「龍王」(『化物怪奇譚』)⑧
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昼頃の集中豪雨で山のコンディションが悪くなっている為、明日は晴れていても例の洞穴へ行く事は控えた方がいいでしょう、と夫婦からは言われた。けれど、明日も天気予報が外れる事がなければ天気は良いはずなので、登山道を歩く事くらいは出来るそうだ。
登山者の朝は早く、基本的には朝五時に起床との事だった。他の宿泊者も来るかもしれないので、起床と朝食の時間をずらす事は出来ない。朝が早い為、就寝時間も普段の僕たちより早く、夜九時には消灯だそうだ。
七時に夕食を終えると、すぐにホールに戻り、寝る支度に入った。消灯も何も停電しているのだから、手持ち無沙汰の僕たちは最早眠るしかない。懐中電灯を消して皆で着替え、布団に入った。いちばん最初に寝息を立て始めたのは三枝さんで、随分と豪胆なところがあるのだな、と僕は改めて感心した。
壁をがたがたと揺らす風の音が気になり、また慣れない環境と、同級生の女子がすぐ傍で眠っているという状況に僕たち男はぴりぴりと精神を尖らせていたが、やがて限界が来たように連、津篭の順番で呼吸が等間隔になった。櫛引は眠りに落ちた気配はなかったが、呼吸音が腹式呼吸のようで、眠っているのか眠ろうとしているのか分からない。
一時間近く、僕は布団の中で輾転反側した。地元の村に居た時から、旅行先で眠る事など小中学校の野外活動や修学旅行だけだったので、慣れない場所で眠るという事は苦手だった。小暮に越してきた際も、アパートの自室で就寝と同時に眠りに落ちるようになったのは数週間が経過してからだった。
横向きになり、枕に耳を付ける。地面の奥で、ごうごうと音がした。
暫らくそうしていると、櫛引の方から腰の辺りをつつかれた。
「湊、起きてるか?」
「寝たんじゃなかったのか」僕は、微かに顔を動かす。
「外から、風の音がしないか?」
「それは昼からずっとだろ」
「違う」彼の声は、呻きに近かった。「山小屋の外からじゃない、このホールの外からだ。よく聴けよ、壁が全然音を立てていない」
言われ、不意に背筋の産毛がぞわりと撫でられたような気がした。
ホールの入口の戸が、がたがたと震えている。その中に、ぎりぎり、という唸るような、囀るような声が聴こえたようだった。
僕は不意に、山小屋の一室に何かが閉じ込められている想像を抱いた。部屋一杯にその巨躯を押し込まれ、壁を押し破ろうと身を震わせている光景だ。怒るように息を吐き出すと、それが暴風となり、内側から小屋を揺らす。そんな事を考えたからだろうか、暗い闇の中、僕は限りなく近い場所から視線を感じた。こちらを威圧するようでありながら、射るように鋭く睨んでいるようだった。
「調べよう」
櫛引は懐中電灯を点け、他の三人を起こさないよう手で光を隠しながら布団から這い出した。僕も懐中電灯を取り、彼に続く。
抜き足差し足でホールを出ると、玄関で何かが白く光った。ぎょっとすると、それは夕方に拾い集めた遺骨の籠だ。
「風が流れている」
夫婦の部屋や厨房がある奥の方から、冷たい風がこちらに吹いていた。甘ったるく粘つくような、喉がひりひりしてくるような匂いがする。間違いなく自然の生き物の匂いなのに、僕が知っている何にも当て嵌まらないようなものだった。強いて言うのなら、雨が降った後の土に近いかもしれない。僕は櫛引と顔を見合わせ、何処か奥に隙間でも空いているのだろうか、と話し合った。
濡れた土の匂いのする冷風に、僕はかつて東北に大凶作をもたらしたやませの事を考えた。青白い霧の立ち込める水田に、諦念を顔に深く刻みながらも泥だらけになって稲を植える農民たちの姿。そこから連想は広がり、今日交わされた情報が不思議な結合を生み出していく。
明治の大凶作。昭和農業恐慌。豊作飢饉。その間にあった、津篭の祖父や鹿嶋氏の師匠が遭遇した年越しの儀式。大正十一年、今年からきっかり百年前。そこを境に体調を崩しがちになった大師匠。今年は特別だったという花火大会。錯乱した三枝さんの曾祖叔母。子供が捨てられる山。街から姿を消す子供。花火大会は、享保の飢饉での犠牲者の慰霊の為に始まったという事。
突発的に吹き始めた冷たい風が、ばらばらな出来事の間を渡るようだった。
これらは何だか、出来すぎてはいないだろうか、と僕は思った。
* * *
「どうされましたか?」
昼間は行かなかった小屋の奥へ差し掛かった時、不意に目の前に、声と共に光が浮かび上がったので、僕と櫛引は危うく声を上げるところだった。立っていたのは、彼らの居住区から現れた主人だった。
「お手洗いですかな?」
「は、はい。すみません、うるさかったでしょうか?」
櫛引が言うと、主人は首を振った。
「いえ、何だか呼ばれたようでしたので。やはり、あなた方ではなかったのか」
「僕たちは呼んではおりませんよ。ところで、やはりとは?」
「いえね、どうも耳が悪くなってきていけませんや。何だか、皆さんではない嗄れた声だったように思ったんですよ。私たちと同じような、年を取っている声でね。早く来なくちゃ駄目だ、なんて言うものだから、てっきり何か問題があって、私たちが呼ばれたのかと」
数秒間、僕たちの間に嫌な沈黙が漂った。話を回避するように、櫛引が「ところでですね」と声の調子を変えた。
「この奥で、窓が開いているとか、壊れているとかはありませんか? 廊下にも風が吹いているようですが」
「さあ、ボロい小屋ですのであっちこっち隙間だらけでしてね。でも、確かに変だ。ちょっと見てみましょうか」
主人は身を翻し、厨房の方へ向かっていく。暗いと危ないですよ、と言い、僕たちも従った。居住区といっても彼らは生涯ここで暮らす、という訳ではないので、時々親戚が来て運営を代理してくれる事もあるという。その為、山の下の実家にあるような風呂などはないようで、奥の方もそれ程広くはなかった。
廊下の突き当りの曲がり角に小さな机が置かれ、空の水槽が載っている。これは何ですか、と櫛引が尋ねると、主人は一瞬びくりとしたようだった。
「お盆の頃、小屋の前に鯉が二匹現れたんですよ。沢からも遠く離れているのにおかしいなと思ったんですが、とにかく水のない土の上じゃ死んでしまうと思って、この水槽に入れて飼っていたんですがね。居なくなってしまって」
「死んでしまったのですか?」
「いえ、突然消えちまったんですよ。来るのも居なくなるのもいきなりでした」
主人の顔は、白い懐中電灯の光を浴び、段々青褪めていくようだった。
僕は、角を曲がった先を見る。その先にある二つの扉は、一つが厨房で、もう一つが裏口だ。裏口の扉に作られた磨りガラスの窓は異様に明るく、風を受けているのかみしみしと嫌な音を立てていた。
不意に、風向きが変わった。顔を刺すように流れていた風が、誰かが振り向いたかのようにさらりと逆流したのだ。ホールからずっと感じていた視線が、僕を睨んだまま移動した気配があった。
バタン! と音を立てて裏口の扉が開いた。凍てつく風が全身に叩き付ける、と思い、無意識のうちに体を強張らせたが、突風は背後から襲ってきた。僕は咄嗟に背を丸めたが、主人と櫛引はそれをせず振り返った。途端に、二人は風に押されるように床に尻餅を突いた。懐中電灯が外へと転がっていく。
僕は手を出して二人を助け起こし、三人で身を寄せ合うようにして外に出た。風圧に押されながら小屋の正面の方に回ると、奥さん、三枝さん、津篭、連が玄関を開けてそこに立っていた。誰もが無言で、風の流れる行方を見つめている。それは、砂塵や木の葉の行方ですぐに分かった。
山小屋のある空地を取り囲むように広がっている森で、木々が倒れ、立ち入り禁止のフェンスが押し倒された。その向こうで何かが動いた、と思うと、それは黒く、巨大な柱である事が分かった。
薄い赤茶色の不吉な雲が漂い、夜半には不相応な明るさを地上に投げ掛けていた空が、急に暗くなった。舞い上がった砂がびしびしと肌を刺す痛みに耐えながら、僕たちは引かれるように顔を上げた。
森の中で渦を巻いていた黒い柱が、空へと立ち上っている。誰かが「竜巻だ」と声を出したのは、それが山の斜面を進み始めたその時だった。




