「水晶球の双魚」(『化物怪奇譚』)⑦
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三日間、僕は母が双魚球を保管している場所について考えを巡らせた。
祭りが今夜に迫り、僕は一度、母がかつて辿った場所を歩いてみようと思って単身辰巳の森に足を延ばした。
国道に面した森は、神社がなくなった事で北条家の墓もある量仁寺へと抜ける細道が出来、神社の跡地へ行くには一旦獣道へと入らねばならない。昨日も今日も抜けるような晴天で、木漏れ日がちらちらと道に差し込んでくる。道端の背高草が群生している辺りで何かが駆け抜けていったようにざわざわと音がしたが、反射的に見ても何も居なかった。風の悪戯だったのかもしれない。
獣道を進んでいくと途中に空地があり、暗い影を落として佇む屋敷がぽつんと立っていた。その玄関先で、宅配便の制服を着た若い女性と初老の男性が何やら話をしており、こんな所に人が住んでいたんだ、と少々意外だった。
彼の敷地だと困るのでその空地を大きく迂回し、更に進む。
それらしい場所は、すぐに見つかった。「売地」と書かれた札が立ち、撤去された鳥居の礎のようなものが残っている。かつては柱連縄が掛かっていたと思われるご神木は伐採されていなかったが、購入者次第では切られるのだろうな、と考えると少し切ない感じがした。
低木の密集した一画に、石の台座がある。この上に稲荷社でも載っていたのか、と想像しながら、僕はそこに近づいた。
羽立氏の死と双魚球の奪還により、父は一度、呪縛から解放されたのだ、と信じたかった。そうでなければ、六郷堀に流れ込んだ大量の命に説明が付かなかったし、彼らも浮かばれないように思った。
母が、自分にしか出来ない方法で取り戻したもの。その顛末が、来るべき時まで隠し通されるはずだったとしたら、と考える。脳内で目の前の空地に社殿を復元し、そこに立つ母を鮮明に写し取ろうとした。
永遠に続きそうな思考の後、僕はスマートフォンを取り出した。
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家からバスと電車を使って一時間程の場所にある母の実家には、僕の祖父母が二人だけで暮らしている。父が度々、北条家で一緒に暮らさないかと勧めているものの、彼らは自分たちがまだ元気で、家も気に入っているからと断り続け、あまり強くは言えないでいるそうだ。
お盆に顔を出してから間もない僕の訪問に喜んだ彼らだったが、僕が双魚球の事を切り出すと、たちまち顔を強張らせた。その反応を見て、僕は自分の予想が当たっていた事を悟った。
既に供華さんには連絡し、勢威さんや鹿嶋氏に、打ち上げの時刻までに僕が必ず双魚球を百々目川に持っていく、と約束した。その時点で午後になっていたので、自分でも無意識のうちに切羽詰まった口調になっていたのだろう。彼女は何も質問せず、「分かりました」と答えた。
「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、これは大切な事なんだ。母さんは、あれを封じようとしたんじゃない。守ろうとしたんだよ」
祖父母は、きっと双魚球が災いを招いたのだと思っているのだろう。自分たちの娘は、それに取り殺されたのだと。だが、僕たちに降り掛かった一連の出来事に於いて、双魚球は原因ではなく、結果だ。
「あの子が──佳江が死んだ時、こういう事が起こる日が来る事は、何となく分かっていたのよ」
僕が頼み込むと、祖母は長い間目を閉じていたが、やがて深い諦観を含んだような息を吐いた。
「周作君の中で、あなたは何度も私たちに頼みに来たのね。そして今度はあなた自身がこうしてやって来た。……話は、周作君から聴いていたわ。私たちも、分かってはいても怖かったのよ」
二人は、僕を物置に案内してくれた。その奥に埃を被った和風の木製金庫があり、祖父がその鍵を開けた。中にはまた桐箱があり、その中から目的のものがやっと姿を現した。
それは、僕の想像していたものと寸分違わぬものだった。
鹿嶋氏の言っていた通り、工場で見せて貰った七号玉と同等の大きさの水晶。中には、ゆらゆらと揺れる真鯉と緋鯉の絵。二匹は、円陣を描くように互いの尾を追い、あたかも和太鼓の巴紋の一つが欠けたような位置取りで揺蕩うように見えた。触れてみると、それは人肌のような熱を帯びていた。
「……ありがとう、父さん、母さん」
僕は合掌し、目を瞑って頭を下げた。
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緩衝材を詰めて球を入れたリュックは予想以上に重く、祖父母宅から最寄り駅までの道程は異様に長く感じられた。既に時刻は夕方五時を回り、会場に向かう為か納涼姿の人々も多く見られるようになっていた。
最初の打ち上げは七時。家から百々目川までは少し離れているので、一時間掛けて家に戻る事を考えると、余裕はそれ程ない。
駅の改札を抜ける際、電光掲示板に表示されていた数字が僕の焦燥を煽った。行き交う人が多かった事、重いものを背負っていた為歩くのが遅かった事で、一本前の電車に間に合わなかったらしい。
父は、この僕を見続けてきたのだろうか、と思った。また、母はどのような気持ちで、雨の中を実家まで歩いたのだろうか、とも。
「これはね、慎平ちゃん。私たちのご先祖様が、ずーっと昔に生きていた世界から来たんだろうねえ」祖母の声が、聞こえた気がした。
「昔は私たちも、この陸奥の未開だった頃は自然と仲良しだったんだよ。呪いなんかじゃないって、慎平ちゃんが思ってくれて嬉しいわ。今でも、その大切なものを私たちの世に託してくれる神様は、きっと寂しがり屋なんだろうねえ……」
ホームに電灯が点き、遠くから電車の音が近づいてきた。
* * *
人でごった返す土手を、僕は必死に河川敷へと降りようとした。急ぎながらも、暗い足元を滑らせないように気を付けて。来る途中で主催者のアナウンスが聞こえ、橋の方まで行く時間はもうないと思った。
岸辺で、父が待っていた。何かを言いたそうに口を開いたが、僕は聴いている余裕などなかった。対岸に鹿嶋氏や、浴衣姿の供華さんや勢威さんが見え、僕は躊躇う事なく浅瀬に足を踏み出す。
十メートル程進んだ時、僕は膝下にぬめぬめとした感触と、重い抵抗を感じた。見ると、足が濁った血に塗れている。
それは、僕の血ではなかった。黒々とした川面がまだ淡い月光を反射して、僕は目の前に広がっている光景の全貌が分かるようになる。
僕は川の真ん中で、無数の死んだ魚に取り巻かれていた。岸からだとよく見えないのか、振り返っても見物客たちが声を上げる事はなかったが、確かにそこに浮かんでいるのは大量の鯉だった。深い石の色をした鱗が、ギラギラと嫌な光り方をしているのが鮮明に見えた。
鹿嶋さん、と僕は叫ぶ。自分はここに居ると知らせたかった。僕は約束通り間に合ったのだと伝え、もう少しだけ待って欲しかった。だが、彼らにその声は届かない。勢威さんが、誰かが川に落ちて捜索が行われている時のように、腕時計と思われるものを掌の上に載せて一心に睨んでいる。その傍らに、僕は見知らぬ女性の姿を認めた。それが誰なのか、僕にはすぐに分かった。
足ががくがくと震えた。足を挙げる度に魚が流れていき、その足を浚おうとする。靴はとうに流され、砂利が足の裏を突き刺して痛い。
「慎平」
背後で、父が僕を呼んだ。振り返ると、彼は申し訳なさそうに顔を歪め、彼自身も魚で溢れ返る川へと足を踏み入れようとしていた。
駄目だ、と叫ぼうとした時、僕は転倒した。水音が鼓膜を満たし、急激に遠ざかっていく夜空に大きな火薬の花が咲いた。
* * *
目が覚めると、デジタル時計は八月十五日、午前八時三十分を示していた。
何だか、随分長い夢を見ていたような気がした。夏休みだからといっても、少し寝坊しすぎたかもしれない。僕はベッドから起き出すと、着替え、洗濯物を持って廊下に出た。
二階の客間の方から、父が誰かと話す声がする。お客さんが来ているのかもしれない。少し気になり、僕はドアを開けた。
「この水晶によく似た宝玉を知りませんか?」
見覚えのある男性が、何かを父に差し出しながら話していた。背伸びしてそっと覗き込むと、それは大きなガラス玉のようだった。
僕に気付いたのか、父とその男性がこちらを向いた。おはよう、と父が小さく声を掛けてきたので、僕も「おはよう」と返した。
「ねえ、お父さん」僕は、こんな事を口に出していた。「また、駄目だったみたいだよ」
「……そうか」
答えた父の顔は、酷く寂しそうに見えた。
僕の夢は、今初めて覚めたような気がした。父は、これを何回も、何十回も経験したのだろうか、と思う。だけど、これで僕と二人になれたのだから、きっと大丈夫だと思う。何が大丈夫なのかは、よく分からないけれど。
勢威さん、と呟くと、男性が微笑んだ。「北条さんのお子さんは耳がいいね」と言って頭を掻く。
それでもまだ、僕は夢の中に居るようだった。
(水晶球の双魚・終)
『化物怪奇譚』連作第四弾「水晶球の双魚」の修正作業が終わりました(2025/12/23)。本連作の中で最もマイルドで、そこまで怖い話ではないのですが、代わりに「幻想」的な要素が強まった感じがします。作者自身特に気に入っているエピソードで、昨年大学のゼミ課題でゲームのプログラミングを行った時、私はテキストノベルRPGを制作して中の一編を本作のリメイクにしました。
本作は、時系列的には表題作の終盤に位置する話です。作中に刑部さんと霞さんがちらりと登場している他、「神」の主計さんや木戸君と思われる人物に言及されたり、第五弾「龍王」の主人公となる湊君が名前だけ登場したりします。あと、鹿嶋氏は「蜘蛛」で霞さんが名前を出していました。
noteで投稿を行っていた頃、連載終了後に時系列表をXでポストしました。登場する時代と出来事がかなり幅広く、戦時中やバブル時代など史実も含まれる上、既に投稿した他の作品とも辻褄を合わせなければならなかった為です。以下にそれを転記します。
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1915年 有鱗屋創立
1919年 北条粂蔵誕生
1922年 「化物の百年間」開始
1939年 粂蔵、有鱗屋を世襲
1943年 勢威太一の伯父出征、双魚球を粂蔵に預託
1944年 粂蔵出征、同年傷痍軍人として帰国
1945年 空襲により有鱗屋店舗全焼、終戦
1967年 周作誕生
1985年 周作、有鱗屋を世襲
1987年 バブル開始
1990年 周作と佳江結婚
1991年 小売店が倒産、店主一家が夜逃げ
羽立傅吉、周作に接触
1992年 羽立、周作から双魚球を買い取る
1999年 羽立、小暮に侵攻し失敗。加苅神社全焼
佳江、双魚球を実家に保管
2002年 慎平誕生、佳江が死亡
2003年 霊園の経営終了、量仁寺先代住職死去
2007年 勢威、周作に初接触。粂蔵死去
2012年 安里真悠子結婚、小暮にUターン
末崎彰人、量仁寺を世襲
2022年 龍王復活の年(本編開始)
これにより、表題作の執筆当初は設定していなかった作中の年代を明確にせねばならなくなりました。現実ではコロナ禍の真っ最中でしたが、作中にそういった要素が見られないのはその為です。この表だと周作と佳江が結婚してから慎平君が生まれたのが十二年も後という事になり、今考えるとやや不自然な感じがします。
「蜘蛛」で言及された通り、小暮と重なり合い存在する異界の龍王は百年ごとに復活する訳ですが(双魚球は休眠状態の龍王の力が封じられたもの)、羽立という男は小暮の外に存在する龍王と同等の存在で、龍王が休眠状態に在る隙にその縄張りを奪おうと画策し、慎平君のお母さんが力が不完全な龍王を一時的に自身に降ろして彼と戦った、というのが加苅神社が全焼した日の真相です。彼の名前は「雨竜(短い角の生えた竜)」に由来し、その正体を示唆するものとなっています(不吉なもの、不気味なものに由来するネーミングは本作でも健在で、鹿嶋氏は学校の有名な怪談「カシマさん」、安里真悠子さんはゾロアスター教の悪神「アンリ・マユ」から来ています)。
最後の場面は、慎平君もまた双魚球の打ち上げに成功するまでのループが始まった事の表れです。とはいえ、彼はお父さんとは異なり、一回目で既に双魚球の在処に辿り着いていたので、二回目では必ず打ち上げに成功させるでしょう。無論、鹿嶋氏の言う慎平君にとっての「客観の現実」を生きている他の人々は、何事もなく慎平君が花火を打ち上げ、花火大会以降の時間に進んだように見えます。
彼が巻き戻った日付が八月十五日である事には、特に意味はありません。「夏」と「ループ」からカゲプロを連想し、何となく設定しただけです。




