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追放された事務官は、朝もやの村の薬湯宿で恋と再建を拾い直す  作者: 乾為天女


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第13話 冷徹な人たちの、冷徹ではない判断

 追加陳述の準備に入ってから、審査室の空気はひどく静かになった。


 怒鳴り声のほうが、まだ楽だ。怒鳴る人間は、自分が何を守りたいのかを隠せない。けれど、この部屋にいる記録官たちは、羽根ペンの先でただ事実だけを書き留める。インク壺の蓋が開く音、紙をめくる乾いた擦れ音、窓から入る光の移動。そういう細かなものばかりが耳についた。


 イルミジェは積み上がった資料を、種類ごとに無駄なく分けている。請求書、納品控え、通話記録、診療録、避難誘導表、予約帳、秋市収益台帳。数字の並んだ紙束が、村人の声より先に机の上へ出そろっていく。


 「現場確認官シイレ」

 イルミジェが呼ぶ。


 シイレは一歩前へ出て、用意していた封筒から数枚の報告書を抜き出した。


 「街道第三補給所から朝もやの村への薬材輸送について、途中留め置きの痕跡を確認。荷札の再封蝋あり。日付の書き換えあり。護衛記録との不一致あり」

 「故意の可能性は」

 「高いです。自然遅延なら、こうは揃いません」


 短い。余計な感情を混ぜない報告だった。

 けれど、その短さが逆に重い。


 ルーベンスが顔色を変えずに口を挟む。


 「補給所の人員が混乱していただけでは」

 「混乱で同じ人物の筆跡だけ三度続けて日付が変わるなら、街道全体が終わってます」

 シイレは即答した。「少なくとも、私はそう判断します」


 記録官がさらさらと書きつける。

 ルーベンスのこめかみが、今度はたしかに動いた。


 「医官ドゥシャン」

 イルミジェが視線を移す。


 ドゥシャンは静かに立ち、診療録の束を机へ置いた。


 「朝もや濃化の三日間で、通常の一・八倍の解毒処置を行った。軽症者を除いても、本来届くはずだった中和薬材が予定通り入っていれば、重篤化を防げた例が六件ある」

 「死者は」

 「出ていない」

 彼はまっすぐ答えた。「村が持ちこたえたからだ。ぎりぎりで」


 そのあと少しだけ、声が低くなる。


 「持ちこたえたことと、危険がなかったことは別です。遅延は、確実に人命へ近づいていた」


 部屋の奥にいた神殿側の立会人が顔を上げた。

 人命という言葉は、どこでも重い。


 イルミジェはうなずき、今度は村人席へ目を向けた。


 「村代表ゲルマナ」

 「はい」


 ゲルマナは立つ前に一度だけ膝へ手を置き、まるで朝の集会に出るみたいな落ち着いた動作で前へ進んだ。派手な人ではない。だからこそ、彼女が口を開いた瞬間、部屋の気配が少し変わった。


 「私は朝もやの村で、三十年以上、人の出入りを見てきました。ここは金の出る土地ではありません。だから切っていい、と何度も言われてきました」

 言葉は穏やかなのに、芯が硬い。「ですが、谷を越える旅人には、ここが必要です。毒の朝に、湯を飲んで、息を整えて、次へ行くための場所です。村人にとっても同じです。ここがなくなれば、残る者は散り、老人と子どもは冬を越えられません」


 少しだけ間を置いて、ゲルマナは続けた。


 「数字が必要なのはわかります。ですから、売上も収益も持ってきました。けれど今日は、それだけでは足りないのでしょう。なら言います。ここは、利益だけで測るには近すぎる命を預かっています」


 ナイメは思わず息を止めた。

 冷たい部屋の真ん中で、ゲルマナの言葉は火のようではなかった。炭火のように静かで、けれど確実に熱かった。


 次に前へ出たのはシュクルティだった。


 「私は台所番です」

 第一声がそれだったので、何人かがわずかに目を瞬かせる。

 「料理と洗濯と、熱を出した子の額を拭くのが仕事です。帳簿は管理人に勝てませんし、規則は監査官さまに勝てません。だから、見たことだけ話します」


 彼女は両手を前で重ねた。


 「宿が立て直されてから、客はちゃんと帰ってきました。食べて、眠って、朝に顔色を戻して、礼を言って出ていきます。再訪の手紙も来ました。秋市の日には、村の若い衆が久しぶりに笑ってました。あの笑い声が偽物なら、私は鍋を捨てます」


 その比喩に、記録官のひとりが思わず顔を上げた。

 シュクルティは気づかないふりで続ける。


 「それから、ナイメはひとりで抱え込む癖があります。けれど、ひとりでここまで戻したんじゃありません。戻そうとしたから、みんなが乗ったんです。そこを、管理人ひとりの偶然みたいに切られたら困ります」


 最後の一文だけ、少し怒っていた。

 ナイメの胸の奥がじんと熱くなる。


 「ヘルヴァルト」

 イルミジェが呼んだ瞬間、本人は勢いよく立ち上がった。


 「待ってました」

 「簡潔に」

 「善処する」


 その時点であまり信用ならなかったが、ヘルヴァルトは意外なほど最初は落ち着いていた。


 「俺は元護衛騎士で、いまは荷運びと見張りと、困りごとの押しつけ先をやってる。街道を歩く旅人が何を怖がるかも、どこで足を止めるかも、だいたい知ってる」

 彼は部屋を見回した。「朝もやの村が正式補給地点じゃなくなったら、旅人は無理に谷へ入るか、遠回りするか、王都寄りの高い宿へ流れる。無理に入ったら倒れるやつが出るし、遠回りなら護衛費が上がる。つまり現場の負担は増える」


 「感想ではなく根拠を」

 ルーベンスが冷たく言う。


 その瞬間だった。

 ヘルヴァルトの眉がぴくりと跳ね上がる。


 「根拠?」

 笑っていない声になった。「俺が背負って運んだ人数だよ。吐いて倒れた商人も、護符をなくして泣いたガキも、霧の中で足をひねった婆さんも、ここの湯と診療所があったから助かった。何人いるか言えってなら言うぞ。お前が机にいた日に、こっちは人を拾ってた」


 ナイメは机の下で、布包みを握る手へ力を込めた。

 ヘルヴァルトは大きな声を出せばいいと思っているところがある。けれど今日は、それがただの騒がしさではなかった。


 「それに」

 彼はルーベンスをまっすぐ見た。「現場を知らねえくせに、切る話だけ早いのが気に食わねえ。俺は半分泣きながらでも言うが、ここを消すなら、誰が次の朝を拾うんだ」


 簡潔ではなかった。

 だが、嘘もなかった。


 審査室の中で、沈黙がゆっくり沈んだ。

 イルミジェは数秒だけ目を閉じ、それから記録官へ確認を取る。


 「収益関連資料の再計算を」

 「はい」

 「事前予約金、秋市収益、通常営業売上を現行正規広告料へ充当した場合の残差も」

 「すでに算出中です」


 羽根ペンが速くなる。

 横ではコニュが、通信記録の束を抱えたまま祈るような顔をしていた。


 しばらくして、若い記録官が一枚の集計表をイルミジェへ渡す。

 彼女は目を走らせ、もう一枚、ナイメが出した修正版請求計算書と見比べた。


 「……一致」

 小さく、しかしはっきりと言う。

 「異常上乗せ分を除外した正規広告料に対し、現時点で必要額の八割七分を確保済み。加えて、到着予定の予約前納分を含めれば、期限内納付は可能」


 部屋の空気が、一度だけ揺れた。

 誰もまだ喜ばない。けれど、その数字は確かに扉の形をしていた。


 ルーベンスが最後の札を切るみたいに口を開く。


 「仮に是正後の広告料が支払えても、安全審査は別件です。濃霧時の運営が継続可能かはなお疑問が残る」

 「残りません」

 イルミジェが即座に言った。


 その一言があまりに速くて、今度はナイメのほうが目を見開いた。


 イルミジェは視線を資料へ戻したまま続ける。


 「現場対応表、ローテーション管理表、通話水晶による外部連携記録、避難誘導線図、診療記録。いずれも整備済み。しかも今回の濃霧事案は、妨害を受けた状態でなお破綻しなかった」

 彼女はゆっくり顔を上げた。「機能しています。完全ではなくても、切る理由にはなりません」


 ルーベンスが言葉を失う。

 初めてだった。あの男が、返すための言葉を選び損ねたのは。


 神殿側立会人が、低く確認する。


 「監査官イルミジェ。正式見解として記録するのですか」

 「します」


 端正な声だった。情に流された響きはどこにもない。

 それなのに、冷たさだけでもなかった。


 「朝もやの村“出口の宿”は、正式街道補給地点として継続可能。広告料請求には異常加算が認められるため、再計算のうえ是正。安全審査は条件付き通過。条件は、現行の連携体制と物資ローテーション管理の継続提出」


 記録官の羽根ペンが、ほとんど走る音になる。


 ナイメは意味を理解するまでに一拍かかった。

 継続可能。

 是正。

 条件付き通過。


 消えない。

 切られない。


 「なお」

 イルミジェの声がもう一度落ちる。「輸送妨害と虚偽記録提出の疑いについては、別件調査へ移行します。街道組合現地担当官ルーベンス、関連書類の提出命令に従ってください」


 完全にとどめだった。


 ルーベンスの椅子が、かすかに軋む。

 けれど彼は何も言わなかった。言えなかったのだろう。数字のほうが先に逃げ道を塞いでいた。


 その瞬間、ヘルヴァルトが「っしゃ」とものすごく小さく言った。

 小さいつもりで、全然小さくなかった。


 「静粛に」

 イルミジェが言う。


 「はい」

 ヘルヴァルトは即座に背筋を伸ばしたが、顔だけは隠しきれずに崩れていた。


 ナイメは、そこまで来てようやく、自分の肩から力が抜けていくのを感じた。

 力を抜いたら、そのまま椅子から落ちそうなくらいだった。


 布包みを握っていた手へ、別の熱が触れる。

 机の下で、ドゥシャンの指先が一度だけ重なった。

 ほんの一瞬。確認みたいな触れ方だった。

 生きてるか、とでも訊くような。


 ナイメは答える代わりに、同じだけ指先を返した。


 審査が正式に閉じられたのは、昼をかなり回ってからだった。

 紙束の整理、署名、控えの確認、今後の提出期限の読み上げ。勝ったからこそ必要になる事務が山のようにあり、ナイメは半分泣きそうになりながら最後まで聞いた。


 だが、外へ出た途端、その苦労も吹き飛んだ。


 村役場の階段下には、待機していた村人たちがぎゅうぎゅうに集まっていた。結果を聞くより先に、ヘルヴァルトの顔を見て理解したらしい。


 「どうなんだ!」

 「消えねえのか!」

 「広告料は!」

 「宿は残るの!?」


 四方八方から飛んでくる声の真ん中で、ナイメは一瞬だけ言葉を失った。

 その代わり、ゲルマナが一歩前へ出る。


 「残ります」

 それだけを、はっきりと言った。


 次の瞬間、拍手と歓声が一度に弾けた。

 誰かが泣き、誰かが笑い、子どもが飛び跳ね、シュクルティが近くにいた二人の肩をまとめて叩く。ヘルヴァルトはおそらく感極まっていたのに、なぜか「見たか俺の簡潔な陳述を」と胸を張っていて、シイレに「長かったです」と冷静に刺されていた。


 コニュは涙声で通話水晶を掲げる。


 「応答願います! こちら朝もやの村! 正式継続です、正式継続です! 比喩ではありません!」

 「そこは比喩にしないで」

 ナイメが反射で言うと、周囲がどっと笑った。


 笑いの中で、ダグフィンがいつの間にか現れていた。

 派手な上着の裾を翻しながら、彼は満足そうにうなずく。


 「よかったじゃないか。さあ次は“勝ち残った宿”として売り出す段取りを」

 「いま言うことですか」

 「勝った直後がいちばん宣伝に向いている」

 「商魂がうるさい」

 「褒め言葉として受け取ろう」


 いつもの調子に、ナイメは笑いながら、けれど目の奥が熱くなっていくのを抑えられなかった。


 消されなかった。

 村も、宿も、ここで働くみんなも。

 そして、自分のやってきたことも。


 王都では、目立たないように、傷つかないように、できるだけ何も背負わないようにしてきた。

 けれど今日、自分の名前で出した声が、たしかに何かを守った。


 「ナイメ」

 呼ばれて振り向くと、イルミジェが階段の上に立っていた。


 彼女は相変わらず姿勢がきれいで、笑い方を知らない人みたいな顔をしている。


 「書類の控えは明日までに整理して提出を。勝って終わりではありません」

 「……はい」

 「それから」


 そこでほんの少しだけ、彼女は言いよどんだ。

 ほんの少しだけだ。気のせいかと思う程度に。


 「よく整えていました。現場も、数字も」

 「ありがとうございます」


 イルミジェはうなずき、すぐに背を向けた。

 たぶん彼女なりの最大級だった。


 日が傾き始めた帰り道、村へ戻る荷車の上はやたら騒がしかった。

 ヘルヴァルトは何度も陳述の一番うまくいった部分だけを再現し、シュクルティに三回目で止められ、コニュは通話水晶越しに各補給所へ継続決定を伝えながら泣き、ダグフィンはすでに次の宣伝文句を五案ほど考えていた。


 ナイメは荷台の端に座り、少し離れた場所にいるドゥシャンを見た。

 彼は騒ぎの中心には入らず、それでも時々こちらを見て、目が合うとごく小さくうなずく。


 その目に、変に甘い色はなかった。

 ただ、隣で立っている気配だった。

 それが今は、何より心強い。


 村へ着くころには空が薄い金色に変わり、朝もやの名残が谷底へ沈み始めていた。

 宿の前へ降り立つと、入り口の看板が夕光を受けてやわらかく光る。


 出口の宿。

 消えなかった名前だ。


 ナイメは戸口へ手をかけ、その木の感触を掌で確かめた。

 古くて、ところどころ傷んでいて、まだ直すところはたくさんある。

 それでも、ここはもう、期限つきの仮住まいだけではなかった。


 「中へ入るか」

 ドゥシャンが隣へ来る。


 「はい」

 「今日くらいは、泣いてもいい」

 「泣きません」

 「もう目が赤い」

 「風です」

 「屋内に入ってからも風のせいにするなら、少し無理がある」


 悔しいので反論しようとしたのに、先に笑いが出た。

 笑ってしまったら、そのまま涙も少しだけ出た。


 ドゥシャンは何も言わず、扉を先に押し開けた。

 あたたかい湯気と、シュクルティが仕込んでおいた香草煮込みの匂いが流れてくる。


 帰ってきた、と思った。


 その感覚に自分で驚きながら、ナイメは一歩、宿の中へ足を踏み入れた。



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