「水晶球の双魚」(『化物怪奇譚』)⑥
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翌日とその翌日、供華さんから新たな連絡はなかった。
花火大会の三日前、僕は元の目標であった文化人類学のレポートを仕上げる為、供華さんを訪ねようとした。あまりにも多くの人がそれを目当てに動いているので忘れそうになるが、僕と彼女が定期的に会っていたのは元々、双魚球ではなくレポートが主な目的だったはずだ。
メールで確認したところ、供華さんは昨日も一昨日も、安里さん以外に有鱗屋と勢威さんの共通の知り合いを訪ねて聞き込みを続けていたという。だが、やはりこれといった手応えは感じられなかったそうだ。
僕は、この事について話さねばならない事がある、と彼女に伝え、同時にレポートの事を言った。供華さんはすっかり失念していたらしく、動揺したようにあっと声を上げ、遠慮がちに『ちょっとだけ写させて下さい』と口に出した。
祭りの前の静けさというのだろうか、世は夏休みだというのに、子供の声が何処からも聞こえてこない閑静な住宅街を歩きながら、僕はまた思索した。
母は二十数年前、父を救おうとしたのだろうか。
僕の推論では、双魚球の保管と、それを来るべき時、定められた場所に返す事は、それに関わった者たちの義務だ。父は義務を果たせなかったから、果たせるまで苦しみ続ける事となった。
父が鯉の夢を見たのは、彼に対する罰だったのではないだろうか。彼は何度も何度も、それから逃れようと足掻き、叶わずに命を落とした。母は、そんな父を解放しようとし、羽立氏から双魚球を取り戻そうとした。ややもすると、母もまた同じように囚われていたのかもしれない。
その手段については、僕にも確証が持てない。だが、母が双魚球を取り戻した可能性は高い、とは思っていた。
父は羽立氏の住所を二箇所も捜索し、それでも双魚球は発見されなかった。
母は双魚球を取り戻し、解放された。だが、最後の最後で判断を誤った──。
* * *
「おはようございます、北条君」
僕たちは、クーラーの効いた図書館で会う事にしていた。
少し早く行くと、供華さんは例の通り約束の十分前に着いており、控えめにこちらに手を振っていた。今日は腹部の微かに見える短めのTシャツにベスト、太腿までの丈のショートパンツという出で立ちで、まだ見た事のない服装だったが、姫カットと先端のカールした長髪ですぐに判別出来た。
そして、彼女の傍らには思いがけない事に、作業着姿の老人が立っていた。
「あれ、鹿嶋さん?」
声を掛けると、供華さんの師匠・花火職人の鹿嶋氏は顔を上げた。
「おお、慎平君か。久しぶりだねえ」
「工場の方、放っておいて大丈夫なんですか?」
「先輩がお留守番をされていますので。師匠、北条君が何かお話しをお聞かせ下さるって申し上げたら、是非聴きたいって仰って」
供華さんは、ちらりと彼の方に視線を移した。「師匠、北条君がある程度までこの一件の内面に迫っているなら、花火大会と双魚球がどう関わるのか、私にも教えて下さるって仰るんです」
「……慎平君」鹿嶋氏は、僕を見上げるように顎を上げた。「これは、小暮の伝承を受容しないと、君には耐え難い事かもしれない」
「分かっています。このままでは、僕も供華さんも勢威さんも、皆父と同じ末路を辿る事になる事も」
鹿嶋氏は、否定しなかった。それだけで、僕には十分だった。
──この街にはな、化け物が居るんだよ。
僕にそう言ったのは、誰だっただろうか。
* * *
供華さんが僕のレポートを参考に──そのまま写すと機械に掛けられた時に露見する──ペンを動かしている間、僕は父から聞いた話を、自分の推論も含めて二人に語った。
鹿嶋氏は一切容喙する事なくその話を最後まで聞いていたが、僕が口を噤むと、今度は自分の番だというように咳払いした。
「双魚球は、花火玉なんだ。サイズで言えば、七号玉くらいだろうね」
「花火玉?」供華さんが、手をぴたりと止めた。「素材は水晶ではないんですか?」
「人の世の素材で言えば、それに近いものなのだろう。慎平君ももう知っていると思うが、花火玉には『星』という薬剤を詰める。この配合に微調整が利かなかったり、詰める位置がズレたりすると、酷く汚いものになるんだ。透明で、向こう側の景色が見えるような花火玉など存在しない」
「つまり、この世のものではないと?」
「卵と言ってもいい。花火は鎮魂と平和の象徴、それを打ち上げる為の炎で温めると、卵は孵り、在るべき存在が小暮に戻る。……勢威太一君は、前当主の甥だ。先代の息子が病死しなければ、双魚球の継承者の直系を継ぐ事はなかった。きっと彼も、双魚球の重要性を知ったのは近年なのだろう。だから、私としてもあまり彼を責める事は出来ない」
鹿嶋氏は、ふっと溜め息を吐いた。僕と供華さんは、重々しく押し黙ったまま顔を見合わせる。静かな図書館に、クーラーのファンが動く音のみが響く。その中に、僕は微かに水の流れる音のようなものを拾った。
「……連帯責任、なんですかね」
供華さんの、普段は璆鏘とした声が、今は少し掠れて聞こえた。
「北条君のお父様が双魚球を手放した後、罰を受けたのは彼だけでした。花火大会で双魚球の打ち上げを行えなければ、私たちも囚われる事になる。……こんな言い方をするのは、北条君に失礼かもしれませんが……」
「慎平君。佳江さんは、間違いなく呪縛から解放されたはずだ。君の推測通り、彼女は身を賭して羽立を滅ぼしたのかもしれない。それが何だったのかは、彼女がイタコの血を引いていたという事から考えられないだろうか」
「母は……」
僕は、父が母から聞いたという夢の話を想起する。
父の及ばなかった鯉の滝登りを、母は成し遂げた。そして彼女は龍となった。
登竜門を越えた鯉は龍となる。そして双魚球に描かれていたという、生きているかのように泳ぐ双魚もまた鯉だ。
「……降ろしが、行われたのかもしれません」
そう、父の鯉の夢の頻度が減少するきっかけとなった、加苅神社全焼の日。母は、神社に居たに違いない。そして、羽立氏から双魚球を取り戻したのだ。本来、羽立氏と相対すべきものが、その時はまだあまりに脆弱すぎた。
だが母は、取り戻したものを、何処にやってしまったのだろう。
「佳江さんを──お母さんを恨んではいけないよ、慎平君」
鹿嶋氏が言った。
「もし佳江さんが行動を起こさなかったら、周作さんも彼女も、永遠に滝登りを続ける事になっていただろう。君は、誕生日を迎える事が出来なかった。佳江さんが君を産んだのは、彼女が起こした最後の奇跡だったんだ」
「奇跡?」
「彼女は、あの後自分が死ぬとは思っていなかっただろう。だから、本当の解放が起こる日まで双魚球を隠しておくつもりだった。恐らく、羽立と同等の存在が他にも居ると、佳江さんは考えたのだろう。有鱗屋に双魚球を戻せば、また父が苦しめられ、過ちを繰り返す事になるかもしれないと。
だが、君の考える通りの降ろしが行われたならば、彼女は既にこの世ではない場所と接触してしまっていた。君を──新たな命を育むのがやっとという程に、体は摩耗してしまっていたのだろう。
結果として、彼女が隠した双魚球を探す役目は周作さんが背負ったままとなった。そして彼は、何度も時限までに探し終えられなかった。君が代わりに、何度も、何度も探した。勿論これは推測で、私が君や供華君の行動を知ったのもこれが初めてだがね。……君は何度も見つけて、私に届けようとした。それでも、ほんの少しだけ間に合わないんだ」
* * *
「こういう命題を知っているかな?」
供華さんがレポート作業を終え、このまま本を読みもしないのに図書館に居座って話し続けるのもどうかという事で、僕たちは場所を変える事にした。建物を出て、住宅街から大通り沿いに街の方を目指す。
オープンテラスのあるかき氷屋を見つけ、鹿嶋氏はそこでイチゴ練乳を三つ買って二つを僕と供華さんに手渡してきた。僕がお金を持っていない、と言うと、彼は「孫にご馳走するようなものだからいいんだよ」と笑った。
三人席に座って間もなく、彼がこう言った。
「全人類がある日突然、眠りから覚めなくなった。そして、皆で同じ夢を見始めた。夢の中では、自分が夢を見ているという事すら気付けないだろう? その時、それは現実ではないだろうか」
「それって……」
似たような映画を見た事がある気がする。だが、供華さんの連想したものは違っていたようだった。
「全人類、というのが誇張した表現だとしても、当事者たちからは絶対に気付けないと思う。これは、小暮の伝承にも布衍出来る事だ。異界に彷徨い込んだ人たちは、それを現実だと信じて生き続ける。だが誰かから見れば、世界は全く違う。全く違う世界に、客観の彼らが居る」
「客観の、彼ら……?」
「勢威君は、いつかこうなる事を薄々知っていたのではないかな。君たちを怖がらせない為に、安里さんに故意に事実を隠して伝えたのかもしれない」
僕たちが安里さんから聴いた話は、供華さんを通じて鹿嶋氏も知っているようだった。
僕は、ごくりと唾を嚥下する。口内に残っていたシロップのせいか、微かに甘い香りが鼻腔を抜けた。
「私は例の大雨の日、勢威君と一緒に増水した六郷堀を辿った人間の一人だ。田んぼとの接続地点に、確かに魚の死骸は沢山詰まっていたが、それらは百々目川に居る鮒や岩魚ではなかった」
はっと、僕は思い至った。そういう事か、と思うと、どうしようもなく泣きたいような気持ちになった。
「全部、鯉だったんだよ」




