27.鼓動
報告書は三枚だった。
メア・グレンダンの几帳面な筆跡が、騎士団標準の書面に過不足なく並んでいる。森林区域における魔物消失の経緯、白梟師団所属魔術師シールによる職権濫用の詳細、同所属エジェの正体発覚と討伐の記録。事実だけが、感情を削ぎ落とした文体で綴られていた。
書かれなかったことの方が、遥かに多い。
ディートは執務室の椅子に深く腰を沈め、三枚目を机に置いた。窓の外では、秋の陽が騎士団宿舎の中庭を斜めに照らしている。訓練場から木剣の打ち合う音が聞こえた。日常が、何事もなかったかのように回っている。
「シールの処分は白梟師団の管轄だ。こっちから手は出せん」
飄々とした声だった。だがディートの目は報告書ではなく、目の前に立つメアの顔を見ていた。精悍な顔つきの奥で、何かを測るような視線が動いている。
メアは微動だにしなかった。黒い目が団長の視線を真正面から受け止めている。その胸元、鎧の下に真珠が沈黙したまま収まっていることに、ディートは気付かないふりをした。泉が消えたことも、そこに住んでいた誰かのことも、報告書には書かれていない。そういうことだ。ディートがかつて、第三部隊に混じり、腹にたまるミートパイを泉の主に捧げたことなど、どこにも記されていない。そういうことだ。
メアの唇が薄く開き、そして閉じた。
沈黙。ディートはそれを読み取れる男だったし、読み取った上で追及しない男でもあった。椅子が軋む音がして、団長が立ち上がる。
「エイの肩、治るまで二か月はかかるそうだ。新人二人はよくやった。エフィとガルドにも伝えておけ」
労いとも命令ともつかない口調で言い、ディートはメアの横を通り過ぎた。扉に手をかけ、振り返りもせずに付け加えた。
「森に用があるなら、次は一人で行くなよ」
扉が閉まった。
メアは一人、執務室に残された。窓からの陽光が報告書の上に四角い光を落としている。三枚の羊皮紙に書かれた任務は、これで完了する。騎士団の記録としては、ただそれだけの話だ。
メアの手が、無意識に胸元に触れた。鎧越しに、真珠の小さな膨らみを指先が探り当てる。あの夜、刃に燐光を灯したときの熱は、もうどこにもない。エフィと合流してからも、半壊した宿舎を見た後も、部屋という部屋を手当たり次第探した時も、小さなしこりのように胸元に収まっているだけだった。
カナは消えた。泉と共に。あるいは泉として。報告書は書かない。カナのために。
中庭からビィの声が聞こえた。イーガと何か言い合っている。木剣の音。ガルドの怒鳴り声。日常だ。戻ってきた、ありふれた日常。
メアは真珠から手を離し、執務室を出た。
季節が一つ、過ぎた。
冬が騎士団宿舎を白く塗り替えた。中庭の訓練場に積もった雪を、新米騎士たちが毎朝交代で掻き出すのが日課になった。ビィは文句を言わず、イーガは舌打ちをしながら、それでも二人とも欠かさず朝一番に現れた。あの夜を越えた二人の剣筋には、以前にはなかった芯が通っていた。ガルドはそれを褒めなかったが、訓練の後に出す茶の量が倍になったことで、弟子たちへの評価は十分に伝わっていた。
エイの左肩は、軍医の見立て通り二か月で動くようにはなった。ただし以前のようには振れない。戦闘の代償は腱の深い部分に残った。エイ本人は何も言わなかったが、訓練場で右手だけの型を黙々と繰り返す姿を、メアは執務室の窓から幾度も目にしていた。
シールの処分は、白梟師団内部で静かに処理された。研究室の閉鎖と地方への異動。表向きは「任地変更」とだけ記され、騎士団側には通達の写しが一枚届いたきりだった。ディートはそれを読み、鼻で笑い、引き出しの奥に放り込んだ。
エフィは相変わらずだった。任務をこなし、剣を磨き、ディートの執務室に茶を届けるときだけ、わずかに口元が緩む。あの夜、宿舎に戻ったとき厨房の惨状を見て一言、「私がやる」とだけ言い、崩れた壁と散乱した鍋を、夜通しかけて片付けた女だった。
第三部隊は、日常に戻った。ただ、前より笑うことが少なくなった。
メアの執務机の引き出しには、報告書に書かなかったものが一つだけ仕舞われていた。革紐に通された真珠。冷たく、沈黙し、ただの石のように光を失っている。時折、書類仕事の合間に引き出しを開け、指先で触れることがあった。温もりを探すように。
冬の終わり、森の調査報告が届いた。
魔物の痕跡は完全に消失。泉のあった場所には、枯れた大地だけが残っている。新しい芽吹きの兆候もなく、ただ土が乾いてひび割れているだけだと、調査隊の報告書は事務的に記していた。
メアはその報告書を読み終え、静かに閉じた。窓の外で、雪解けの雫が庇から落ちていた。春が近い。あの森にも、やがて。
真珠はまだ冷たいままだった。
春が来た。
だが森には来なかった。
騎士団に届く報告が、週を追うごとに不穏さを増していた。魔物が消えた森は、静かになるどころか、別の異変を見せ始めている。樹木の立ち枯れが泉の跡地を中心に広がり、その速度は季節の移ろいでは説明のつかないものだった。枯死した木々の幹は内側から炭化したように黒ずみ、触れると砕ける。鳥が寄りつかない。獣の足跡もない。森番たちは口を揃えて、死んでいる、と言った。森が、死んでいると。
辺境の村からも陳情が届くようになった。森に接する畑の作物が根づかない。家畜が森の方角を向いて鳴き続ける。
ディートの執務机に積まれる書類の山は、雪解けとともに嵩を増した。
「……厄介だな」
独り言だった。団長は報告書の束を指で弾き、窓の外を見た。中庭では新米たちが汗を散らしている。平和な光景だ。だがこの壁の外で、何かが静かに崩れ続けている。
その日の夕刻、メアは装備の手入れをしていた。剣の刃を布で拭う手が、ふと止まる。引き出しの中で、何かが震えた。微かな振動。気のせいかと思うほどの。
メアは布を置き、引き出しを開けた。
真珠が艶めいているような気がした。
冬の間ずっと石のように沈黙していたそれが、掌に載せると仄かな輝きを返していた。光はない。声もない。ただ、心臓の鼓動に似た微かな脈動が、指先に伝わってきた気がした。生きている、とメアは思った。根拠はなかった。ただ、そう感じた。
日が沈みかける中、居ても立ってもいられず、メアは扉を蹴り開けた。真珠を握って。行かなければ、と思った。泉へ。
痛む左肩を庇うように歩いていたエイが、見たこともない必死な顔で走るメアとすれ違う。
「隊長」
一言で足を止められる人間は、この宿舎に一人しかいない。メアの靴底が石畳を削って停止した。振り返った顔は蒼白で、黒い目が異様な熱を帯びていた。エイはその表情を見て、左肩の痛みを忘れた。
メアの右拳が白くなるほど何かを握り締めている。革紐の端が指の隙間から垂れていた。
エイには、それで十分だった。
「馬を二頭、出させます」
メアの唇が開きかけた。エイはそれを待たなかった。踵を返し、左肩を庇いながらも厩舎へ向かって走り出している。メアの言葉が追いかけてくる前に、エイは肩越しに一つだけ付け加えた。
「団長に、一人で行くなと言われたでしょう」
反論の余地を残さない、穏やかな声だった。メアも走った。エイを追い越し、厩舎へ。




