21.焚き火にくべた嘘
森は静かだった。
かつて瘴気に満ちていたはずの木々の間を、澄んだ風が吹き抜けている。苔むした幹に夕暮れの光が斜めに差し込み、地面に落ちる影が、馬の歩みに合わせてゆるやかに揺れていた。魔物の痕跡はどこにもない。あるのは、落ち葉の湿った匂いと、枝の上から侵入者を見下ろす小鳥たちの、黒い瞳だけだった。
メアの黒い目が、それを捉えていた。
小鳥が一羽、頭上の枝から飛び立ち、少し先の木に移った。まるで道案内をするように。あるいは、見張りの交代をするように。
「不思議ですね」
シールが馬上で紫色の長髪を払い、周囲を見回した。穏やかな声だったが、その目は学者のそれだった。観察し、分類し、利用価値を測る目。
「これほどの深部で、瘴気が一切ない。魔物の討伐ではこうはなりません。根こそぎ浄化されている。グレンダン隊長、あなたの部隊が来た時も、このような状態でしたか」
「……ああ」
メアの返答は、いつもどおり短かった。だが、その短さの中に、シールに渡すべき情報の量を精密に制御する意志があった。必要最低限。それ以上は、一言も。
シールは、その沈黙を気にする素振りもなく、革袋から小瓶を取り出した。馬を止め、近くの木の幹に手をかざす。紫がかった淡い光が指先から滲み、樹皮の表面を舐めるように走った。
「……興味深い。この木、生きていますね。ただの植物としてではなく、もっと根源的な意味で」
メアの指が、手綱を握る力をわずかに強めた。胸元の隠しポケットの中で、カナから預かった真珠が体温を帯びている。心臓のすぐ隣で、もうひとつの心臓が脈打っているような錯覚。
小鳥が、また一羽、枝を移った。今度はシールの方を向いている。小さな頭が傾き、黒い瞳が、魔術師の手元をじっと見つめていた。
メアの目が、その小鳥を追った。
頼まれたかのように。あるいは、本当に頼まれているのか。あの少女が、森に残した何かが、今もこうして息づいているのか。
答えを知る術はなかったが、胸元の真珠が、ほんのわずかに温かくなった気がした。
「今夜はこの辺りで野営しましょう。明朝、泉まで案内していただきたい」
泉。カナがいた場所。シールの口からその言葉が出た瞬間、メアの顎がかすかに引き締まった。この男は、何かを知っている。
「……了解した」
夕闇が森の底から這い上がり、木々の輪郭を少しずつ呑み込んでいく。
メアは馬を降り、手早く野営の準備を始めた。薪を集め、火打ち石を取り出す。シールに背を向ける瞬間、メアの手が一度だけ胸元に触れた。真珠の感触を確かめるように。
約束した。返すと。だから、必ず帰る。
シールの供二人は、少し離れた場所で測定器具の調整に余念がない。シールは彼らに指示を出し終えると、火の傍らに腰を下ろし、革装の手帳を膝に広げた。羽根ペンの先が、淡い魔力の光に照らされて走る。
「グレンダン隊長。食堂で働いているあの女性について改めてお聞きしたい」
薪が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、メアの黒い目を一瞬だけ赤く照らした。
「雑用だ」
「ええ。ただの雑用。簡潔で結構。ただ、少々簡潔に過ぎるきらいがありますね」
シールの声は絹のように滑らかだった。探っているのだ。糸の端を見つけて、そっと引いてみる、あの手つき。
メアは枝を折り、火にくべた。
「付け加えることはない」
「そうですか」
シールは微笑んだ。今はこれ以上引いても出てこないと判断した顔だった。手帳を閉じ、羽根ペンを置く。
「では質問を変えましょう。この森の力は、通常の浄化とはまるで性質が違います。魔物が討伐されたのではなく、排除されている。まるで森そのものが免疫機構として機能したかのように。このような現象を、あなたは見たことがありますか」
メアの表情は動かなかった。火を見つめたまま、沈黙を盾にしている。
「……鳥が多いですね、この森は。夜行性でもないのに、眠らない」
「森だからな」
シールは小さく笑った。それ以上は追わなかった。この男の頭の中では、すでにいくつかの仮説が組み上がりつつあり、明日の泉が、その最後のひとピースになるという確信があるのだろう。
メアは毛布を引き寄せ、背を木の幹に預けた。眠るつもりはなかった。枝の上の小鳥たちが、シールではなくメアの方を向いて、静かに目を閉じた。
「そういえば、部下が木を蹴り飛ばした時、頭上から若枝が大量に降り注いだのを見た。枯れ枝じゃない。新芽の出た若い枝だ。これは同じ森の免疫機能とみることはできるか?」
嘘には真実を織り交ぜるものだ。本当は、カナに剣を向けたメアに、森が怒って枝を降らせたのだ。
シールの羽根ペンが、閉じたばかりの手帳の上で止まった。紫色の目が、炎越しにメアを射抜く。
一拍の沈黙。それから、シールは再び手帳を開いた。
「若枝、ですか。枯れ枝ではなく」
その声に、初めて純粋な興奮が混じった。シールの瞳孔がわずかに開く。
「枯れ枝であれば、老木の自然落下で説明がつく。しかし若枝となると話が変わります。生きた枝を自ら切り落とするというのは、樹木にとって自傷行為に等しい。余程の刺激、あるいは意志がなければ起こり得ない」
羽根ペンが走った。火の粉が舞う薄闇の中で、シールの横顔は獲物を前にした学者そのものだった。
「部下の方は、どうして木を蹴ったのですか」
「苛立っていた。魔物がいるはずの森に、何もいない。気が立っていたんだろう」
嘘ではなかった。あの時、騎士たちは確かに苛立っていた。ただ、苛立ちの矛先が木ではなくカナに向いていたという一点だけが、巧妙に削り取られている。無口な男の短い証言は、作り話の匂いを消していた。
「なるほど。敵意ある行動に対する防衛反応、と。免疫機構という比喩は的確かもしれませんね、隊長」
シールが微笑んだ。だが、その笑みの裏で回転している歯車の音を、メアは聞き逃さなかった。敵意ある行動に対する防衛反応、シールはその言葉を、若枝の話だけに当てはめてはいない。森全体の魔物排除を、同じ枠組みで捉えようとしている。
では、森は何を守ったのか。
その問いに辿り着くまで、シールにどれだけの時間が残されているのか。
頭上で、小鳥が一羽、低く鳴いた。警告のような、短い声だった。




