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追放された事務官は、朝もやの村の薬湯宿で恋と再建を拾い直す  作者: 乾為天女


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第12話 絶対に負けたくない

 正式審査の朝は、音が少なかった。


 初冬の手前まで来た谷の空気は鋭く、まだ日が高くなる前だというのに、出口の宿の石段には白い息が薄く溜まっていた。昨夜遅くまで反証文の清書と受信控えの整理をしていたせいで、ナイメの指先にはまだ炭筆の黒がわずかに残っている。洗えば落ちる程度の汚れなのに、その朝だけは妙に頼もしく見えた。


 帳場の机には、今日持ち出す書類がきっちり揃えられている。

 広告料の請求控え。

 宿泊帳。

 秋市の売上帳。

 事前予約金の受領票。

 薬材納品記録。

 避難誘導簿。

 通話水晶の受信記録。

 そして、昨日書き上げた反証文の正式清書。


 紙の束は薄くない。けれど、ただ重いだけの束でもなかった。

 誰かが走った分、誰かが見た分、誰かが助けられた分の重さだ。


 「忘れ物は」

 ドゥシャンが食堂の入口にもたれたまま言った。


 「たぶんありません」

 ナイメは書類紐をもう一度確かめた。「たぶん、という言い方しかできないのが嫌ですが」

 「十分だ」

 「そうでしょうか」

 「完璧です、と言って転ぶやつより信用できる」


 いつものようでいて、少しだけ違う声だった。気負わせないようにしているのがわかる。そういう気遣いを向けられるたび、胸のあたりが静かに忙しくなるから困る。


 食堂の奥ではシュクルティが朝の薬湯を小鍋へ移し替えていた。今日は審査だからといって宿の仕事が止まるわけではない。泊まり客はいるし、朝の霧で喉を傷める旅人も来る。むしろ、正式な場がある日ほど、普段通りに回っていること自体が何よりの証拠になる。


 「これ、持っていきな」

 シュクルティが小さな栓つき瓶を差し出した。「蜂蜜を少し足した喉の保護薬。しゃべる日だろ」

 「ありがとうございます」

 「途中で声が掠れたら格好がつかないからね」

 「そこなんですか」

 「そこもだよ」


 ヘルヴァルトはすでに外で落ち着きなく行ったり来たりしていた。今日の審査場は村の広場脇にある旧集会所だ。ルーベンス側の記録係も入るため、宿の食堂では狭いという判断になったらしい。


 「まだ出ないのか」

 戸口から顔を突っ込んでくるなり、ヘルヴァルトが言う。「早めに入って机の位置を見たほうがいい。あいつら、絶対に嫌な座らせ方してくるぞ」

 「そういう心配はもっと早く言ってください」

 「今思いついた」

 「役に立つのか立たないのか、はっきりしてください」

 「今日は立つ側でいく!」


 声だけは元気で、逆に不安になる。


 そこへコニュが両腕に受信箱を抱えて駆け込んできた。


 「応答願います! 北市場商人会より、昨夜の追加受信です!」

 「今?」

 「今です。『正式審査に際し、朝もやの村出口の宿の事前予約を維持する』、署名付き」


 ナイメは思わず息を止めた。

 追加の事前予約維持通知。昨日の時点で仮予約は守られたと聞いていたが、そこから正式審査を待ってなお引かないと文面に残してくれるのは大きい。数字だけではなく、信用が形になっている。


 「持っていきます」

 ナイメはすぐに言った。

 「はい!」

 コニュは箱から紙を取り出しながら胸を張る。「今日は比喩を挟んでいません!」

 「それが一番助かります」


 外へ出ると、朝もやは谷の低い位置に沈み、村の上空だけが薄く晴れていた。白と青の境目みたいな朝だった。広場へ向かう道には、すでに村人たちが何人も立っている。表立って審査へ口を挟めなくても、見送るくらいはしたいのだろう。


 ゲルマナが先に立ち、村人の配置を淡々と整えていた。


 「見物じゃないよ」

 落ち着いた声で言う。「騒げば向こうの思うつぼだ。けれど、ここにいることまで遠慮する必要もない」


 その言葉に、人々は声を潜めたままうなずく。


 ナイメは書類束を抱え直した。掌に汗が滲んでいる。寒い朝なのに、指先だけが熱い。


 「ナイメ」

 ゲルマナが振り向いた。「数字は嘘をつかない、とよく言うけどね」

 「はい」

 「数字だけじゃ、人の暮らしは全部は映らない。だから今日は、あんたが映しな」


 やわらかな言葉だったのに、背筋が伸びた。


 旧集会所は、かつて村の冬備えの相談に使われていた石造りの建物だ。いまは広場の倉庫代わりになっていたが、今日は机と椅子が運び込まれ、中央に長机が一本、左右に記録席が二列、奥に監査席が置かれている。窓は高く、外の白い光だけが細長く差し込んでいた。


 案の定、席順はいやらしかった。

 監査席の中央にイルミジェ、その斜め後ろに組合記録官が二人。向かいにルーベンスとその補助書記。村側は部屋の入口に近い側へ寄せられ、出入りの風が一番当たる位置だった。


 「ほら見ろ」

 ヘルヴァルトが小声で言う。

 「嫌な座らせ方だろ」

 「当たってほしくないところで当てないでください」


 ルーベンスはすでに席についていた。灰色の上衣は皺ひとつなく、指先にはきれいに整えられた爪。こちらを見る目だけが、妙に親しげだった。


 「おや、管理人殿」

 口元だけで笑う。「今日はずいぶん資料が多いようだ」

 「必要な分です」

 「そうか。審査というのは、案外短く終わるものだが」


 短く終わらせたいのはそちらでしょう、と思ったが、ナイメは返さなかった。


 代わりにイルミジェが席へ着き、乾いた声で開会を告げる。


 「定刻です。朝もやの村出口の宿および補給地点継続可否に関する正式審査を開始します」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 まずは定型の確認から始まる。現行指定、前回審査からの変更点、今期収支、街道安全維持報告。イルミジェの進行は徹底して無駄がない。誰かを守るためでも切るためでもなく、ただ順序を崩さない。その冷たさが、今日は不思議とありがたかった。順序がある限り、こちらも言葉を差し込める。


 最初に口火を切ったのはルーベンスだった。


 「出口の宿は近年継続的な赤字であり、補給地点としての自立性に乏しい」

 彼は用意してきた紙束をひらく。「加えて、初秋以降の濃霧時対応には複数の不安定要素が見受けられる。薬材補給の遅延、収容能力の不足、案内経路の脆弱性。これらを総合すれば、現時点での継続認定は慎重であるべきです」


 慎重。

 便利な言葉だ、とナイメは思う。切り捨てたいときに、容赦なく見せないための言葉。


 「また、広告料未納についても依然として解消見込みが不透明です」

 ルーベンスは続ける。「一時的な市の収益や、不安定な仮予約に期待する運営は、補給地点として相応しいとは言いがたい」


 横でヘルヴァルトの膝がぴくりと動いた。怒りが顔へ出る前に、ナイメは机の下でそっと袖を引いた。今はまだこちらの番ではない。


 イルミジェが記録官へ目配せし、次にシイレへ視線を向ける。


 「現場確認官、補足は」

 「現時点では保留」

 シイレは短く答えた。「村側提出資料確認後に述べます」


 それだけで十分だった。

 シイレが先に乗らなかった。それだけで、場の天秤はまだ決まっていない。


 イルミジェがナイメを見る。


 「村側、反証と説明を」


 とうとう来た。


 喉が鳴る。蜂蜜入りの喉薬を飲んでおいてよかったと、この瞬間だけ心から思った。


 けれど、最初の一歩が出なかった。

 椅子の木の縁に指が触れたまま、ほんのひと息だけ、昔の癖がよみがえる。

 前へ出れば矢面に立つ。

 言い間違えればそこだけを切り取られる。

 自分の名前で話すのは危険だ。


 王都にいたころ、そうやって縮こまってきた。

 責任を避けるのではなく、傷を浅くするために。


 だが、今日は駄目だった。

 後ろに宿がある。診療所がある。広場がある。朝早くから黙って見送りに立っていた村人たちの足音がある。昨日、受信箱へ届いた無数の応答がある。


 ナイメは椅子を引き、立ち上がった。


 「……村側より、説明します」


 思ったよりも声は揺れなかった。

 部屋の中央へ一歩、二歩と進む。入口寄りの冷たい位置から、審査席へ正面で向き合う場所まで。たったそれだけの距離なのに、ひどく長く感じた。


 ルーベンスがわずかに眉を動かした。ナイメが前へ出るとは思っていなかったのだろう。


 ナイメは書類束の一番上を置いた。広告料の請求控え。次に納品記録。受信記録。避難誘導簿。重ねる順番まで、昨夜何度も考えた通りだ。


 「はじめに申し上げます」

 自分でも驚くほど、言葉はまっすぐ出た。「私はもともと、人前で話すのが得意ではありません。できるなら誰かの後ろで帳簿だけ見ていたい人間です」


 記録官の筆が止まりかけ、また動く。


 「ですが」

 ナイメは一度だけ息を吸った。「絶対に負けたくないんです。ここを、数字の都合で消されたくないから」


 部屋の奥で、小さく空気が鳴った。

 誰かが息を呑んだ音だったのかもしれない。


 ルーベンスがすぐに口を挟む。


 「感情表明は結構ですが、審査は――」

 「感情だけでは話しません」


 自分でも、こんなふうに被せて言えるとは思っていなかった。

 ナイメはルーベンスを見たまま、次の紙を広げる。


 「まず、広告料についてです」


 机上に並べた三枚の請求控えを指先で揃える。前年の標準額、同規模補給地点の比較額、そして今期出口の宿へ請求された額。


 「こちらが同規模地点の前年平均です。こちらが本村への今期請求額。差額は平均比で四割強。増額理由の記載はなし。街道冊子掲載面は前年と同一、案内板位置も同一、追加枠もありません」


 イルミジェの目が紙へ落ちる。


 「増額根拠の照会に対し、担当官ルーベンス殿から返答はありませんでした。照会控えを添付しています」


 記録官が紙を受け取る。ルーベンスは表情を崩さない。だが、人差し指だけが机を二度叩いた。


 「次に、補給体制不全とされた点です」


 ナイメは納品記録と在庫繰越表を出した。


 「濃霧当日、北便の薬材搬入に遅延が発生したのは事実です。しかし遅延が発生した時刻、代替在庫の持ち出し時刻、診療所への再配分時刻はこの通り連続して記録されています。結果として、必要量は一度も欠いていません」


 ドゥシャンが横から一枚の医療記録を差し出す。

 ナイメは受け取り、続けた。


 「診療所記録では、霧酔い初期症状者は出ましたが、重篤化はゼロ。避難後の再搬送もゼロです。宿の収容と診療所連携が機能していた証拠になります」


 「偶然うまくいっただけでは?」

 ルーベンスが言う。


 「いいえ」

 ナイメは即答した。「偶然で回るなら、私たちはここまで細かいローテーション表を作りません」


 そのまま、薬材使用順の表を広げる。

 乾燥果皮、喉薬草、煎じ用根、携帯解毒包。各在庫の残量と使用順、代替可能品、最低残数の線引き。王都で磨いた整頓癖をそのまま村へ持ち込んで作った表だ。


 「遅延が起きる前提で、回し方を変えました。三日前からです。これは濃霧当日に急ごしらえしたものではありません」


 イルミジェが表を受け取り、視線を滑らせる。


 「……事前準備の形跡あり」

 小さく、しかしはっきりと記録官へ言った。


 その一言で、ナイメの背中を支えていた見えない棒が、もう少しだけ強くなった気がした。


 「次に、避難誘導不備とされた点です」


 避難誘導簿を開く。時刻と人数、誰がどの班を連れ、どこへ収容したか。ヘルヴァルトの字は相変わらず潰れているが、シュクルティが後から丁寧に脇書きをしてくれていた。


 「濃霧当日、谷道側から入った旅人は計二十七名。そのうち宿へ十一名、診療所へ四名、広場脇の臨時収容所へ十二名を案内しています。収容完了までの所要は最長二十一分。収容後、温湯配布まで十四分。こちらが記録です」


 「旅人側の証言は」

 イルミジェが問う。


 「あります」

 ナイメは受信記録束を差し出した。「通話水晶による照会へ応答した過去宿泊客、護衛詰所、北市場商人会、石段宿、第三曲がり角護衛団。いずれも『出口の宿が機能していた』『当日の避難と解毒処置に救われた』という内容です」


 コニュが喉の奥で小さく息を呑む気配がした。自分の集めた応答が、正式な場の紙になっているのを見ているのだろう。


 ルーベンスが、今度は少し強い声を出した。


 「しかし、風説が流れたのは事実だ。補給地点停止の噂ひとつで予約が揺らぐようでは、安定運営とは言えない」


 「その風説を流したのは、誰ですか」


 気づけば、ナイメは問い返していた。


 部屋の空気が一度止まる。


 「……何?」

 「正式通知未確認の段階で、“資格停止が近いらしい”という口頭伝達が南中継台から広がりました。さらに昨日、正式発令を装った偽通知が村へ届いています」


 ナイメは偽通知を机へ置いた。


 「照会番号の桁数誤り、旧式印章、差出経路の不整合。すでに監査官より正式発令ではないと確認済みです」


 イルミジェが短くうなずく。


 「確認済み」


 ルーベンスの目が初めて細くなった。


 「偽通知と私を結びつける根拠は?」


 そこでシイレが立った。

 椅子が床を擦る音が、静かな部屋ではやけに鋭く響いた。


 「ある」

 彼女は感情をほとんど乗せずに言った。「南中継台の台守が、封筒を渡した男を確認している。その男は、ルーベンスの現地補助として過去に同席していた人物。さらに当日の荷車遅延についても、裏搬入口付近で同系統の印章がついた停止札が見つかっている」


 ヘルヴァルトがぐっと拳を握る気配がした。あの日、罠にかかりかけながら見つけた裏搬入口の件だ。


 ルーベンスはすぐに言い返さない。

 その沈黙が、かえって場へ落ちた。


 ナイメはそこで、最後の束を開いた。


 「それでもなお、私はここを情だけで残したいわけではありません」


 秋市の売上帳を広げ、事前予約金の受領票を並べる。通常営業の直近三十日分の売上控えも重ねる。


 「こちらが秋市収益。こちらがその後の通常営業分。そしてこちらが、昨夜までに確定した事前予約金です」


 数字を読み上げる。紙の上では冷たい数字だ。だが、並べた瞬間に輪郭が変わる。鍋を煮た数、荷を運んだ回数、応答を返してくれた人の数、泊まり直してくれると言った人の顔が、裏側に全部いる。


 「異常請求分を除き、正規額へ是正された場合」

 ナイメは計算表を開いた。「納付期限内に支払い可能です。しかも納付後に運転資金が底をつかない見通しも立っています」


 イルミジェが身を乗り出すように計算表を見る。記録官も同時に覗き込み、細い声で数値を復唱した。


 「通常営業だけでは届きません」

 ルーベンスが言う。

 「市の収益と前金は不確定要素だ」


 「不確定ではありません」

 ナイメは受領票を一枚ずつ指で押さえた。「これは受領済みです。仮約束ではなく、入金済みです。取消条件も各票に明記されていますが、偽通知を除けば取り消しの申し出はゼロでした」


 イルミジェが確認し、今度ははっきりと言う。


 「受領票に不備なし」


 ナイメはそこでようやく、自分の声が最後まで届いているのだと実感した。

 王都で誰かの机の陰へ隠していた力が、こんな場所でようやく表へ出てきたのかもしれない。


 「出口の宿は、ただ昔からあるだけの赤字宿ではありません」

 言葉はもう、止まらなかった。「毒を含む朝もやが流れ込むこの谷で、旅人が次の町へ抜けるために体を整える場所です。診療所と連携し、避難場所になり、荷の休み場になり、村の売上の入口にもなっている。数字で示せる部分は今日すべて出しました。でも、数字の裏で人が実際に助かっていることまで切り落としたら、この審査は何を残すんでしょうか」


 少しだけ、沈黙が落ちた。


 それを破ったのは、意外にもイルミジェではなかった。


 組合側の記録官のひとりが、ぽつりと口を開いたのだ。


 「……審査は、機能を残すか切るかを見るものです」


 彼はすぐに黙った。余計な口を利いたと思ったのだろう。だが、その一言だけで十分だった。


 イルミジェは視線を上げ、ナイメをまっすぐ見た。


 「村側説明、主張の骨子は受領しました」


 受領。

 その言葉が、ひどく固くて、ありがたかった。


 ナイメはゆっくり息を吐き、席へ戻ろうとした。

 だが、その寸前にルーベンスが最後の抵抗を見せる。


 「待っていただきたい。たしかに資料は整っている。しかし、管理人ひとりの実務能力に寄りかかった運営は脆い。今後同様の濃霧が起きた場合、継続して回る保証がどこにあるのか」


 その言い方に、ナイメは一瞬だけ眉を寄せた。

 ひとりに寄りかかっている。そこだけは、否定したかった。


 だが、言葉にする前に、横から低い声が落ちた。


 「そこは訂正してもらおう」


 ドゥシャンだった。

 彼は静かに立ち上がり、ナイメの横へ並ぶ。


 「出口の宿は、管理人ひとりで回っていない。薬材の回し方は俺が現場で確認し、シイレが経路を見て、ヘルヴァルトが人を運び、シュクルティが食をつなぎ、コニュが通信を広げ、村全体で受けている」


 その声は抑えられているのに、部屋の隅まできれいに届いた。


 「それをひとりの偶然みたいに言うなら、現場を見ていない証拠だ」


 ルーベンスの口元がわずかに歪む。


 イルミジェが机上を一度整え、乾いた声で告げた。


 「ここで一旦、提出資料の確認へ入ります。現場確認官、医官、村代表、組合担当、それぞれ追加陳述の準備を」


 まだ終わっていない。

 けれど、確実に流れは変わった。


 ナイメが自席へ戻ると、膝が少しだけ震えていた。いまさら出てくる震えだった。椅子へ座った瞬間、机の下で指先が冷たくなる。


 「大丈夫か」

 ドゥシャンがごく小さく言う。


 「終わってから震えるタイプみたいです」

 「知ってる」


 昨日と同じ返しなのに、不思議と少し笑いそうになった。


 ヘルヴァルトは涙目に近い顔でこちらを見ている。


 「お前……」

 低く唸るように言った。「よくあそこまで言ったな」

 「まだ終わってません」

 「でも言った」


 シュクルティは何も言わず、机の下でナイメの手へ布包みを押しつけてきた。中身は温めた石だった。台所でこっそり用意していたに違いない。


 あたたかさが掌へ滲み、ナイメはようやく、自分が本当に部屋の真ん中で言い切ったのだと理解した。


 絶対に負けたくない。

 ここを、数字の都合で消されたくない。


 もう、言ってしまった。誰のせいにもできない、自分の言葉で。

 だからこそ、逃げる場所もなくて、少しだけ誇らしかった。


 高い窓の外で、白い朝もやがゆっくりとほどけていく。

 審査机の上では、イルミジェが提出された紙束を無駄のない手つきで並べ替え、シイレが追加陳述用の控えを整え、記録官たちが次々と符号を書きつけていた。


 ここから先は、ひとりでは押しきれない。

 けれど、ひとりで出なければ開かなかった扉が、たしかに今、ひとつ開いている。


 ナイメは布包みの熱を指へ移しながら、まっすぐ前を見た。


 次は、冷たい顔をした人たちが、冷たさのまま何を選ぶかだ。

 それでももう、ただ切られるのを待つ側ではなかった。



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