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夢の続き

 その頃、食堂の厨房では小さな事件が起きていた。

 カナがシチューの味見をしようと木べらを口に運んだ瞬間、背後から太い腕がぬっと伸びて、鍋の蓋を取り上げた。振り返ると、ガルドの巨体が厨房の入り口を塞ぐように立っている。

「おう、いい匂いだな!どれ、味見してやろう」

 ガルドは遠慮の欠片もなく、棚から椀を取って鍋に突っ込もうとした。カナが作っているのは夕食用の仕込みであり、昼飯をたらふく食った男が手を出していい代物ではない。

 そこへ、カナの横に立つエフィの手が飛んだ。ガルドの椀を持つ手首を、ぱしん、と的な叩き落とす。

「触るな。夕食の分が減る」

「いってぇ!ちょっとくらいいいだろ!」

「ちょっとの量が信用できない人間の台詞ね」

 エフィは冷ややかに言い捨てると、カナの方をちらりと見た。その視線は、普段の彼女にしては珍しく、ほんの少しだけ柔らかい。

「……味付け、悪くないわ。塩をもう少し」

 それだけ言って、エフィは厨房を出ていった。ガルドは叩かれた手首をさすりながら、恨めしそうにシチューの鍋を眺めている。

 そんな何でもない光景が、厨房の湯気の中でゆるやかに流れていく。カナがここに来てまだ数日しか経っていないのに、彼女の周りには、いつの間にか人が集まるようになっていた。タマネギに泣かされ、ジャガイモの皮むきに苦戦し、叱られては笑う。そんな毎日が、騎士たちにとって戦いの合間のささやかな息抜きになりつつあった。

 夕刻、メアが食堂に戻ってきた。その顔にはいつも以上に深い影が落ちている。彼はカナの姿を見つけると、まっすぐに歩み寄り、厨房の隅へと促した。

「来週から、しばらく俺は森に行く。シールの調査に同行する」

 メアの声は低く、硬い。言外に含まれた意味は明白だった。しばらくの間傍にいられない、ということだ。

 それを聞いて、カナは厨房の裏口に出た。夕暮れの風が黒髪を揺らす中、彼女は王都の屋根の向こう、影絵のように浮かぶ森の稜線をじっと見つめている。

 メアが一歩遅れて隣に立った。カナの横顔には、いつもの穏やかさとは違う底の知れない静けさが宿っていた。

 やがてカナの唇が小さく動いた。独り言のようでもあり、遥か遠くの森への呼びかけのようでもあったその言葉は、厨房でガルドが鍋の蓋を派手に落とした音にかき消される。

「わりぃ!」

 ガルドの声にカナの肩がぴくりと跳ね、いつもの柔らかい表情が戻ってきた。

「森にお願いしておいたよ。泉のお家は隠しておくこと。私が戻るまで、みんな大人しくすること。メアに何かあったら、守ってあげること」

 メアはしばらく黙っていた。森が彼女の言うことを聞くのは知っている。だが、守る、という言葉が胸の奥で妙に引っかかった。

「……俺の心配はいい」

 声が思ったより掠れていた。メアは一つ咳払いをして視線を外す。

「それより、お前が留守の間、泉の家を隠せるならそれに越したことはない。あの階段を見られたら、シールは何としてでも降りようとする」

 実務的な言葉で揺らぎを塗り潰す。それが彼の不器用な流儀だった。だが、ふと、胸の内にあった問いがこぼれ落ちた。

「……あの家で、千年、一人だったんだろう」

 耳の先がわずかに赤いのは夕陽のせいだと、本人は信じたがっているようだった。

「ずっと寝てたから、まだ夢をみてるみたい。メアたちがきてくれて、ホントに嬉しかったんだよ」

 あまりにも真っ直ぐな本音だった。メアの手が、無意識に腰の剣の柄に触れる。感情の置き場に困ったとき、彼の手はいつもそこへ伸びる。

 何か言おうとしてやめ、もう一度口を開きかけては閉じた。色恋にも世辞にも縁のない男の、精一杯の逡巡。

 結局メアが選んだのは、言葉ではなかった。

 ごつごつした手が伸びて、カナの頭に、ぽん、と一度だけ触れた。戦いで幾人もの命を奪ってきた手が、黒い髪の上でほんの一瞬だけ迷い、すぐに離れる。

「夢じゃない。お前は、ここにいる」

 それだけ言って、メアは踵を返した。厨房の中へ戻る背中はいつも通り真っ直ぐだが、その歩幅がほんの少しだけ狭くなっていることに、本人は気づいていなかった。

 厨房に戻ったメアの耳に、ガルドの怒鳴り声が飛び込んでくる。

「おいビィ!鍋焦げてんぞ!何ぼーっとしてんだ!」

「す、すみません!あの二人のことが気になって、つい……!」

 慌てふためくビィと、盛大に煙を上げる鍋。エフィが無言で窓を開け、イーガが溜息をつく。その喧騒の中に、メアは何食わぬ顔で溶け込んでいった。

 裏口に一人残されたカナの髪を、夜風がそっと撫でた。

 彼女の手は、そっと服の合わせに隠した一粒の真珠に触れていた。メアの手が触れた場所にはまだ微かな温もりが残り、王都の空には星が瞬き始めていた。

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