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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第二章 森の子
33/75

33.黒くて大きな狼のような虫

 翌朝、ディートの執務室に書簡と対応案が提出された。

 団長は椅子の背にふんぞり返り、エイが一晩で仕上げた書面を眺めた。整然とした言葉の節々に、ランティス家仕込みの毒針が丁寧に縫い込まれていることに、三行目で気づいた。口笛を吹きたくなるのを堪え、最後まで読む。

「公開調査、立会人付き、調査内容の事前開示、第三部隊隊長の常時同席。随分と可愛がってるな」

 メアは微動だにしなかった。ディートの目がその無表情を楽しげに覗き込み、何かを見つけたらしく、にやりと笑った。

「まあいい。白梟師団が騎士団の敷地内で調査をやるなら、こっちの流儀に従ってもらう。筋は通ってる」

 ディートは羽根ペンを取り、団長の署名を書面に走らせた。インクが乾くのも待たず、封蝋に紋章を押す。黒狼騎士団の狼が、赤い蝋の上に牙を剥いた。

「ただし、一つだけ」

 ディートの目から、飄々とした色が消えた。精悍な顔に刻まれた皺の一本一本が、歴戦の重みを帯びる。

「嬢ちゃんが危ないと思ったら、俺が止める。王命だろうが何だろうが、うちの敷地で客人に手を出す奴は叩き出す」

 それは団長としての発言ではなかった。

 メアが頭を下げた。深く、静かに。

 書簡は、その日のうちに白梟師団へ届けられた。


 返答は三日で届いた。

 条件を全て呑む。あまりにもあっさりとした返事だった。エイはその返書を読み、僅かに眉を寄せた。交渉とは、相手が抵抗するから成立するものだ。抵抗がないということは、この条件で構わないということ。つまり、公開の場でカナを調べても問題ない、あるいは公の場でこそ都合が良いと、師団側が判断したということになる。

 何を企んでいるのか、書面からは読めなかった。

 調査の日取りは、七日後。

 その七日も、あっという間に過ぎていった。

 カナは変わらず芋を剥き、花を届け、中庭の石段で空を見上げ、ビィの世間話に相槌を打ち、イーガの皮肉に首を傾げた。浮世離れした日常を、浮世離れしたまま過ごしている。迫る調査のことなど、明日の天気ほども気にしていない顔だった。

 周囲はそうもいかなかった。

 ガルドはビィとイーガの訓練を一段厳しくした。理由は言わなかった。だが厨房の方を見て木剣を握り直した背中が全てを語っていた。エフィは剣の手入れの回数が倍になり、ディートの執務室を訪れる回数が三度に増えた。三度目は偵察のようなものだったが、ディートは黙って受け入れた。

 エイは書類と根回しに奔走していた。左肩が疼くのを無視してペンを走らせる。立会人の選定、調査場所の設営、白梟師団側の調査員の身元確認。ランティスの名を使うことを普段は嫌うこの男が、実家に書簡を一通出した。内容は誰にも明かさなかったが、翌日、宰相府から騎士団宛に「黒狼騎士団の活動を注視している」という短い通達が届いた。師団が下手を打てば宰相の目に留まる、という無言の牽制だった。

 メアは、メアだった。執務をこなし、訓練を見回り、報告書を捌く。いつも通りの冷静な隊長。ただ一つ違うのは、夕刻になると必ず中庭に足を運ぶようになったことだ。石段に座るカナの隣に、黙って立つ。会話はほとんどない。ただ、同じ空を見ている。


 六日後、夕暮れの中庭で、メアは隣に座るカナを見ることなく、低く問いかけた。

「触れられるかもしれない。……大丈夫か」

 明日の調査。白梟師団の魔術師たちが検体を見るような目で彼女を眺め、その白い指先が彼女に触れる。それを公的な立場で黙認しなければならない。そんな想像が、冷静でいようとする心を裏側から鋭く削り取っていた。

 カナは膝を抱えたまま、のんびりと首を傾げた。

「触れる?こう?」

 自分の手首を軽く押さえて見せる。

「髪とか?」

「……全部だ」

 メアは吐き捨てるように言い、ようやくカナを視界に入れた。

 喉が干上がるようだった。指一本、髪一房ですら、自分以外の誰かがその領域に踏み込むことを想像するだけで、胃の底が焼けるように熱い。

「メアは、心配性だね」

 カナが笑い、メアの膝の上で固く握りしめられた拳に、そっと自分の手を重ねた。

 訪れる夜の気配に冷えた指先が、今のメアには熱い鉄を押し当てられたかのように感じられた。

 触れさせたくない。

 一隊を率いる指揮官としての冷静さを、その一念が塗り替えていく。メアは無言で立ち上がると、カナの手首を掴み、石段の陰、宿舎の壁へと彼女を追い込んだ。

 目を瞬かせるカナの細い首筋に、彼は逃げるように顔を埋めた。

 理性が、これ以上は危険だ、と警鐘を鳴らす。だが、明日の不安が、彼の中に眠っていた獣のような独占欲を煽り立てた。

 言葉で繋ぎ止める術を知らず、衝動のままに柔らかな皮膚を強く吸い上げる。本能のままに刻んだ印だった。

 カナの短い呼吸が耳元を打つ。メアはハッとして顔を上げた。

 夕闇のなか、カナの白い首元には、はっきりと、そしてあまりにも鮮やかに赤い痕が浮かび上がっていた。

 メアは息を呑んだ。戦場では一寸の狂いもなく剣を振るう男が、この未知の戦場においては、あまりにも加減というものを知らなかった。

「……すまない。これほど、残るとは」

 メアの声が微かに震えた。動揺を隠そうとしているが、目は泳ぎ、伸ばした指先はその痕に触れることもできず空を彷徨った。

 白い肌に咲いた、あまりにも生々しい赤。

 この中にも血が流れている。自分と同じように、熱を持った命が。人ではないと思っていた彼女の内に流れる赤が、今更のように彼を打ちのめした。

 カナは首元を指先でなぞって不思議そうにしている。彼女にとって、それは痛みでも情欲の証でもなく、メアが残した何か、だった。

「これで心配がなくなる?」

「……逆だ。これのせいで、俺が死ぬほど困ることになる」

 メアは片手で顔を覆い、深く項垂れた。大真面目な男が、その真面目さゆえに暴走した結果だった。

 明日、この痕を白梟師団の執拗な視線と、そして何よりエイの、わかっていますよ、というような慈愛に満ちた微笑みに晒すことになる事実に、今更ながら戦慄していた。

「……明日、首に何か巻け。頼む」

「なんで?」

 カナは、メアがなぜこれほどまでに狼狽しているのか、その本当の意味が分からない。ただ、彼が自分にしたことを、隠してしまうのは勿体ないと思っているだけだ。

 その無垢な視線に射抜かれ、メアは今度は首筋まで赤く染め、諦めたようなため息を漏らしたのだった。


 朝食の席は、地獄だった。

 少なくともメアにとっては。

 食堂に現れたカナは、案の定首に何も巻いていなかった。室内着の襟元から覗く鎖骨の上に、赤い痕が堂々と朝の光を浴びている。メアの視線がそこに吸い寄せられ、逸らされ、また戻り、また逸らされた。

 その往復を、エイがカップの湯気の向こうから静かに観察していた。金色の目は何も語らなかったが、口元が弧を描いていた。

「あ、カナさん、おはようございます!今日の朝食はパンがいつもより焼きたてで……」

 ビィの声が途切れた。カナの首元に気づいたのだ。茶色い髪の下の童顔が、見る見る耳の先まで茹で上がっていく。口がぱくぱく動いたが、音にならなかった。隣のイーガがビィの脇腹を肘で突き、何食わぬ顔でスープを啜った。

「虫刺されだろ」

「え、あ、うん、虫、虫ですよね……」

 誰も信じていない言い訳だったが、ビィはそれに縋った。溺れる者は藁をも掴む。イーガの横顔には薄笑いが浮いていたが、彼の緑がかった目は一度だけメアの方を見て、すぐに逸らされた。

 ガルドは何も言わずパンを口に運んでいるが、腰にあてた左手が叩く背中を求めてそわそわと動いている。

 エフィがカナの隣に座った。カナの首元を一瞥し、メアの耳を一瞥し、自分の茶を啜った。表情は微動だにしなかった。ただ一言、中途半端が一番反応に困る、と呟いた声は全員に聞こえていた。

「隊長、本日の段取りを確認してよろしいですか」

 救いの手が差し伸べられた。エイという男は、戦場でも食卓でも副官だった。メアが無言で頷く。その横顔から、ようやく赤みが引き始めていた。

「白梟師団の調査員は午後に到着予定です。場所は騎士団本館の中庭、立会人はディート団長、第三部隊全員。調査内容は事前に開示された通り、対象への魔力測定と問答のみ」

 エイの声が食堂に響く間、カナはパンを千切って口に運んでいた。のんびりと。どこか自信をのぞかせながら。

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