第14話 残るか、帰るか
勝った翌朝のほうが、前日より忙しい。
ナイメはそれを、まだ薄暗いうちから思い知らされた。
台所では祝いの残りを片づける音、玄関では昨夜遅く着いた旅人の靴音、診療所ではドゥシャンがいつも通り容赦なく朝の診察を始めている。審査が終わったからといって、朝もやは気を遣ってくれないし、人は朝になれば腹も減る。
「管理人、泣き腫らした顔でも帳簿は逃げませんよ」
シュクルティが湯気の向こうから言う。
「泣いてません」
「では目を洗いすぎましたか」
「……そういうことにしてください」
笑われながら、ナイメは控え台帳の束を抱えて食堂の長机へ向かった。
提出期限つきの書類が山のようにある。審査後報告、是正後請求確認、冬季物資受領予定表、連携体制継続届。勝ち取った存続には、勝ち取ったぶんだけ事務がついて回る。
けれど、その山が嫌ではなかった。
紙の一枚一枚が、消されなかった証拠みたいに見える。
昼前、王都印のついた速達筒が届いたのは、そんなときだった。
「応答願います! いや違う、これは手紙です!」
コニュがものすごく慌てた顔で玄関から駆け込んでくる。
「見ればわかります」
「王都印です! しかも事務局式の封じ紐! なんだか嫌な予感と栄転の匂いが同時に!」
「やかましいのでまず渡してください」
筒を受け取った瞬間、ナイメの指先が少し冷えた。
王都の書類には、独特の紙の固さがある。乾きすぎた部屋の匂いまで一緒に閉じ込めたみたいな感触だ。
封を切り、内容を読んだところで、胃の奥がきゅっと縮んだ。
「どうした」
横へ来たドゥシャンが短く聞く。
ナイメは一度だけ唇を結び、それから紙を差し出した。
内容は簡潔だった。
王都宮廷事務局より、過去の不正会計案件について再調査の結果、ナイメの責任は認められず。
ついては名誉回復のうえ、復職希望の有無を至急回答されたし。
希望するなら、年内に王都勤務へ戻す。
給与階位も一段戻す。
ヘルヴァルトが横からのぞき込み、妙な声を出した。
「戻れるのか」
「……そうみたいです」
「給料も戻る?」
「戻るみたいです」
「王都、暖かい?」
「場所によります」
そこじゃないだろ、と誰かが言う前に、食堂がしんと静まった。
王都へ戻れる。
冤罪は晴れた。
もう「追放された人間」ではない。
本来なら、喜ぶべきことだ。
ナイメだって、そう思う。思うのに、胸の中は妙に静かで、ただ答えを出しにくい紙を持っている感じがした。
午後の帳簿仕事は、文字が目に入っても頭へ入らなかった。
ドゥシャンは何も言わずに薬包を作り、シュクルティも余計なことを聞かなかった。ヘルヴァルトだけが三回ほど「王都かあ……」と口にして、三回ともシイレに睨まれて黙った。
夕方、物資小屋の整理を終えたあとで、ゲルマナが裏庭へナイメを呼んだ。
日は短くなっていて、井戸端の石畳には初冬の手前みたいな冷えが落ちている。裏庭の柵には、洗い終えた布が風もないのにかすかに揺れていた。
「読んだのね」
「はい」
「戻る道が開いた」
「はい」
ゲルマナはそれだけ聞くと、すぐに答えを迫ることはしなかった。
この人はいつもそうだ。急がせないくせに、逃げ道にもしない。
「安全な場所へ戻るのは、悪いことじゃないよ」
やがて彼女は言った。「ここに残ることだけが立派なわけでもない」
「……そう、ですよね」
「ただね」
ゲルマナは井戸の縁へ手を置き、朝もやの谷のほうを見た。
「人は、もう傷つきたくないと思う場所へ戻ることもあるし、もう逃げたくないと思う場所へ残ることもある。どちらが正しいかは、他人には決められない」
ナイメは返事をできなかった。
自分でもまだ、どちらなのかわからない。
その夜、食堂の隅で答えを出せないまま控え台帳へ目を落としていると、宿泊していた行商人の女性が会計にやって来た。
「前にも一度、ここに泊まったんです」
彼女は銅貨を数えながら笑う。「濃霧の前にね。あのとき薬湯を勧めてくれた管理人さん、あなたでしょう」
「え」
「覚えてない? 疲れた顔してるから、甘くないほうが効きますって言われたの」
たしかに、覚えがある。
秋のはじめ、客が少しずつ戻り始めたころの小柄な行商人だ。
「あのあと無事に街を抜けられて、商談もうまくいきました。また通るならここにって決めてたんです」
彼女は支払いを済ませ、さらりと言った。「なくならなくてよかった」
その一言が、胸の深いところへ落ちた。
なくならなくてよかった。
数字でも、理屈でもない。
けれど、ここに泊まった誰かが本当にそう思っている。
夜更け、帳簿を閉じて外へ出ると、庭先の石段にドゥシャンが座っていた。
湯呑みをふたつ持っている。
「冷える」
「そうですね」
「たぶん、お前は温かいものを飲みながら悩むほうがまだましだ」
差し出された湯呑みを受け取り、ナイメは隣へ座った。
薬草を薄く煎じた湯は、舌に苦みを残すぶんだけ頭を静かにする。
「戻るんですか」
自分で訊くつもりはなかったのに、口から出たのはその言葉だった。
ドゥシャンは少し首を傾げた。
「俺が?」
「違います。私が」
「知ってる」
それだけ言って、彼は湯気の向こうを見た。
「戻りたいなら戻ればいい」
「……引き止めないんですね」
「引き止めてほしいのか」
返せなかった。
聞き方が、ずるかったのだと自分でもわかる。
ドゥシャンは困らせるつもりではない声で続ける。
「王都へ戻れば、待遇はよくなる。冬の備えも楽だ。名前を伏せて働くことだって、ここよりうまくできるかもしれない」
「はい」
「ここに残れば、忙しい。面倒は増える。お前はたぶん、今よりもっと前へ出ることになる」
「それも、はい」
「だから」
彼はそこで、言葉を選ぶように少し黙った。
「どちらを選んでも、お前が決めたなら尊重する。俺は、決めたあとに必要な手伝いをする」
その言い方が、胸へ刺さった。
強く引かれたわけじゃない。甘いことを言われたわけでもない。
それなのに、逃げ場だけがなくなる。自分で決めるしかない場所へ、ちゃんと立たされる。
「ずるいです」
ナイメは湯呑みを見たまま言う。
「何が」
「そういう言い方」
「お前の人生だからな」
「そうやって正しいことを言うところです」
「褒めてるのか」
「半分だけ」
少しだけ、ドゥシャンが笑った気がした。
気のせいかもしれない程度に。
翌日から数日、ナイメは意識して宿の中を見て回った。
もともと毎日見ていた場所なのに、答えを探す目で見ると、景色は少し変わる。
台所ではシュクルティが冬用の保存食を仕込みながら、若い娘たちへ塩加減を教えていた。
診療所ではドゥシャンが子どもの咳を診ながら、怖がらないように低い声で話していた。
通話所ではコニュが新しく増えた連絡先を整理していて、たまに詩的すぎる見出しをつけてはナイメに消されていた。
表ではヘルヴァルトが新しい看板の設置位置で職人と揉め、最終的にゲルマナへ両方叱られていた。
宿帳には、再訪予定の日付が少しずつ増えていく。
秋市で知り合った旅人からの手紙も届く。
解毒包をまとめ買いしたいという依頼まであった。
ここは忙しい。
手間がかかる。
うるさい。
勝った翌日でも平気で仕事が増える。
でも、不思議なくらい、名前を消して隠れたいとは思わなかった。
王都からの返答期限は、五日後の昼。
その朝、ナイメはいつもより早く起きて、まだ白い朝もやが谷にたまる道をひとりで歩いた。
村外れの坂を上ると、“出口の宿”の屋根が少し上から見える。
煙突の煙は細く、台所の窓だけ明るい。誰かがもう火を入れているのだろう。きっとシュクルティだ。
裏手の小屋には荷車の影が見える。ヘルヴァルトが点検を始めたに違いない。
診療所の窓も、そのうち灯る。
通話所からは、じきに「応答願います!」が飛ぶ。
自分がいなくても、村は動く。
それはたしかだ。
けれど、自分がいたほうがうまく回る場所が、ここにはもうある。
ナイメは息を吸い込み、冷えた空気を肺へ入れた。
痛いくらい澄んでいて、頭がはっきりする。
安全で、目立たず、責任の薄い場所へ戻ることはできる。
でも、それはもう「ほしいもの」ではないのかもしれない。
答えが落ちたのは、そのときだった。
劇的ではない。鐘が鳴るわけでも、空が晴れ渡るわけでもない。
ただ、これだ、と思った。
宿へ戻ると、みんなが妙にそわそわしていた。
返答期限を知っているので、気になるのだろうが、誰も先に聞かない。聞かないくせに気配だけがうるさい。
「管理人」
ヘルヴァルトが木箱を運ぶふりをしながら近づく。「王都は……」
「お前は木箱を運べ」
「はい」
即座に引っ込む。
ナイメは食堂の長机へ返答用紙を置き、羽根ペンをとった。
少しだけ手が震えたが、名前を書き始めるころには止まっていた。
王都宮廷事務局宛。
復職辞退。
朝もやの村“出口の宿”管理職務継続を希望する。
書き終えた瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。
怖さが消えたわけではない。ただ、もう別の怖さを選んだのだとわかった。
「決めたんだな」
いつの間にか後ろに来ていたゲルマナが言う。
「はい」
「そう」
彼女はそれだけ言って、静かに笑った。「では忙しくなるね」
返答文を王都行きの急便へ託したあと、ナイメは宿の玄関前に立った。
ちょうどそのとき、診療所から出てきたドゥシャンと目が合う。
「返したか」
「返しました」
「どっちだ」
「残ります」
彼は一度だけ、ゆっくり瞬きをした。
驚いたのではない。たしかめるような間だった。
「そうか」
「はい」
「……そうか」
二回言った。
その二回目だけ、ほんの少しだけ声がやわらかい。
「引き止めないって言ったくせに、ちょっと嬉しそうですね」
「否定はしない」
「正直ですね」
「お前が残ると、書類が減る」
「そこですか」
「大きい理由だ」
「他は」
「ある」
「聞いても」
「今はまだ駄目だ」
その言い方に、ナイメの心臓が勝手に跳ねた。
冬の手前の空気は冷たいのに、耳だけ熱い。
食堂の中から、コニュの声が飛んでくる。
「応答願います! 管理人が残留を選びました! あっ、これはまだ外部送信前の独り言です!」
「独り言がでかい!」
ナイメとシュクルティの声が重なり、宿の中が笑いに包まれた。
残ると決めた瞬間から、もう次の仕事が始まっている。
それなのに、不思議と足取りは軽かった。
ナイメは玄関扉へ手をかけ、いつもの木の感触を確かめる。
ここは、自分がしばらく預かるだけの場所ではない。
自分の名前で、守っていく場所だ。
朝もやの向こうに、白く細い道がのびている。
その先から、また新しい旅人が来るだろう。
ナイメは小さく息をつき、振り返った。
「よし。今日の分の納品控え、誰もまだまとめてませんよね」
「お前、決意の直後に言うことがそれか」
ヘルヴァルトが呆れる。
「管理人なので」
「頼もしいですねえ」
ダグフィンがどこからともなく現れた。
「いたんですか」
「売り込みの匂いを嗅いで来た」
「帰ってください」
「帰らない」
騒がしい。
あたたかい。
面倒が多い。
けれどナイメは、もう知っている。
こういう場所のほうが、自分はちゃんと前を向けるのだと。
返答文を出してから五日後、朝もやの村には、初冬らしい切り裂くような冷え込みが来た。
夜のうちに張った薄氷が、井戸端の桶の縁できらきらと白く光っている。谷の底から上がってくる朝もやはいつもより淡く、かわりに空気そのものが青く澄んでいた。吐く息が目に見えるだけで、村じゅうが少しだけ静かに見える。
その朝、出口の宿の前には新しい看板が立てられていた。
磨き直した板に、濃い藍の塗料で宿名が大きく書かれている。下には、ダグフィンがどうしても入れると言って譲らなかった文句まで添えられていた。
『谷を越える前に、体を整える宿』
「長いですね」
ナイメが腕を組んで言うと、ダグフィンは胸を張った。
「記憶に残る長さだ」
「要約すると」
「つまり、また来たくなるってことだ」
「雑ですねえ」
コニュがしみじみ言う。
「お前が言うな」
ヘルヴァルトが即座につっこんだ。
宿の中では、シュクルティが冬用の献立表を壁に貼り、ゲルマナが来週分の薪の配分表を見ている。診療所のほうからは、ドゥシャンが戸棚を動かす鈍い音がした。街道の正式補給地点としての継続通知が出てから、村は目に見えて忙しくなった。忙しいのに、誰の顔にも前より少し余裕がある。
予約帳も、帳場の上でずいぶん厚みを増していた。
初冬の半ばまで、泊まりの印が途切れず続いている。秋市で知った旅人の再訪、護衛団の立ち寄り、薬湯目当ての小商い。以前は空白ばかり見ていた帳面が、今は人の行き来で埋まっていく。
ナイメはその帳面を閉じ、そっと掌で表紙を撫でた。
「顔つきが違う」
不意に、背後で声がした。
振り向くと、ドゥシャンが廊下の角に立っていた。手には厚手の布がある。見覚えのある、やわらかな色合いだった。
「帳面ですか」
「お前だ」
「そんなに変わりました?」
「変わった」
即答された。
迷いがないので、ナイメは少しだけ目を細める。
「前は、数字を見ているようで、数字の向こうを見ないようにしていた」
「ひどい言い方ですね」
「事実だ」
「反論しにくいです」
ドゥシャンは近づいてきて、手にしていた布をひらく。
あの淡いマフラーだった。第八話で倉庫から見つけた、かつてこの宿で働いていた管理人見習いの忘れ物。織り目は古いが、シュクルティが丁寧に洗い直したおかげで、朝の光を含む雪雲みたいにやわらかい色をしている。
「これ」
ナイメが瞬く。
「借りる」
「借りる、ですか」
「お前に巻くために」
「……それ、借りるの意味、だいぶ強引では」
「そうかもしれない」
そう言いながらも、彼の手つきは驚くほど慎重だった。
冷えた廊下で、マフラーが首にかかる。ふわりと頬に触れた布は軽いのに、肩の力が抜けるくらい温かかった。
結び目を整える指先が、喉元すれすれで止まる。
ほんの一瞬だけ、どちらも動かなかった。
触れたいと心が叫ぶ、というのは、こういう時のことを言うのだろうかとナイメは思った。
秋市の日に胸の奥をかすめた感覚より、ずっと静かで、ずっと深い。
逃げたくなるのに、逃げたくない。
「似合う」
ドゥシャンが言った。
「ありがとうございます」
「礼を言うときは、相手の目を見る」
前に彼自身が言っていたことを、そのまま返されたのだと気づいて、ナイメは少し笑った。
それから、ちゃんと目を上げた。
「ありがとうございます」
視線がぶつかる。
朝の冷たさとは別の熱が、ゆっくり頬をのぼる。
そのとき、表からコニュの声が飛び込んできた。
「応答願います! 北市場方面より、今夜二組、明朝一組、到着予定です! あと看板が好評です! 長いけど覚えやすいとのことです!」
「ほら見ろ」
ダグフィンの勝ち誇った声まで続く。
「うるさい」
ヘルヴァルトが言う。
「でも来るならいいじゃないですかあ」
シュクルティまで笑っている。
宿の中が、いつもの騒がしさで満ちていく。
それなのに廊下の角だけ、妙に静かだった。
ドゥシャンが、視線を逸らさずに言う。
「帰る場所がここなら、俺はかなりうれしい」
真っすぐだった。
飾りも言い逃れもない、仕事の報告みたいにまっすぐな声。
けれど、そのぶんだけ、ごまかしようがなかった。
ナイメの心臓が、一度だけ大きく跳ねる。
「それは」
喉が少しかすれた。「宿の管理人として便利だから、ですか」
「それもある」
「それも」
「でも、それだけなら今ここで言わない」
彼は言い切ってから、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せた。
珍しい表情だった。普段なら迷いなく薬名や処置を言う人が、今は言葉を選んでいる。
「お前がいたから、俺はこの村で医官を続ける意味を前よりはっきり見た。数字を整える手も、逃げたいと言いながら残るところも、助けを求める声を拾い続けるところも、全部だ」
「……」
「だから、帰る場所がここで、そこにお前がいるなら、かなりうれしい」
かなり、という言い方が、ひどく彼らしかった。
大げさではないのに、十分すぎるほど伝わる。
ナイメはマフラーの端をそっと握る。
この村へ来たばかりのころなら、たぶん冗談に逃がしていた。忙しいので、とか、後で、とか、そういう言葉で脇へよけていた。
でも今は、自分の足で残ると決めたあとだ。
逃げずに受け取ることも、きっと、自分で選べる。
「私も」
言ってから、胸の中の震えが少し落ち着いた。
「私も、ここが帰る場所になるなら、うれしいです」
「……そうか」
「はい。かなり」
ナイメが言うと、ドゥシャンは初めて、はっきり笑った。
その笑顔を見た瞬間、寒いはずの廊下が少しだけ明るくなる。
笑い声は食堂から聞こえ続けている。鍋の音も、椅子を引く音も、通信水晶の短い受信音も混ざって、出口の宿の朝はにぎやかだった。
ナイメは玄関のほうへ目を向ける。
磨き直した戸板。新しい看板。帳場の上の予約帳。冬の白い息を吐きながら坂道を上がってくる、小さな荷馬車の影。
朝もやが薄く割れ、その向こうから新しい旅人がこちらへ向かっていた。
ここは、もう終わりを告げる場所ではない。
谷を抜けるための出口であり、誰かが戻ってくるための入口でもある。
村にとっても。
きっと、自分にとっても。
ナイメは首元の淡いマフラーに触れ、それから前を向いた。




