28.冬の面影
二人が宿舎の門を駆け出たとき、最後の陽光が王都の尖塔を赤く染めていた。春の風が冷たかった。メアの手の中では、真珠が沈黙している。
森の入口は、以前とは別物だった。
緑がない。芽吹きの季節だというのに、街道から見える樹冠は灰色に沈んでいた。枝が骨のように空を掻き、幹は黒ずんでひび割れている。馬が鼻を鳴らし、足を止めた。これ以上は進めないと、獣の本能が訴えていた。
二人は馬を降り、徒歩で森に踏み込んだ。
エイが鞘に手をかけたまま周囲を見渡す。鳥の声も、虫の羽音もない。風すら、この森には入りたがらないようだった。
メアの掌の中で、真珠が跳ねた。
文字通り、跳ねた。握り締めた指を押し開けようとするかのように、小さな球体が脈打ち、一定の方向へ引かれている。メアは掌を開き、真珠の導きに従って足を速めた。
泉の跡地は、墓場だった。
乾いた土だけが残っている、と報告書にはあった。嘘ではない。だが文字は匂いを伝えない。病んだ甘い匂い。かつて透き通った水を湛えていた場所には、黒く乾いた土が割れ、周囲の木々は幹の芯まで炭と化し、触れてもいないのに一本、また一本と音もなく崩れ落ちていた。
森が死んでいるのではなかった。森を生かしていたものが、なくなったのだ。
メアの足が止まった。泉があった縁。真珠が掌の中で激しく震えている。熱い。冬の間の沈黙が嘘のように、小さな球体が叫ぶように脈打っていた。
そして、メアは見た。
乾いた土の中央に、何かがある。黒い土に半ば埋もれた、小箱。
真珠が、メアの手を振り切った。
革紐が指の間をすり抜け、真珠が宙を跳ぶ。放物線を描いて落ち、乾いた土の上を転がり、小箱のそばへ。淡い光が灯る。蛍火ほどの、頼りない燐光。
真珠を中心に、水が湧き出した。
「……隊長」
エイの声が掠れていた。湧き出た水が何か、あるいは誰か、エイにも分かっていた。だがメアはもう聞いていなかった。ただ身を躍らせ、駆け寄っていた。
水は少なかった。
掌で掬えば零れ落ちる程度の量が、真珠の周りに薄い膜のように広がっているだけだった。あの泉の面影はどこにもない。透明ですらなく、濁った乳白色の水が、ひび割れた土に端から吸い込まれて消えていく。真珠の燐光が明滅を繰り返し、そのたびに水が僅かに増え、また減った。呼吸のように。あるいは、脈のように。
メアは膝をついた。黒い土が騎士服の膝を汚す。構わなかった。真珠に手を伸ばし、その周囲に広がる水に指先が触れた。
冷たくも温かくもなかった。指先に触れた水が、逃げもせず、纏わりつきもせず、ただそこに在る。その感触をメアは知っていた。あの日触れた指先。浮世離れした、どこか途方もなくのんびりとした気配。
小箱が目に入った。土に半ば埋もれた木箱は、腐食した森の中で不自然なほど損なわれていない。
メアの手が小箱に伸びた。真珠の燐光が、一瞬だけ強く瞬いた。
「隊長、慎重に」
エイの声が届いた。左肩を庇いながら慎重に近づく足音が、乾いた土を崩す。木の感触の下に、微かな振動がある。真珠と同じ鼓動。
蓋は抵抗なく開いた。中には、元は一つの首飾りだったのだろう、粒の揃ったいくつもの真珠。その中に埋もれるように隠れた種が一つ。
手のひらに乗せた何の変哲もない種。真珠の光がそれを照らした瞬間、種が震えた。小さな水たまりを作る真珠の表面で、乳白色の雫が一滴、伝い落ちる。メアを導いた真珠が湧かせた最後の水だった。
種が割れた。
殻の隙間から、白い根が一本、土に向かって伸びていく。メアは手を引くことも忘れて見つめていた。ひび割れた黒い土に根が触れた瞬間、ごぼりと音がした。
水が、湧いた。箱の中の真珠から。伸び続ける種の根に呼応するように、真珠から染み出し、地面を潤していく。メアの膝を、腰を、冷たい水が一気に浸した。透明な水だった。濁りのない、あの泉と同じ。
水が、メアを呑んだ。
膝まで届いた水嵩が一瞬で胸を越え、頭上を塞いだ。抗う暇もなかった。脆い土地が崩れて器となり、噴き上がる水がそれを満たしていく速度は、人の足で逃れられるものではなかった。メアの体が浮き、水中で反転する。上下の感覚が消えた。目を開けた。透明な水の中で、真珠が眩い光を放っていた。
息が続かない。
肺が焼けるように訴えている。水面を探して腕を伸ばしたが、どちらが上かも分からない。視界の端が暗くなり始めた、その時。
指に、何かが触れた。




