消えない。冷たくもなく、温かくもない、あの手の感覚。

 泉の底で、種から伸びた芽が揺れていた。白い茎が水中で伸び、双葉を開こうとしている。その周囲を、沈んだ真珠の光が照らしていた。

 森は、まだ枯れたままだった。炭化した木々が泉の周囲で骸を晒している。だが泉に一番近い一本の根元に、メアは見た。黒ずんだ幹の裂け目から覗く、針の先ほどの緑。

 芽吹き。

 ほんの微かな。それでも確かな。

 メアは水の中に立ち尽くしていた。

 目の前で起きていることが、現実の速度を無視していた。泉の底から伸びた芽は双葉を広げる間もなく幹となり、水面を突き破り、メアの頭上を追い越し、なおも天を目指して太くなっていく。白い樹皮が螺旋を描きながら空へ伸び、枝が四方に腕を広げた。葉が開く音がした。一枚、十枚、百枚。数えることを諦めるほどの緑が、星の瞬く空を覆い隠していく。

 巨木の根が泉の底を這い、縁を越え、枯死した森の地面に潜り込んだ。その根が触れた場所から、炭化した幹に緑が走る。苔ではない。幹そのものが息を吹き返している。ひびの入った樹皮が剥がれ落ち、その下から瑞々しい木肌が覗く。一本、また一本。泉を中心に森が蘇っていった。

 小鳥が鳴いた。

 どこから来たのか分からない。枯れた森に鳥はいなかったはずだ。だが巨木の枝に一羽、灰色の小鳥が止まり、春を告げるように囀っている。その声に応えるように、もう一羽。また一羽。

 エイは窪地の縁で、片膝をついたまま言葉を失っていた。金色の目に映る光景が、あまりにも理の外にあった。戦場で命を預け合ってきた男が水に浸かり、その周囲で森が生き返っている。騎士の訓練にこんな状況への対処法はない。

 水が引き始めた。

 泉の水嵩が、メアの胸から腹へ、腹から腰へと穏やかに下がっていく。巨木の根が水を吸い上げているのか、あるいは泉そのものが本来の深さに落ち着こうとしているのか。メアの足が底の土を巻き上げた。水浸しだったが、冷たさは感じなかった。

 透き通った水面に、巨木の白い幹と新緑の葉が映っている。真珠は見えなかった。底に沈んだのか、巨木に取り込まれたのか。メアの右手が、無意識に水面に触れた。

 波紋が広がった。

 その波紋が返ってきた場所に、泡が一つ、浮かんだ。ぽこり、と間の抜けた音を立てて。

 水面がぽこぽこと泡立ち、巨木の根の隙間から黒い髪が揺らめきながら浮かび上がってくる。頭のてっぺん、額、閉じた瞼、鼻先。まるで湯船から顔を出すような暢気さで、その顔が水面を割った。黒い瞳が開き、目の前に立つ水浸しの騎士を見上げて、きょとんと瞬いた。

「おはよう」

 メアは動けなかった。

 声も出なかった。冬を越え、春を迎え、枯れた森を見て、真珠の鼓動に駆られてここまで来た。その全てが、目の前の寝起きのような顔に集約されている。肩まで泉に浸かったカナは、季節が一つ丸ごと消し飛んだことなど気にも留めていない様子で、濡れた髪を首の後ろに払った。

 おはよう、と言った。おはよう、だ。

 エイが窪地の縁で小さく息を吐いた。安堵とも呆れともつかない、かすかな吐息だった。

「……夜だ」

 メアの声は掠れていた。喉が締まって、それだけ絞り出すのが精一杯だった。間違いなく、メア・グレンダンが生涯で口にした返答の中で、最も間の抜けたものだった。

 泉の水面に、小鳥の影が横切る。巨木の枝で囀りが続いている。蘇った森の夜気が、二人の濡れた肌に触れて緩く流れていった。

 メアの右手が持ち上がった。水の中で、カナの指に触れたあの手。まだ感触が残っている指先が、今度は水面の上で、カナの頬に伸びた。途中で止まり、震え、それでも引かなかった。

 温かかった。真珠のあの律動と同じ温度が、指先から掌に伝わってくる。幻ではない。水でもない。確かに、ここにいる。

 メアの指先がカナの頬に触れたまま、時間が止まったように凪いでいた。泉の水面に映る二つの影は、どちらも動かない。巨木の葉擦れと小鳥の囀りだけが、世界がまだ回っていることを教えてくれていた。

 メアの喉が動いた。何かを飲み込むように。あるいは、飲み込み損ねたように。黒い目が揺れている。この男の目がこんなふうに揺れるところを、エイですら数えるほどしか見たことがない。

 言葉を探していた。騎士として、隊長として、あの報告書に書かなかった全てを。泉を壊したこと。真珠を預かったまま冬を越えたこと。枯れた森を見て、何を思ったか。だがメア・グレンダンという男は、そういう言葉を持ち合わせていなかった。剣だけを磨いてきた男の語彙に、こういう場面の台詞は入っていない。

 だから、指先が代わりに語った。頬に触れた手が、濡れた黒髪を一筋、耳の後ろへ払う。不器用な手つきだった。戦場では迷いなく剣を振るう指が、こんなにもぎこちなく震えている。

 窪地の縁で、エイは静かに身を引いた。左肩が痛んだが、それを理由に背を向けられるのはむしろ有難かった。若々しい木の幹にもたれる。金色の目を閉じて、夜空を仰いだ。

「……お帰りなさい」

 小さな声だった。泉まで届いたかどうかも怪しい。届かなくてよかった。あれはメアが言うべき言葉だと、エイは分かっていた。

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