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不穏の影

 厨房の日常という薄い膜が、カナの不安を覆い隠していく。スープの具材を選び、パンを焼き、皿を並べる。その一つ一つが、自分を地上に繋ぎ止める錨であるかのように。

 昼前、エイが厨房に顔を出した。表情は穏やかだったが、その金色の目が笑っていないことにカナはすぐ気づいた。

「カナさん、少しよろしいですか」

 エイは声を落とした。

「先ほど、シールの部下と思われる師団魔術師が、もう一名こちらに向かっているとの報告がありました。森へ向かった三名とは別の人間です」

 シールは森だけでなく、王都側にも監視の駒を残していったのだ。カナは表情を変えず、パン生地をこねる手を休めない。ぽて、ぽて、と柔らかい音が響く中、彼女は泉の底のように静かな目でエイを見上げた。

「その人も、ご飯食べに来るのかな」

 的外れなようでいて、核心を突いた問いだった。エイの眉がわずかに寄る。

「……その可能性はあります。白梟師団の人間が、公務で騎士団施設を利用する権利は認められていますから」

 エイはカナの前にしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。

「もし見知らぬ人間に話しかけられても、何も答えなくて構いません。困ったら、ただ笑って、俺かビィを呼んでください」

「わかった。困ったら……泣く。タマネギを切ってれば、いつでも泣けるよ」

 エイは一瞬ぽかんとした後、こらえきれずに小さく吹き出した。張り詰めていた副官の心が、初めて緩んだ瞬間だった。

 だが、その和やかな空気は、厨房の外の廊下で響いた靴音によって一瞬で霧散した。

 扉の向こうに立っていたのは、白梟師団の紋章のある地味な旅装束に身を包んだ、痩せぎすの男だった。三十ほどの、目立たない風貌。男はエジェと名乗り、人好きのする笑顔を浮かべた。

 エイの背筋を、氷の指でなぞるような感覚が走り抜けた。男に不審な点はない。それなのに、覚えのあるようなひりつく感覚に、無意識に剣の重みを確認した。

「すみません。シール様の調査補助で参りました。ここの食堂は、外部の人間でも利用できると伺ったのですが」

 エジェの灰色の目が、開いたままの扉から厨房の奥を覗いた。ほんの一瞬。

 その視線の先にいたカナの手が、止まった。タマネギを持つ指先だけが微かに動いた。

「お食事でしたら、こちらのホールへどうぞ!」

 異様な空気を感じ取ったビィが、エジェの視線を遮るように間に入った。男は「おっと、失礼」と軽く手を挙げ、ビィに促されるまま食堂の座席の方へと歩いていった。

 姿が見えなくなるまで、エイは微動だにしなかった。足音が遠ざかった瞬間、エイは振り返り、カナの顔を見た。

 カナは厨房の入り口をじっと見つめていた。その表情からいつもの穏やかさが消え、黒い瞳の底には、光の届かない深い泉の底が覗いていた。

「……あれは、森にいたもの」

 吐息のような声だった。エイの背筋に凄まじい寒気が駆け抜ける。

――森を追い出された魔物が、人に化けて入り込んだ。

「……ビィが、一人であの男と…。カナさん、今はここでじっとしていてください」

 エイの声には、かつてない焦燥が混じっていた。

「大丈夫。今は何もしない。あれが欲しいのは、私。ビィくんには用がないから」

 カナの声は恐ろしく澄みきっていた。嵐の前の凪のような静けさ。

「ねえ、エイ。あれは私を追ってきたんだと思う。……でも、あの魔術師の人と知り合いなの?」

 エイの血の気が引いた。シールの部下のふりをしているのではなく、シールが魔物を飼い慣らし、共謀しているのだとしたら。王の勅許を持つ魔術師が、魔物と手を組んでいる。その意味を考えた瞬間、メアの安否が脳裏をよぎり、エイの呼吸が止まった。

「……カナさん。あれは、どれほど危険なものですか」

「森が魔物を追い払ったとき、逃げ切れたくらい」

 エイは一度深く息を吸い、感情を完璧に殺して食堂ホールへと向かった。

 ビィが困惑しながら水を運んでいる横で、エイは微塵の乱れもない所作で接客を代わった。エジェは満足げに笑い、会話の中に森という餌を何度も撒いてきた。エイはにこりと微笑んで嘘を重ね、巧妙に核心を逸らし続けた。

 エジェが食事を終え、一度宿舎を出るのを見届けると、エイは廊下の角を曲がった瞬間に歩調を早めた。すれ違いざま、ビィに鋭く命じる。

「厨房を離れるな。カナさんから目を離すな。誰も入れるな!」

 エイの背中が団長室へ向かう階段を駆け上がっていく。二段飛ばし。

 この完璧主義の副官がなりふり構わず走るのは、かつて砦が襲撃された夜以来のことだった。

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