20.誇り
カナは三つ目の小皿を、まるでそう決まっていたかのように、迷いなくエイの前に差し出した。
エイは自然に手を伸ばした。鎧の金具が、かちりと小さく鳴る。
「……ありがとうございます」
礼を言う声が、いつもより少しだけ掠れていた。エイは干し杏をひとつ摘まみ、口に含んだ。噛むたびに広がる素朴な甘さが、乾ききった喉の奥へ沁みていく。
それから、エイは目を開け、姿勢を正した。声のトーンを切り替える。
「カナさん。先ほどの来客について、お聞きしたいことがあります」
エイの金色の目が、真っ直ぐにカナを見据えた。
「あの男は、先ほど仰ったとおり、森から逃れた魔物なのですね」
鍋がことことと煮える音が、沈黙の隙間を埋めていた。
エイは小皿をそっと調理台に置いた。
「率直にお聞きします。あの魔物が本気を出した場合、我々の剣で倒せますか」
その問いが厨房の空気を凍らせた。
カナの黒い瞳が、ゆっくりとエイを見上げた。
「君たちは、黒狼騎士団。魔物討伐専門の、第三部隊」
カナの声は、さざなみ一つ立たない泉のように穏やかだった。
「君たちが倒せなかった魔物は、いた?」
その問いは厨房の空気を一変させた。
壁に背を預けていたビィの顔が上がる。イーガの背筋が、一本の弦を張るように伸びた。二人の瞳に宿ったのは、恐怖の混じる緊張ではない。自分たちがこれまで積み上げてきた時間への自負だった。
エイは、すぐには答えなかった。
ただ、穏やかに鍋をかき混ぜるこの女性の瞳の奥を、深く覗き込んだ。そこには、煽りも、慰めもない。ただただ事実を口にするだけの平穏さがあった。
エイの胸の底で、何かが静かに、しっかりと噛み合った。
「……いいえ」
短い一語だった。しかしその声には、先ほどまでの焦燥が消えていた。エイは背筋を正し、鎧の胸当てに拳を当てた。騎士の礼だった。
「第三部隊に、倒せなかった魔物はおりません」
一切の揺らぎもないエイの真っ直ぐな瞳が、鏡のような静寂を湛えたカナの瞳を正面から見据えた。
「ただし、油断はしません。あの魔物について知っていることがあれば、教えていただけますか。備えは万全にしたい」
窓の外では、エフィが森へ向かって馬を駆っているはずだった。メアはまだ何も知らない。だが、ここにいる者たちの目は、もう怯えてはいなかった。
カナは、それまで動かしていた木匙をぴたりと止めた。立ち上る湯気が彼女の顔を覆い、表情が見えなくなる。
「君たちは、私のことだって殺せるよ」
空気が凍る。ビィが息を呑み、イーガの肩が跳ねる。カナの声は、明日の献立を語るように穏やかだった。だからこそ、その言葉は呪いのようにエイの心臓へ突き刺さった。
「……カナさん。それは、隊長が聞いたら怒りますよ」
エイの声が、ほんの一拍、途切れた。敬語の鎧の内側で何かが軋んでいる音がした。メアならばきっと怒鳴るだろうという確信と、彼がここにいないことへの焦燥。
「私が人の姿じゃなかったら、初めて会った時、君たちは私を殺していたと思う。今、あの魔物は人の姿をしてる。これからは迷っちゃだめだよ。君たちはあの魔物を倒す力があるんだから」
エイの脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇った。
中心に彼女がいた。剣を向けた自分たちを、恐れも怒りもなく、ただ不思議そうに見つめていた。メアは「確保しろ」と言った。「殺せ」とは言えなかった。人の姿をしていたからだ。
「……覚えています」
あの時の判断が正しかったのか、今もわからない。人の姿だったから捕らえた。それは裏を返せば、人の姿でなければ斬っていたということだ。
そして今、エジェは人の姿で街を歩いている。
迷っちゃだめだよ。その言葉が、エイの腹の底に沈んだ。カナという存在に、試されている感覚があった。
「……ご忠告、痛み入ります」
静かに頭を下げた。カナは何も言わず、木匙で煮込みを味見して、小さく頷いた。
「ビィ、イーガ。今日から、エジェと名乗る男に対して、一切の隙を見せません。敵意も恐れも。笑顔で接し、何も知らない顔を通してください」
エイはカナに向き直り、深く一礼した。
「お伝えいただき、感謝いたします。我々は、迷いません」
西日が赤く傾き、厨房の壁を茜色に染めていた。その中を、エフィがメアのもとへ急いでいる。間に合うだろうか。
誰もその問いを口にしなかった。不安が形を持ってしまうから。
「この煮込みはね、メアが作り方を教えてくれたんだよ」
エイの手が、椅子の背もたれの上で止まった。
「……あの鬼隊長が、エプロンでも着けてたのかよ」
イーガが茶化すように呟いたが、その目は笑っていなかった。
エイは黙ったまま、鍋に目を向けた。実直で、不器用で、必要なものだけを過不足なく差し出す。いかにもメアらしい匂いだった。
「……そうでしたか」
四年間、メアの隣に立ち続けて、まだ知らない顔があった。あの不器用な男が、カナにだけ見せた顔がある。その男が今、森の奥で敵の隣に立っている。
「隊長の煮込み、楽しみにしています」
エイの金色の目の奥には、決意が凝っていた。
必ず帰ってこさせる、と。あの男を、この食卓に。




