それぞれの祈り
その頃メアは馬上で死んでいた。比喩的に。
体は正しく鞍の上にあり、背筋は伸び、手綱を握る手に乱れはない。傍目には、任務に赴く寡認な騎士そのものだった。だが、その内側では、黒狼騎士団第三部隊隊長としての二十八年の人生が、轟音を立てて崩落していた。
唇に、まだ残っている。冷たくて、柔らかくて、泉の水みたいな感触。
メアは奥歯を噛み締めた。噛み締めて、それでも消えないその記憶に、さらにもう一度噛み締める。革手袋の中で指先が微かに震えているのが寒さのせいではないことくらい、彼自身が一番よく分かっていた。
「隊長、顔色が優れないようですが。森に入る前に休憩を取りますか?」
並走するシールが、横目でメアを窺っていた。その声は親切そうで、紫の瞳は愉しげに笑っている。白梟師団育ちの魔術師は、他人の動揺を嗅ぎ取ることにかけては一流だった。
「不要だ。先を急ぐ」
声は平坦だった。完璧に制御されていた。だが、メアは無意識に、革鎧の内側、心臓の真上に収めた真珠に触れていた。
それを贈った少女の顔が脳裏にちらついて消えない。メアは前方の森の稜線を睨みつけた。
感情を殺せ。任務に集中しろ。お前は騎士だ。ただの、騎士だ。
だが、革鎧の下で、真珠が心臓の鼓動に合わせて、とくん、とくん、と揺れていた。
メアが去った後の騎士団宿舎は、奇妙な空白に包まれていた。だが、食堂の厨房だけは、いつもと変わらぬ湯気と喧騒に満ちている。
カナはパンの生地をこねる作業に戻っていた。数日前よりもずいぶん様になった手つきで生地と向き合うその横顔は、先ほど騎士団の歴史を塗り替えるような口づけをした人間とは思えないほど平然としている。
だが、ふとした拍子に、その手が止まった。
カナの黒い瞳が、厨房の小窓から見える東の空、森がある方角を映している。
「カナさん、その、生地が……ちょっと、かわいそうなことに……」
ビィが恐る恐る指差した先で、パン生地が原形を留めないほど握り潰されていた。カナはぱちぱちと瞬きをして、我に返る。
のんびり構えているように見えても、彼女はちゃんと分かっていた。メアが、あの得体の知れない魔術師の隣で、自分のために嘘を吐き続けなければならないこと。その重荷を。
カナは潰れた生地を丁寧に丸め直しながら、ビィの心配そうな視線にふわりと笑って見せた。
その時だった。
厨房の小窓から吹き込んだ風が、一瞬だけ、不自然にざわついた。
ビィにはただの風にしか感じられなかったが、カナには聞こえていた。木々が互いに枝を擦り合わせ、根を通じて大地に伝える、言葉にならない報告が。
──森の入り口に、人間が来た。四人と、馬が四頭。一人は、木々が嫌がる匂いがする。
「カナさん? どうかしましたか?」
「……ううん、なんでもないよ」
カナの表情は、いつもの穏やかさに戻っている。だがその黒い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、泉の底のような深い光が揺らいだことに、新米騎士は気づかなかった。
パン生地をこねる手が、再び動き出す。厨房の湯気が、何事もなかったかのように二人を包み込んだ。
遠い東の森では、今まさに、シールが木々の間に足を踏み入れようとしている。
森は、主の言いつけを守っていた。静かに、従順に。
だが、その沈黙の奥で、無数の目が、紫の髪の侵入者をじっと見つめていた。




