「龍王」(『化物怪奇譚』)④
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「蓮台山──それが、江戸時代の終わりから明治にかけての、この山の名前よ。岩手の方にデンデラ野、もしくは蓮台野っていう場所があって、昔は皆貧しかったから、年を取って養いきれなくなったお年寄りをそこに追いやる風習があったのよ。姥捨て山と言ったら分かるかしら。『はすてな』は『母捨てな』の訛りで、小暮にも似たような習わしがあったのね。漢字が同じなのは、地方が近いから、デンデラ野の話と混ぜこぜにされちゃったのかも。
でも一九〇五年、東北地方を大凶作が襲った時の事よ。今でもやませって言って、夏になると北東から冷たい風が吹く事があるでしょう? 酷い時にはそれで冷害が起こって、稲が育たなくなるのよ。一九〇五年は雨も多くて、あの天明の飢饉以来の大凶作って言われるようになった。
食事の後で申し訳ないんだけれど、天明の飢饉の時はね、餓死した人の肉まで食べて乗り切ろうともされたのよ。冷蔵庫なんてない時代だから、塩で揉んでね、大きな樽に一杯に詰めたりして。後の時代になって調べたら、そういうものが東北の多くの家から見つかったそうよ。それと同じ事が起こったんだから、もう大変なんてものじゃないわよ。丁度日露戦争の終わりの頃でもあって、若い男の働き手は殆ど軍に取られていたしね。
そうなってくると、各世帯で小さな子供を養う余裕もなくなってくる訳。その時、この山に人を捨てる風習が手伝って、子供がここに多く捨てられるようになった。親としては勿論、身を引き裂かれるように辛い事だったに違いないわ。
『通りゃんせ』の歌に、口減らしの為に山に子供が捨てられる話だっていう解釈があるのは知っているかしら。天神様の祀られているお社へ行く峠道に、何故見張り番が立つような時間にお札を収めに行くのかしら? 何故『かえりはこわい』のかしら? それはね、子供が人身御供で、口減らしだったから、わざわざ危ない、暗い夜の山道をこっそり進んだっていう話があるのよ。
考えてごらん。龍神様の洞穴へ行く道は、『通りゃんせ』とそっくりだと思わない? 小暮の神様の代表は、あなたたちの調べている龍神様。そして飢饉の年の夜、捨てられた沢山の子供たちがそこで、お母さん、お腹空いたよー、って泣いたとしたら、それが鳴き龍の声と一緒に山中に響き渡ったんじゃないかしら。神様、どうか私たちがひもじい思いをしませんように、ってお祈りする時、どうしても小暮の人たちは龍神様を思い浮かべるでしょう。龍は豊穣をもたらす存在でもあるしね。その為に捨てざるを得なかった子供たちの声と一緒に、悲しい獣のような鳴き声が聞こえてきたら、大人たちは何を思うかしら?
この山には龍神様が居て、それが自分たちに応えて鳴いているんだ、って思うんじゃないかしら? 小さい頃に聴いたお話で、お母さんが言っていただけだから本当の事は分からないけれど、それが多分、宵啼山の由来と龍神様の関係よ」
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僕の出身地が庄内地方である事は、冒頭で既に述べた。
湊時雄が鹿嶋氏の下で花火作りを始めた、という話は、実家に伝わるや否や村中で話題になったらしい。母とのメールでは、父や同居している祖父は「そのようなつもりで大学へ行かせたのではない」と怒り、近所の人たちは有名人の弟子になったからには出世し、お金が入るに違いないと喜んだとの事だった。
父が僕に願った事は、自治体の存続すら危ぶまれている村の立て直しだった。僕も大学に入り、師匠に弟子入りするまで考えていた事は、大学を卒業して地元にUターンし、公務員になる事だった。大学に進学した理由も、卒業したという実績が欲しかったからに他ならない。
湊家は、村の中で一目置かれる家だったのだ。それは一九三四年、昭和農業恐慌の際の曾祖父の活躍に端を発する声価だった。
祖父が生まれたのは一九三二年、農業恐慌の真っただ中だった。東北地方は冷害が多いという話は山小屋の奥さんからもされたが、それは僕が昔から祖父や父に聞いてきた事でもあった。
昭和恐慌、その先駆けとなった世界恐慌で米国の経済が停滞。日本製生糸の最大の輸入国であった米国への輸出量が激減した事で、その他の農作物の価格も暴落。その年は豊作だった為米価も下落しており、米と養蚕が主な収入源だった当時の国内の農村はそれを絶たれる形となった。
米が豊作飢饉と呼ばれる状態だった中、来る一九三四年は冷害の年だった。恐慌により失業し、地方へ帰村した人々も多く、農家の経済状況は火の車となった。太平洋戦争中の供出制度により取り締まり対象となる以前だったので、青田売りが横行し、それも農家の弱みに付け込む金融業者への叩き売りだった為却って貧窮を招いた。記録によると、当時の欠食児童は全国で約二十万人、また口減らしや収入の為、身売り同然の女子の出稼ぎや嫁入りも社会問題となった。
湊家は明治維新の最中、田畑永代売買の禁止令が解かれた事で、庄内藩の豪農から巧みな交渉を経て独立、地券を得た。それは飢饉の経験から、米を独自に備蓄するという事を行べく融通を利かせた為だと言われている。その習慣は高祖父から曾祖父まで受け継がれ、前年の豊作の折も、曾祖父は無理に安い価格で米を売ろうとはせず備蓄に努めた。
その結果、大凶作の中で曾祖母が身籠った祖父は堕ろされる事なく生まれ、自前の米や、少ない肉や野菜を中心に食糧危機を凌いだ。そればかりか、村の役場にコネを使ってその米を寄付し、村長を通じて住民への援助も行った。曾祖父の行動がなければ湊家の血は絶えていたどころか、戦前の時点で僕の生まれた村は存在しなかったとまで言われている。
心労が祟ってか、農業恐慌が落着してから曾祖父は体調を崩しがちになり、父が生まれる以前に世を去った。
祖父から父へと伝わった逸話は、それだけに何か神聖な偶像のような格調を帯びていた。運命という言葉程慎重に扱うべきものはないが、僕は山小屋の奥さんの話を聴いた時、どうも県境の山脈の向こうに預けたとばかり思っていた因縁が、未だに僕の後ろで引き摺られているような気がした。平たく言えば、お前は一体何をしているのだ、と実家から叱責されるような気まずさだ。
無論、僕はどんな仕事にも優劣を付けるつもりはないし、師匠である鹿嶋氏の事はずっと尊敬している。鹿嶋氏の師匠、僕にとっては顔も知らない大師匠のように、成すべき事を成して人生の終焉を飾れるのなら、それはその道に生きる人たちの本懐だと思う。
だが僕の成すべき事とは、一体何なのだろう。




