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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第一章 森の主
26/78

26.約束

 宿の窓辺に立ち、エジェは通りの向こうにある壁を眺めていた。巡回の騎士たちの足音が規則正しく石畳を叩き、やがて消えた。

 エジェの指が窓枠を掴んだ。爪の下から、人間のものではない黒い色が滲みかけて、すぐに引っ込んだ。

 飢えが、もう誤魔化しの利かない段階に来ていた。

 人間の食事では一滴たりとも満たされない空洞が、胃袋ではなく彼という存在の中心にぽっかりと口を開けているようだった。エジェの体は自分自身を喰い始めている。人の形を維持するだけで、残りの力が削れていく。

 あと何日保つか。三日か、五日か。それを過ぎれば、人の皮が綻びる。綻びれば、あの副官は見逃さないだろう。

 あの壁の向こうに、騎士たちの宿舎がある。廊下の先に、厨房がある。厨房の中に、あの気配がある。

 エジェの喉が、ごくりと鳴った。乾いた音だった。

「もう、無理だ」

 エジェの指先が変わった。

 爪の下から滲んだ黒が、今度は引っ込まなかった。指の第一関節まで、墨を零したように色が広がっていく。鏡があれば、赤い瞳孔が縦に裂けているのが見えただろう。

 エジェは窓枠に手をかけ、跳躍した。そこかしこから、寝静まる肉詰めの袋の匂いがして、喉が震えた。

 巡回の足音は遠い。エイの気配は、ここからでは測れない。だが確実にどこかにいる。

 構わない。

 飢えが思考を灼いていた。慎重さも計算も、腹の底で暴れる渇きの前では紙切れ同然だった。

 暗がりに潜み、嗅ぎ回り、廊下に出た。裸足だった。石の床が足裏に冷たい。エジェの感覚は一点に集中していた。厨房の方角。あの甘い、名前のない気配。

 角を一つ曲がった。

 二つ目の角の手前で、足が止まった。

 廊下の向こうに、人影があった。壁に背を預け、腕を組んでいる。月明かりが窓から差し込み、オレンジ色の髪を淡く照らしていた。

 エイだった。

 金色の目が、まっすぐエジェを捉えていた。待っていたのだ。最初から、この瞬間を。

「夜の散歩ですか、エジェ殿」

 穏やかな声だった。だが、腰の剣に添えられたエイの右手は、すでにその柄を硬く握り締めている。

 エジェは立ち止まったまま、笑おうとした。いつものように、にこやかな仮面を被り直そうとした。

 だが、頬の筋肉が動かない。

 人の形を維持する力は、もう笑顔にまで回らなかった。指先の漆黒が手首まで這い上がり、裸足の爪先からも同質の闇が滲み出している。月明かりの下、エジェの輪郭は水面に映った像が崩れかけるように、不自然に揺らめいた。

「それ以上は、通せません」

 エイの声からは敬語が消えていない。最後まで丁寧なのだ、この男は。剣を抜き放つ刹那ですら、礼節を手放さない。

 ――鞘走りの音が廊下に響く。澄んだ、短い金属音。

 エジェの喉から、人間のものではない音が漏れた。呻きとも嗤いともつかない、低く湿った振動。

「……わかってたよ。最初から、あんたは俺を通す気なんかなかった」

 口調が変わっていた。丁寧な皮は剥がれ落ち、その下から別の声が這い出してくる。もっと古く、もっと暗い、森の底で何百年も土を噛んでいたものの声。

 エジェの体が膨張を始めた。ローブの縫い目が無残に弾け、赤い短髪の下から黒い角が突き出る。人の皮が裂け、隙間から覗くのは鱗でも毛皮でもない。光を吸い込む影そのもののような、漆黒の表皮だった。

 廊下の壁が軋みを上げる。体積は倍近くに膨れ上がり、天井に頭がつき、石壁に肩が擦れた。その異形の中で、赤い瞳だけが微動だにせずエイを見据えている。

 エイは剣を正眼に構えた。呼吸を整え、重心を落とす。その心に恐怖はなかった。

「ビィ、イーガ。起きていますね」

 背後の扉が二つ、同時に開いた。

 ビィは剣を抜いた状態で飛び出し、イーガもそれに続く。訓練着の上から胸当てをつけただけの姿。顔は青白く強張っていたが、剣先に震えはない。ガルドに叩き込まれた構えが、思考より先に肉体を支配していた。

 廊下が、戦場に変わった。

 エジェだったものが咆哮する。それは声というより、空気そのものを振動させる圧力波だった。石壁を伝い、窓硝子に亀裂を走らせる。漆黒の体表から突き出た四本の腕が壁と天井を掴み、頭部には三つの赤い目が縦に並んで飢えを剥き出しにしていた。

 エイが先に動いた。正面から一閃。最も近い腕を狙う重く正確な一撃が、漆黒の表皮を抉り、黒い体液を散らす。だが断ち切るには至らない。腕が剣身を握り締め、力任せに薙いだ。エイの体が壁に叩きつけられる。

 石壁に背中が激突する鈍い音が響いた。エイは地面に膝をつきながらも剣を手放さず、口端の血を舌で拭った。

「二人とも、足を狙え。動きを止めろ」

 冷静だった。背骨の軋みを棚に上げ、エイは立ち上がる。巨体が災いし、エジェの腕は壁に阻まれて自由が利かない。

 ビィとイーガが低く駆け込んだ。二人の刃がエジェの脚部を捉え、浅くとも確実にその均衡を崩す。天井を掴んでいた腕が外れた。

 その隙を、エイは逃さない。

 壁を蹴って跳躍し、胸の中心を深く抉る。エジェが絶叫し、三つの赤い目が一斉にエイを睨んだ。残る腕がエイを掴もうと伸び、その爪がエイの左肩の肉を裂いた。

 だがエジェは、戦いを選ばなかった。三つの目は廊下の奥、厨房の方角を捉えている。

 巨体が、騎士たちをなぎ倒すように突進した。

 石壁が砕け、漆喰が剥がれ、松明の台座が弾け飛ぶ。飢えた獣の速度は肉体の限界を超えていた。

「追え! 厨房に入れるな!」

 血に濡れた剣を握り、エイが走る。

 一陣の突風のようなエジェの背。倉庫の木箱が紙のように吹き飛び、二枚目の壁が粉砕された。

「くそ、速い……!」

 イーガが破片を踏み越えるが、距離は開いていく。

 エイだけが、別の道を選んだ。

 直進するエジェを捨て、廊下を逆に折れる。厨房の正面入口、回り込んだ方が、わずかに速い。

 左肩から滴る血が、廊下に点々と赤い印を刻んでいく。

 厨房の扉を蹴り開けると、そこには竈の残り火が照らす静寂があった。

 その奥の扉の先に、カナの気配があった。

 背後の壁が膨らみ、最後の一枚が破られた。

 石材の破片と共に漆黒の巨体が這い出、三つの目が奥に続く扉を捉える。エイは厨房の中央に立ち、剣を構えた。床に溜まった水が、エイの血で赤く染まっていく。

 エジェの口腔が開いた。黒い液体が床を腐食させ、飢えた息遣いが部屋を満たす。

 エジェの目が、エイの肩越しに奥を覗こうとした。エイが半歩動き、その視線を遮る。

「こちらを見ろ」

 血を流し、逃げ場のない場所で、エイの声だけが凪いでいた。

 エジェが跳んだ。全体重を叩きつけようとするその刹那、エイは膝を折り、地を這うように懐へ滑り込んだ。

 エイの剣が、エジェの腹の下の何かを捉えた。

 両手で柄を握り直し、体重を乗せて押し込む。左肩が悲鳴を上げ、視界が白く飛ぶ。それでも、手は離さなかった。

 エジェが、落ちた。

 巨体が床に崩れ落ち、轟音と粉塵が厨房を呑み込む。

 よろめきながら後退するエイの前で、エジェの体はみるみる縮んでいった。角が砕け、赤い目が閉じ、床に横たわったのは、胸に穴の開いた赤い短髪の男だった。

 終わった、そう思った瞬間、エジェがにやりと笑った。

 エイの剣の切っ先が僅かに落ちたその隙に、人の形が崩れて霧となる。

 黒い霧が厨房を満たした. 輪郭を捨て、煙のように拡散したそれは、もはや剣では届かない。

 霧はエイを無視し、床を這い、天井を舐め、一点へと収束していく。

 カナのいる方角へ。

 エイの体が動いた。思考より先に、裂けた肩の痛みを無視して霧を斬る。だが刃は虚しく空を切るだけだった。

 霧が笑った。あのにこやかな目元の残像が靄の中にちらつく。

 壁の穴からビィとイーガが駆け込むが、二人の剣も霧には届かない。

 黒い靄は三人を嘲笑うようにすり抜け、仕込み部屋の扉へと集まっていく。

「斬れません……!」

 ビィの声が裏返る。エイは片手で剣を握り、壁に肩をぶつけながら通路を追った。

 通路の突き当たり、扉の前で黒い靄が渦を巻く。

 エイの足がもつれ、膝が石畳を打った。視界が明滅し、出血が限界に達しようとしている。

 霧が扉の隙間に触手を伸ばし、押し開けようとした。

 ――扉が開いた。内側から。

 エイが追いつく。朦朧としながら、扉との間に身を滑り込ませる。

 ふと、冷たい水の気配が背中を覆った。

 鼻先でエジェの霧が笑い、エイが力のない腕で剣を構える。その背中が、包まれた。

 薄く色付いた白い水がエイを包み、通り過ぎ、エジェの笑い声が止まった。

 水が霧を取り込む。霧に形を与えるように。水の中で、霧が暴れている。出せと、離せと。

 水が、そこに立っていた。

 人の形をしていた。真珠色の輪郭だけが月明かりと竈の残り火を受けて淡く揺らめいている。その内側で、エジェだった黒い霧が渦を巻き、のたうち、水面を叩いていた。水の檻。霧が触れるたびに波立つが、決して破れない。

 エイは石畳に膝をついたまま、目の前の光景を見上げていた。左肩から流れる血が、もう温かいのか冷たいのかも分からない。視界の端が暗く滲んでいく。だが、背中に触れたあの水の感触だけは鮮明だった。冷たくて、優しくて、森の泉に手を浸したときのような。

 カナの声が、頭の中で響いていた。迷っちゃだめだよと。

 人型の水が、エイを見ていた。目はない。顔もない。ただ、透けた真珠色の輪郭が、じっとこちらを向いている。その姿勢が、どこか似ていた。小首を傾げるような、のんびりとした佇まい。

 中の霧が絶叫していた。声にならない振動が水を伝い、廊下の壁を震わせる。出せ。離せ。喰わせろ。飢えた魔物の懇願が、水の膜を通して歪んで響く。

 エイは剣を握り直した。

 片手だった。左腕はもう動かない。立ち上がるのに、壁に体重を預けなければならなかった。膝が笑っている。視界が二重に霞む。それでも、剣の切っ先だけは真っ直ぐだった。

「ビィ、イーガ」

 背後から、二つの足音が駆けてきた。通路に辿り着いた二人が、目の前の光景に息を呑んで立ち止まる。人型の水。その中で暴れる黒い霧。壁にもたれ、片腕で剣を構える血塗れの副官。

 エイの金色の目は暴れるエジェを見据えている。

「迷うな」

 短い言葉だった。エイらしくもない、仮面を剥ぎ取った裸の声。その言葉に全てが込められていた。

 ビィの顔からは血の気が引いていたが、足は止まらなかった。イーガが隣で剣を構え直す気配を感じ、ビィも柄を両手で握り締めた。

 三本の剣が、人型の水に囚われた霧に向けられた。

 水の輪郭が、僅かに揺れた。今なら、届く。

 三人が同時に踏み込んだ。

 エイの一撃が最初に届いた。片腕の、力の残りかすを全て注ぎ込んだ突き。水の輪郭を貫通し、その内側で凝縮された霧を刃が捉えた。硬い手応えがあった。

 ビィが右から斬り込んだ。腰の回転が甘い。ガルドに何度も直されたはずの癖が顔を出していた。それでも刃は届いた。水の膜が霧を押し縮め、逃げ場を奪っている。ビィの剣が霧を削り取った。黒い破片が水の中に散る。

 イーガの一撃は遅かった。一拍分、兄に教わった通り、二人の刃が抜けるのを待った。斜に構えた姿勢から、下方に向けて振り抜く。ガルドの型だった。豪快さには欠けるが、芯を捉える正確さだけは兄譲りだ。

 三本の刃が霧を砕き、水の中で霧が弾けた。

 黒い飛沫が水の内壁を叩き、そのまま溶けるように薄れていく。墨を水に落としたときのように、濃い黒が灰色に、灰色が淡い影に、影が無に。エジェの絶叫が、最後に一度だけ通路を震わせ、および消えた。

 人型の水が、崩れた。

 支えるものを失った水が、ただの水に戻って石畳に広がっていく。ぱしゃり、と間の抜けた音が、戦いの終わりを告げた。

 通路に残されたのは、三人の荒い呼吸と、床を濡らす水溜まりだけだった。

 エイの膝が折れた。壁から背中が滑り、石畳に座り込む。剣が手から零れ、澄んだ音を立てて転がった。左肩の傷口から流れる血が、エジェだったものの水と混じり、薄い桃色の流れを作って通路の排水溝へと消えていく。

 ビィが駆け寄り、エイの肩を支えた。イーガが無言で自分の上着を脱ぎ、丸めてエイの傷口に押し当てる。二人とも口元が震えていたが、動きは止まらなかった。

 エイは天井を見上げていた。金色の目が、薄暗い石天井に揺れる竈の残り火を映している。唇が微かに動いた。

「……約束、守れましたかね」

 誰に向けた言葉なのか、ビィにもイーガにも分からなかった。エイの視線は天井の向こう、もっと遠いどこかを見ていた。

 通路の床に広がった水溜まりが、最後にひとつだけ波紋を立てた。風もないのに。そして、静かになった。

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