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朝もやの奇襲

 朝もやが王都の石畳を薄く覆う中、騎士団宿舎の正門前に小さな一団が集まっていた。シールと二人の師団魔術師が、すでに馬の傍で待っている。紫の長髪が朝の光を受けて、絹糸のように艶めいていた。

 メアは長期の森林行動に適した革鎧を纏い、使い慣れた剣を腰に下げていた。エイが最終確認を済ませ、静かに敬礼を捧げる。

 そこへ、一人の人影が駆けてきた。

 エプロンを外しただけの、粉まみれの普段着のまま。息を切らせ、頬を紅潮させたその姿は、どこからどう見ても町娘そのものだった。

 シールの紫の瞳がカナを捉えた。

 メアの表情が凍りつく。「出てくるなと言っておいたのに」と目が語っている。だがカナはそんな視線を意に介さず、メアの前まで走り寄ると、その革鎧の袖を両手でぎゅっと掴んだ。

「……ああ、食堂の」

 シールの声には、微かな興味と、それを上回る無関心が混じっていた。薄い笑みが唇の端に浮かぶ。汚れた雑用係の小娘が、鉄面皮の隊長に懸想でもしているのか。その程度の認識だった。

 メアの体は板のように強張っていた。浮いた話一つない鋼鉄の男と色恋を結びつける者など、この国のどこにもいない。だからこそ、この光景は見る者すべての度肝を抜いた。

 エイは敬礼の姿勢のまま完全に固まり、宿舎の窓からは騎士たちがずらりと顔を並べてこちらを覗いている。ガルドが窓枠に額をぶつけ、ビィが口を押さえ、イーガは「へえ」と呟いていた。

「ほう」

 シールがほんの少しだけ、目を細めた。だがそれは魔力を探る目つきではなく、珍獣の生態を観察する学者の、純粋な好奇心だった。

「メア隊長、お連れの方にご挨拶が遅れましたね。しばらくお借りしますが、ご心配なく。ちゃんとお返ししますよ」

 その声はどこまでも滑らかで、完全にカナを取るに足らない存在として処理していた。シールの関心はもう別のところへ移っている。カナという人物そのものには、塵ほどの疑いも向けられていなかった。

「メア、これを渡したかったの」

 カナが差し出したのは、あの真珠に紐を通した、素朴ながらも不思議な光を放つペンダントだった。

 メアの目が、カナの掌の上で鈍く光る珠に釘付けになった。透明な水の底から一匹の魚が拾い上げた、かつての祈りの欠片。それを、この少女は惜しげもなく手放そうとしている。

 メアは一拍置いてカナの掌から真珠を取り上げた。ごつごつした指が、一瞬だけ彼女の指先に触れ、すぐに離れる。彼はそれを首にかけることはせず、革鎧の内側、心臓の真上にあたる隠しポケットに、そっと滑り込ませた。

「……預かる。戻ったら、返す」

 それは自分自身への約束だった。必ず戻る、という意味の。

「そろそろ参りましょうか、隊長。森が待っています」

 シールの催促にメアが頷こうとした、その時だった。

 カナの小さな手がメアの首の後ろに回り、身長差を無視した強引さで彼の顔を引き寄せた。

 メアの黒い目が、これまで誰も見たことがないほど大きく見開かれる。唇が触れる。柔らかく、泉の水のようにひんやりとした感触が、メアの思考回路を完膚なきまでに焼き切った。

 一秒。二秒。三秒。

 戦場で刹那の判断を下してきた男が、この小さな奇襲の前ではまったくの無力だった。

 やがて、メアの腕がぎぎこちなく、カナの背中に回された。革手袋に覆われた手が、彼女の細い体を壊れ物のように抱き寄せる。まるで離したら二度と戻らないとでも言うように、その抱擁は一瞬、ぐっと強くなった。

「うおおおおお隊長ーーー!!」

 宿舎の窓からガルドの野太い歓声が響き渡り、ビィが真っ赤になってイーガを道連れに窓の下に沈んだ。エフィは腕を組んだまま、ほんの僅かに口角を上げている。

 シールは馬の手綱を握ったまま、その光景を眺めていた。紫の瞳にはもはや何の疑念もない。ただの恋人同士の別れだ。取るに足らない、ありふれた人間の営み。彼は小さく鼻を鳴らすと、興味を失ったように視線を逸らした。

 やがて、メアがカナの体をそっと離した。その顔は、首筋から耳の先まで見事な朱に染まっている。

「……っ、行って、くる」

 声が裏返っていた。それだけ絞り出すと、メアは逃げるように馬に飛び乗り、一度も振り返らないまま朝もやの中へと駆け出していった。

 馬蹄の音が完全に消えると、カナはくるりと踵を返した。宿舎の入り口に向かって歩き出した彼女の前に、がっくりと肩を落としたエイが立っていた。

「……カナさん。あの、一つだけ確認させてください」

 エイの声には、足場が崩れかけているような響きがあった。

「今のは、その……作戦の一環、ですよね?」

「心配だったから、見送りたかったの」

 カナは質問の核心を華麗にすり抜けた。その黒い瞳は澄みきった泉のように穏やかで、嘘や計算の影は微塵も見えない。それが余計にエイを困惑させた。

「……承知しました。では、食堂の朝の仕込みがありますので、戻りましょう」

 エイがカナを促そうとした瞬間、廊下の角からガルドたちが雪崩のように飛び出してきた。

「カナちゃん! 隊長と付き合ってんのか!?」

「が、ガルドさん、声が大きいです……!」

「……聞きたいのは俺も同じだけど」

 三人の視線が期待と好奇心、および「あの鉄面皮の隊長が恋人持ち?」という恐怖を混ぜ合わせた色で注がれる。

 エイが三人の前に壁のように立ちはだかった。

 「今の話は、この場にいた者だけの胸に留めてください。下手に騒ぎ立てれば余計な詮索の種になります。いいですね?」

 穏やかな敬語の中に、有無を言わせぬ鋼が混じっていた。

 こうして、メア不在の宿舎で、カナの「もう一つの戦い」が幕を開けた。

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