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19.甘い果実

 団長室の扉を三度叩く。エイは返事を待たずに開けた。

「おう、ノックの意味ねぇな」

 ディートは執務机に足を乗せ、書類の山を枕代わりにしかけていたところだった。だが、エイの顔を一目見た瞬間、その飄々とした目が刃のように鋭くなった。

「……何があった」

「シールの部下を名乗る男が来ました。エジェ、と。団長、あれは人間ではありません」

 ディートの足が音もなく机から降りた。先ほどまでの気だるげな姿勢は跡形もない。椅子の背もたれに預けていた体が、一本の槍のようにまっすぐ起き上がる。

「根拠は」

「カナさんが、そう仰いました。森から追い出された魔物だと」

 沈黙が落ちた。短く、だが底の知れない沈黙だった。ディートの精悍な顔に浮かんだ表情は、怒りでも恐怖でもなく、猟犬が獲物の足跡を見つけたときのような、凄まじい集中だった。

「シールとの関係は」

「共謀している可能性が高いかと」

 ディートの顎がぎり、と音を立てた。白梟師団の魔術師が、王の勅許を盾に、魔物を手駒にして騎士団の喉元まで踏み込んできている。そしてメアは今、その魔術師と並んで森の中にいる。

 ディートの拳が机を叩いた。音は立てなかった。だが、拳の下で樫の天板がみしりと軋んだ。

「……エジェとやらは、今どこにいる」

「近くに宿を取っているそうです。目的はカナさん自身。まだ気づいていないとのことですが、時間の問題です」

「斬るか」

 あまりにも端的な問いだった。だがエイは首を横に振った。

「白梟師団の関係者を施設内で殺傷すれば、勅許を根拠に報復されます。最悪、騎士団そのものが処分の対象に。それに、あれが魔物であると証明する手段がありません」

 エイの声は冷静だったが、その奥歯が噛み締められているのをディートは見逃さなかった。正しいことを言っている自分が、一番それを歯がゆく思っている顔だった。

「……つまり、泳がせるしかねぇ、と」

「はい。ただし、メア隊長には至急知らせる必要があります。森の中で、背後の事情を知らないままシールの隣に立ち続けるのは……」

 エイの言葉が途切れた。二人の間に、同じ映像が浮かんでいる。森の奥で、シールの穏やかな笑みの裏に隠された罠が、メアの首に巻きつく光景が。

「エフィを走らせろ。あいつが一番軽い。森でメアに接触させる」


 厨房の空気はいつもと変わらなかった。鍋の蓋がかたかたと小さな音を立て、干し肉の煮込みが湯気を上げている。ビィが入口に背を預けるようにして立ち、廊下を窺っていた。

 カナはまな板の前に立っていた。根菜の皮を剥く手つきは淀みなく、穏やかで、危機などまるでどこか遠い国の出来事であるかのようだった。

「……カナさん」

 ビィがカナの横顔を盗み見る。

「あの人、その……大丈夫、なんですか」

 ビィの問いは緊張を孕んでいた。自分たちが相手にしているものの輪郭が掴めないもどかしさ。あの男が、もし本当に人の皮を被った何かだとしたら。

 ビィの手が腰の剣の柄に触れた。その指先が、微かに白くなっていた。

 カナは何も言わず、静かに人差し指を口の前に立てた。

 ビィの口が、金魚のように開いたまま止まった。カナの細い指が唇の前にすっと立てられたその仕草は、まるで幼子をあやす母親のように穏やかで、それでいて有無を言わせぬ重みがあった。

 ビィは息を呑み、反射的に頷いた。

 根菜の皮が、薄く、途切れることなく剥かれていく。まな板に落ちる皮の音。それだけが厨房を満たしている。

 ビィが見たあの男の歩き方は、一切のよどみがなかった。人間の歩き方を、丁寧に、一歩ずつ真似ているような足音だった。

 厨房の裏口が、音もなく開いた。

「ビィ、交代だ。エイ副官から伝令。エフィ先輩が森へ。団長命令だってさ」

 イーガの顔は平静を装っていたが、こめかみの血管がひくついていた。ビィの顔から、残っていた血の気がさらに引いた。事態がそれほどまでに切迫しているのだ。

 イーガの目が、厨房の奥でのんびりと鍋をかき混ぜるカナの背中へ向いた。

「……なあ、ビィ。あの人、さっきからずっとああなのか」

「うん。ずっと普通に料理してる」

 イーガはそれ以上何も聞かず、裏口の横に背をつけた。交代を言いつけられたはずのビィは表口から動かない。二人の新米騎士が厨房の両端を固める形になった。

 二人はまだ気づいていない。守っているのが自分たちなのか、守られているのがどちらなのか、その境界線がとうに曖昧になっていることに。

 カナは鍋の蓋を少しずらし、湯気の加減を確かめると、棚の奥から干し果実の瓶を取り出した。二つの小皿に、干し杏と干し林檎をひとつかみずつ盛る。

 カナは振り返り、一つをビィの方へ、もう一つをイーガの方へ、それぞれ差し出した。

「え、あの、僕たちに?」

 カナは頷いた。

 イーガは小皿を受け取り、干し杏をひとつ摘まんだ。口に放り込み、数回咀嚼して、ぼそりと呟いた。

「……甘」

 ビィも一つ口に含んだ。緊張で強張っていた肩が、ほんの少しだけ下がった。

 そのとき、食堂の方から再び足音が聞こえた。鎧の金具が微かに触れ合う、聞き慣れた音。

「二人とも、ご苦労様です」

 エイが厨房の入口に現れた。その穏やかな顔の下に刻まれた疲労は隠しきれていなかった。

 エイの視線が、カナの手元の小皿に止まった。干し果実。二人分。この状況下で、おやつを配っている。

 エイの口元が、ほんの一瞬、奇妙な形に歪んだ。笑いたいのか、安心したのか、自分でもわからないという顔だった。

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